第四十二話:凛夜の章3 断章:仇の名を知る日
昼なお陰を落とす深山の稽古場に、少年の荒い息が響いていた。
「――はぁ、はぁ……っ!」
久遠凛夜は、手のひらを擦りむき、額から汗と血を滴らせながら、なおも倒れ込むことを拒んだ。
その目には、確かに宿るものがあった。執念、怒り、そして……呪いのような執着。
向かいに立つ紅い衣の男――安倍紅明は、煙管をくわえたまま、それをじっと見下ろしていた。
「……なんでぇ。こんなもんで根をあげちまうのか。やる気がねぇならやめちまいな。所詮、お前はその程度だったってこった」
煽るような、鋭く突き放す声音。
しかし凛夜は食いしばる。
「……やめねぇよ……俺は……あいつを殺すまでは……!」
紅明の眉がわずかに動いた。
「……あいつ」とは、誰のことか。
「仇だ……俺の両親を殺した、あの妖魔を……! 俺は……あいつを、八つ裂きにしないと……っ!」
その言葉と同時に、凛夜の瞳の奥が赤黒く染まった。
まるで何かに取り憑かれたような闇の気配――それを見た紅明は、表情を引き締める。
しばしの沈黙ののち、彼は煙管の火を消し、ぼそりと呟いた。
「……なら、教えてやる。お前の仇の名は――芦屋冥道だ」
凛夜は硬直した。
「……芦屋、冥道……?」
胸の奥で、重い扉が音を立てて軋むように開いた感覚。
初めて聞いたはずの名なのに、心のどこかが異様に反応した。
ざわつき、疼き、怒りが奔流のように湧き上がる。
「誰だ……そいつは」
「お前の両親を殺した張本人……いや、“元凶”だ。妖魔を操り、影から現代の陰陽を蝕んでいる外道だよ」
凛夜の拳が震えた。
だがその目には、憤怒というよりも、冷たい決意が宿り始めていた。
「まだ……生きてやがるのか」
紅明は背を向ける。
声は低く、だが鋭く凛夜の胸を貫いた。
「お前が本当に冥道を倒したいなら、自分の“憎しみ”を制することだ。じゃなきゃ、お前も……いずれ奴と同じものに堕ちる」
「……は?」
「力に溺れ、復讐の名のもとに心を腐らせ、何もかもを壊す。そうして、“かつての芦屋冥道”ができあがったんだよ」
凛夜は黙っていた。
いや、否定したかった。
憎しみこそが、自分を立たせている。生きる理由だった。
それを“否定”されたことが、何よりも腹立たしかった。
「……俺は、奴を殺す。そのためなら、何にでもなってやる。たとえ修羅になってもな」
その姿を、紅明は悲しそうに見ていた。
(今はまだ…俺の言葉はととかねぇか…だがいつか)
そう願わずにはいられない。
紅明は知っていた。久遠の血の危うさを。
(宗雅はその血の呪縛を乗り越えた…だが…このままじゃこいつは)
生きる術はおしえた。戦う力も。だが…それだけでは足りない。それだけでは駄目なのだ。
やつを殺す―――そう呟いた夜、凛夜は紅明の屋敷を出た。
誰にも何も告げずに。
心には、まだ燃え尽きない黒い炎だけを残して。
紅明は、遠ざかる凛夜の気配を背に感じながらも、ただ願うことしか出来なかった。
今、自分が何かを言ったとしても、凛夜の心には届かない。
(俺では…駄目なのだろうな…。願わくば、あいつの心を溶かしてくれる誰かに…)
紅明はそう願わずにはいられなかった。




