第三十七話:『癒やしの家にて』
歴史の影に埋もれ、表に名を残さなかった紅明と縁の物語。
楽しんでいただければ、ワタクシ感涙です。
禁術の眠りより目覚めた安倍紅明は、季節の移ろいさえ変わり果てた世界の只中に、たった一人で立っていた。
時は流れ、すでに一千二百年後——
共に戦った兄・晴明の姿も、親しき仲間たちの影も、そこにはなかった。
かつて命を賭して守ったこの国は、何もかもが変わっていた。
見慣れたはずの空も、風も、人々の言葉も、紅明の知るものとはすべて違っていた。
それでも、ほんのひとつだけ、変わっていなかったものがあった。
——妖となった“彼女”も、この世にまだ在る。
かつて、絶望と裏切りの果てに人としての姿を捨てた女——篝。
己の手で封じた、あの因縁の存在。
彼女の気配は、微かにではあるが、今もどこかに感じ取れた。
紅明の中に、静かに、しかし確かに焼きついていた「宿命」が疼く。
けれどもそれは、もうかつてのような激しい怒りや憎しみではなかった。
彼は知っている。自らの術で、数多の「想い」や「命」を断ち切った者として。
あの時、あの場所での選択は本当に正しかったのかどうか、答えはもう出ない。
ただ、過去は深く深く心に刻まれ、消えることはない。
◆
彼の心に、深く、そして静かに「孤独」という毒が侵食していく。
いかなる禁術をも制し、強靱な精神を誇った紅明ですら、それには耐え難かった。
生きる意味、使命、そして誇り。すべてが霞のように遠のいていく中で、紅明はふと思う。
——本当に、これで良かったのか?
——俺たちは……とんでもない間違いを、犯しちまってるんじゃないのか?
やがて彼は、ただ宛てもなく街をさまよい歩くようになった。
誰に声をかけられても、何を見ても、魂は現世から浮いたままだった。
どれだけの日々を彷徨い歩いたのだろう。ある日——
ふと、何かが心に触れた。
それは空気の流れでも、風の匂いでもなかった。
懐かしく、温かく、胸の奥を包み込むような……そんな「気配」だった。
紅明は立ち止まり、その方向へとゆっくりと顔を向けた。
まるで意識の底から何かが呼びかけるように。
そして、彼の瞳に光が戻る。
「……ゆ、縁……?」
そこには、かつてのまま残されていた一軒の家があった。
懐かしき名を冠した癒やしの家——
それは安倍縁の魂が封じられた、あの場所だった。
外壁は少し古び、時の風雨には晒されていたが、佇まいはまるで時を止めたかのように、あの頃のままだった。
紅明は、零れそうになる涙を噛み締めて、そっと一歩を踏み出す。
扉を開けた瞬間——
確かに、そこに「いた」。
言葉ではない。だが、はっきりと感じられた。
縁はまだ、この家にいた。
彼女の優しさが、温もりが、紅明を包み込んでくれた。
まるで「おかえりなさい」と語りかけるように。
その癒やしの力は、かつて幾度となく紅明の傷を癒した、あの頃のままだった。
心が、静かにほぐれていく。
荒れ果てた魂が、そっと撫でられていく。
——紅明は、もう泣かないと決めた。
——だから、涙は流さない。けれど……心の中で、紅明は確かに、哭いていた。
「……ゆかり。……ただいま」
その時、確かに聞こえた気がした。
(紅明お兄ちゃん! お帰りなさい!)
まるで、彼女の声が風に乗って届いたかのようだった。
——それからの紅明は、自らの使命を思い出し、再び歩き出した。
かつて守りたかったものを、今こそ守るために。
疲れた時は、癒やしの家に帰った。そこで縁の癒しに包まれ、再び立ち上がるために。
後に、彼を中心として国が動き、一つの組織が誕生する。
国営陰陽機関『逢魔』
それまで個々人で活動していた多くの陰陽師たちが集い、次世代を育てる。
日本の対妖魔における、最後の砦。
癒やしの家——
それは、傷ついた誰かを癒し、救うためにあった。
そして、縁はその魂で、一千二百年もの時をかけて、それを守り続けたのだった。




