第四十話 凛夜の章① ― 闇に堕ちた夜 ―
その夜、風がざわめいていた。
どこか遠くで梟が鳴き、草の匂いが重く湿っていた。幼い久遠凛夜は、両親の様子がいつもと違うことに、うすうす気づいていた。父の背は、いつもより張りつめ、母の目には隠しきれない焦燥が宿っていた。
「凛夜、今日は……いい子でいなさいね」
母はそう言って、凛夜の頬を撫でた。その手が、微かに震えていたことに、幼い凛夜はまだ気づけなかった。
闇は、静かに降りてきた。
突如として襲い来る異形――その夜、久遠家を包んだのは、狂気としか呼べぬ力をまとった妖魔だった。凛夜には、その姿はよく見えなかった。だが、禍々しい気配と、まるで地の底から響くような咆哮が、胸を貫いた。
父はすぐさま、古びた術具を手に立ち向かった。
「お前は行け、透子!」
「でも――!」
「凛夜を守れ!これは……俺たちの因果だ!」
母は凛夜を背にかばいながら、封印術を唱えた。父と母――ふたりはまるで、最初から覚悟していたかのように、凛夜を庇って立ち塞がった。
――その瞬間だった。
仮面の男の手が振るわれ、妖魔が咆哮する。巨大な闇が波のように押し寄せ、ふたりの身体を呑み込んだ。
「……お父さん!? お母さん!!」
凛夜の目の前で、両親の姿が霧散するように崩れていった。
その光景を、凛夜は確かに見た。
叫び声は喉の奥で凍りつき、涙がこぼれるよりも早く、心が崩れた。
仮面の男――白い能面のような顔。その背後には、妖魔の影が揺れていた。
それが誰なのか、凛夜には知る由もなかった。
だが、両親は知っていた。
あれこそが、久遠家に伝承として語り継がれてきた、かつて平安の世を生きた大陰陽師――芦屋冥道。
かつて、晴明と並び立ち、そして、晴明に敗れた者。
久遠家に語られてきた禁忌の名。その存在を、父も母も、ただの伝承だと信じたかった。
けれど、現代に現れたその男を、同門の者として迎え入れたとき、わずかな違和感は確かにあった。それに気づいたのは、あまりに遅すぎた。
冥道は姿と名を巧みに偽り、現代陰陽術を学び、さらなる力を手にしていた。
そして、狙いは――久遠の血。凛夜だった。
両親は、そのすべてに気づいた瞬間から、陰陽師としての道を捨て、凛夜を連れて世を忍ぶ生活に身を潜めた。
だが、逃げきれるはずもなかった。
家は崩れ、闇に満ちた夜がすべてを覆った。
凛夜がうずくまり、嗚咽も出せずにいると――
「……凛夜」
その声が、耳元に届いた。
振り向けば、深紅の衣をまとい、月明かりを背にした男が静かに立っていた。
――安倍紅明。
「……誰……?」
「名乗るほどの者ではない。だが、お前の両親のことは知っている」
「父さんと……母さんは……」
凛夜の問いに、紅明は答えず、ただ、そっとその肩に手を置いた。
「お前は……まだ、生きている。それは、両親が命を賭して守った結果だ」
紅明の声は、どこまでも静かで、どこか悲しかった。
「……なぜ……助けてくれなかった……っ」
凛夜は震える声で、呟くように問うた。
紅明は、短く目を閉じる。
――異界の門が、開き始めていた。
冥道の暗躍によって、あちこちに異常が現れ、それを抑えるために、紅明は手一杯だった。ようやく一時的な封印を施して駆けつけたときには、すべてが遅かった。
「……すまない。俺は、お前の両親を……救えなかった」
凛夜はその言葉に、涙を流した。
怒りと悲しみと、どうしようもない絶望が、幼い胸を引き裂いた。
この世界のすべてが、憎かった。
けれど――
その中で、ひとつだけ。
月明かりの中、紅明が差し伸べた手だけが、温かかった。
こうして、全てを失った少年は、地獄のような夜を超え――
のちに「久遠凛夜」として歩み始める、長き戦いの道を踏み出すのだった。




