第四十七話: 篝の章1 崩壊ー始まりー
目を覚ました直後、彼女は深い闇の中にいた。
湿った土の匂い。重く沈んだ空気。
その肌に触れる風すら、長い眠りの果てに忘れ去られていた。
「……ここは……どこじゃ……?」
掠れた声が漏れる。身体は重く、指先すら思うように動かない。
だが、確かに“生きて”いた。
カガリはゆっくりと身を起こした。周囲は雑木林のような小さな林で、夜の帳が降りていた。
人の世の気配はあったが、それは馴染みのあるものではなかった。
「儂は……まだ、滅びきってはおらなんだのか……」
月明かりの下、自らの手を見る。
かつて白く細かった指先は、今や黒く染まり、妖気の残滓がまとわりついていた。
人としての命は、もう戻らぬ。
それでも――魂の奥底に、かすかに“何か”が灯っていた。
「宗雅……」
誰に聞かせるでもなく、その名を口にする。
思い出したのは、過去。戦いの果てに見たあの涙。誰よりも深く、自分の悲しみに寄り添おうとした者の姿。
その名を呟いたとき、不意に風が動いた。
背後に気配。気づくより早く、数本の御札が彼女を取り囲む。
「……動くな!今日こそは…」
声を上げたのは若い陰陽師だった。
逢魔の末端――おそらく見習いか、任務に出始めたばかりの若者。手は震え、術も未熟だ。だが、怯えながらも目を逸らさずにいた。
カガリは、その若者の瞳をじっと見つめた。
「……面白いの。儂に術を向けておるというのに……泣きそうな顔じゃ」
「……妖魔、カガリ……お前を、拘束する!」
その言葉を聞いて、カガリは初めて小さく笑った。
(そうじゃったな…今はこやつと…。現世に目覚めてから、どうも記憶があやふやじゃ…)
「拘束じゃと? ……ああ、そうじゃの。わしは……縛られるべき命じゃ」
若者の術は拙く、そして何より――情け深すぎた。
一合交えるまでもなく、カガリは姿を消した。木々の間をすり抜けるように、夜の闇へと溶けていく。
その夜、運命は動き出そうとしたのだろう。
優しき心を持ちながら、一人の邪道に堕ちた男の策略により、妖魔へと身を堕とした女。
愛しき両親を妖魔に喰われ、その心を修羅へと堕とそうとしている若者。
あるいは、その出会いは運命が引き合わせた必然だったのかもしれない。
こうして――妖魔カガリは、再び人の世に足を踏み入れた。
封印を破って蘇った怪異。
だが同時に、それはひとつの「願い」が結晶化した帰還でもあったのかもしれない。
――かつて誰かが願った、救いの可能性。
――未だ失われていない、魂の欠片。
そして物語は、静かに、再び始まっていく――。
白鐘篝は、穏やかで優しい笑みをたたえながら、人々の心に癒しを届ける巫女であった。彼女はいつも丁寧な口調で話し、誰に対しても分け隔てなく接していた。
「お疲れのことと存じます。どうぞ、こちらでお休みくださいませ」
そう語りかける篝の声は、まるでそよ風のように柔らかく、傷ついた人々の心をそっと包み込むかのようだった。
彼女は「癒やしの巫女」と呼ばれ、多くの人々から慕われていた。その優しさと清らかさは、安倍縁が「癒やしと守りの申し子」として尊ばれていたのと並び称されるほどであり、周囲は二人を双璧と讃えた。
だが、そんな篝の穏やかな日々は長くは続かなかった。
やがて彼女の周囲に影が差し込み、思いもよらぬ裏切りと絶望が訪れる。
最愛の恋人、藤原志晴までもが篝から離れ、冷たく背を向けてしまったのだ。
志晴は、篝に心からの愛情を抱きながらも、何かに囚われたように、彼女の元を去っていった。
それは芦屋冥道が仕組んだ恐ろしい策略の一端であった。
冥道は篝を妖魔へと変え、その強大な力を己の計画の道具にしようと画策していた。
篝はその運命に抗うことができず、悲しみの中で処刑される運命を辿った。
しかし、その胸には最後まで人としての優しさと強い意志が残っていた。
まだ誰も知らない、篝が抱えた深い悲しみと葛藤の物語。




