第四十三話 凛夜の章4――今はまだ弱き者の叫び――
――あの夜以来、少年は独りだった。
安倍紅明の屋敷を後にしてから、久遠凛夜は一切の帰る場所を持たず、ただ一人、闇の中をさまよい続けた。
持つのは名ばかりの力と、剥き出しの憎しみだけ。
凛夜は自らの心の内に巣くう憎しみを、御しきる事は出来なかった。
「くそっ……!」
人気のない裏路地。
独学で紡いだ式符が、失敗とともに破裂し、手のひらがまた赤く焼けた。
焼け焦げた煙と共に、込み上げる怒り。
それは自分自身への苛立ちでもあり、あの日、力なく膝をついたあの瞬間への、終わらぬ悔恨でもあった。
「俺が、もっと強ければ……あの時……!」
両親の最期――あの血に染まった光景が、まぶたに焼きついて離れない。
それを救えなかった己の無力が、心を苛む。
「強くならなきゃ……ならねぇんだ……」
それが、復讐に囚われた少年のすべてだった。
* * *
生きるために、式を盗んだ。
空腹を満たすために、符を売った。
その日暮らしの中でも、凛夜はただ、術を学び続けた。誰から教わるでもなく、闇に、死に、痛みに学ぶ日々。
だがある日。
彼の前に、一人の異形が現れた。
「やっと、見つけた……」
その声は、人間ではなかった。
肌は青白く、目は爛々と紅を灯し、異様に伸びた指先は獣のように鋭い。
「貴様……久遠家の血か……」
凛夜の背筋が凍った。
その妖魔の気配は、今までに出会ったどの存在とも比べ物にならない。
瞬間、動いた。
凛夜の足が、勝手に反応した。
術を放つよりも早く、身体が生き残るための本能を選んだ。
それでも、追いつかれる。
すぐに、背後に気配を感じた。背中に冷たい爪が触れた――その瞬間。
「離れな」
鈍く、重たい音とともに、妖魔が吹き飛んだ。
「……なんだ、てめぇ」
「まったく。お前、いつからそんなに鈍くなったんだ?」
皮肉げに笑いながら現れたのは、赤い外套に身を包んだ男。
安倍紅明だった。
「紅明……!」
「ったく、お前は昔からそうだ。勝手に飛び出して、勝手にボロボロになって……。やれやれだぜ」
紅明は呆れたように肩を竦め、指先ひとつで式符を放つ。
妖魔は反応すらできずに爆散した。
「……なんで、ここに……」
「たまたま、だ。俺の式がちょっとばかし妙な反応をしてな。探ってみたら、お前が死にかけてたってわけだ」
凛夜は俯いた。
「助けなんて、頼んでねぇ……」
「知ってるよ。お前はそういうやつだ。――だがな」
紅明は静かに言った。
「……死んでどうすんだよ。復讐も果たせずに終わる気か? だったら、あの日死んどきゃよかったんだ」
凛夜の目が、わずかに揺れる。
「お前の力じゃ、まだ奴には届かねぇ。……悔しくねぇのか?」
「悔しいに決まってんだろ……!」
叫ぶように吐き出した声に、紅明は満足げに笑う。
「なら、戻ってこい。お前がやるべきことがあるなら――黙って死ぬんじゃねぇよ」
その言葉が、冷え切っていた凛夜の胸に、わずかな火を灯した。
憎しみも、怒りも、痛みも、消えちゃいない。
けれど、今はまだ。
――立ち止まっているわけにはいかない。
「……わかった。教えてくれ、紅明」
凛夜が顔を上げた時、その瞳はかつての少年のものではなかった。
そこには、修羅に堕ちる寸前で踏みとどまった、若き陰陽師の覚悟が宿っていた。
紅明はその目を見て、短く笑った。
「ようやく、目が覚めたか。――さあ、地獄の稽古を始めるぜ、凛夜」
(ひとまず…ってとこか。だが…)
その日、久遠凛夜は再び歩き出した。
この復讐の道を、ただ一人で終わらせるために――。




