第三十八話: 癒やしの家、新たなる始まり ―
凛夜とカガリの新たな生活は、「癒やしの家」への引っ越しから始まった。
当日は逢魔の職員たちが総出で手伝いに駆けつけてくれ、さながら小さな引っ越し祭りのような賑わいとなった。
荷物の運び出しから新しい家具の搬入、電気や水道の手配まで、息をつく暇もないほど慌ただしかったが、どこか温かな活気が満ちていた。
内装に手を加えるかという話も出たが、ふたりは揃って首を振った。
そのままがいいと、なんとなく――心の奥から、自然にそう思えたのだ。
この家の壁も、床も、柱も、空気の一つ一つがまるで懐かしい誰かの記憶を抱いているかのようで――
変えてしまうのが惜しかった。
そして、引っ越し作業が終わったその夕方。
市役所などでの各種手続きは驚くほどスムーズに進んだ。
正確には……ほとんど何もすることがなかったのだ。
まるで誰かが、「いずれここに住む者のために」と、すべてを整えてくれていたかのように。
その晩、手伝ってくれた者たちへの感謝を込め、ささやかな宴が催された。
酒と笑いが飛び交い、料理の皿が賑やかに空になっていく。
凛夜にとっては、かつては想像すらできなかった光景だった。
「少し……飲みすぎたな」
静かに呟いて、凛夜は縁側へと足を運ぶ。
夜の風が、火照った頬を冷ややかに撫でていく。
見上げれば夜空には月。満ち欠けの途中にあるその光は、どこか優しく柔らかい。
宴の喧騒は遠くなり、家の中からは笑い声とグラスの音がかすかに聞こえてくる。
それを聞きながら凛夜は、ふと思った。
――本当に、不思議な家だ。
まるで、この家も一緒になって笑っているような……そんな気がした。
(俺たちがここに来たのは、偶然じゃなかったのかもしれない)
そんな“らしくない”考えに、自分でも思わず苦笑が漏れた。
「どうしたのじゃ? 楽しくないのかのう?」
隣にふわりと寄り添ってきたのは、カガリだった。
星明かりを受けたその頬には、少し朱が差している。
「そんなことないさ。楽しすぎて……俺には少し、もったいないくらいだ」
そう返すと、カガリはにっこりと微笑んだ。
「何を言うか。楽しいのは、これからじゃろう。儂が――」
ふと、彼女は言葉を切った。
まるで、家が何かを訴えかけてくるような……そんな感覚が胸をよぎったのだ。
目を細めて空間に耳を澄ませ、そして小さく笑いなおす。
「儂らが、これからもっと面白くしてやるのじゃ!」
その瞬間、不思議と風が吹いた。
どこかで戸が優しく軋み、床がきしむ。まるで、家そのものが頷いたようだった。
凛夜も、それを感じていた。
――この家は、ただの家ではない。
ここには、縁が、誰かが、ずっと守り続けてきた「思い」が宿っている。
そして今、それがふたりを包み込んでくれている。
「……ああ。任せてくれ。俺たちで、この家に“これから”を刻んでやろう」
そうしてふたりは並んで腰を下ろし、夜風と月明かりのなか、静かに寄り添いあった。
新たな生活の、はじまりだった。




