第三十六話:封印と決意──未来への眠り
夜が深まり、星さえも雲間に隠れるある晩。
京の外れ、呪禁の地にて──
一体の妖が、暴れていた。凶悪、悪辣、憤怒と怨嗟の具現。人を呪い、喰らい、血を浴びる、忌まわしき存在。
それは、かつて人であった女──篝。
信じた人間に裏切られ、すべてを憎む妖と成り果てた彼女を前に、三人の男が立ちはだかっていた。
安倍晴明。安倍紅明。そして久遠宗雅。
晴明は静かに呪式を紡ぎ、紅明は業火を纏った刃で挑み、宗雅は風と雷を駆って縛りあげる。
人智を超えた陰陽の力が交差し、嵐のような激闘の末、三人はついにカガリを封じることに成功した。
荒れた呼吸の中、晴明が呟く。
「……終わったか……いや……終わってなどいないのだな」
一瞬だけ、脳裏に走る激しい閃光。
焦土と化した京、咆哮する異形、裂ける空──
それが現実か幻かも判然としない、けれど、何かが確かに「視えた」。
「……いや、何だ今のは……」
晴明は額を押さえ、微かな眩暈を覚えた。
その言葉の意味を、誰もすぐには理解できなかった。
数日後、晴明は紅明と宗雅を、人の出入りのない霊山の奥へと呼び出す。沈痛な面持ちで口を開く。
「……未来を視たのだ。およそ千二百年後──この国に、未曽有の災厄が訪れる」
紅明の眉がひそめられ、宗雅は訝しげな目で晴明を見つめた。
「未来視だと? お前が……あの晴明が、未来など……!」
「……私にとっても初めてのことだ。しかし確かに“視えて”しまった。あれは……ただの百鬼夜行ではない」
晴明の声が震える。
「人と妖、神と魑魅、理と常識すらも飲み込む、“大百鬼夜行”──このままでは、日ノ本が滅ぶ」
静寂が流れる。
やがて、紅明が口を開いた。
「……兄者。ならば俺が行く。俺が、未来でそれを喰い止める」
「紅明……?」
「方法は……あるのだろう? “禁呪”を使えば……俺の時間を止め、未来へ送ることができる」
晴明は目を伏せ、否定しなかった。
「……確かに、ある。だが、代償が大きすぎる。二度とこの時代には戻れぬ。時の狭間に心を喰われる危険もある。それに、時を止めると言っても、完全ではない。僅か…ほんの僅かずつだが、時は流れる。完全に“目覚められる”という保証は……」
その言葉を遮って、今度は宗雅が口を開いた。
「ならば、私が行く! 私は晴明や紅明ほど、この時代に必要とはされておらぬ。私が適任だ」
「違う」
紅明は首を横に振る。
「兄者はこの時代の柱だ。お前も、この世とあの世を繋ぐ架け橋の役目がある。だからこそ、俺が行く」
宗雅は歯噛みし、拳を握りしめる。
「そんな理屈で……そんな危険を、一人で背負わせられるかッ!」
「だから、いいんだよ」
紅明は微笑んだ。
「俺は、いつだって“背負う側”だっただろ?」
議論は深夜まで続いた。だが、紅明の決意は揺らがなかった。
そして、禁呪を行う日が訪れる。
儀式の中心に立つ紅明。晴明と宗雅が、彼の周囲に術式を組み、結界を張る。
これは、魂と肉体を時間の流れから切り離し、未来に“保存”する術──呪的コールドスリープ。
紅明は、泣かないと決めていた。
だが、晴明の声を聞いたとき、心が揺らいだ。
「……許せ、弟よ。お前に……これほどの重責を……背負わせてしまう兄を……」
「……いいさ、兄者。分かってる。兄者がどんな想いで言ってるか、俺が一番知ってるよ」
そして、最後に、宗雅の方を向く。
「宗雅。頼んだぜ。……兄者のことを」
宗雅は目を見開き、何かを叫ぼうとしたが、声にならなかった。
紅明が静かに目を閉じる。
その瞬間、術式が完成し、時間の狭間へと“彼”の存在が封じられる。
紅明は、眠りについた。
遥か未来、凛夜の時代。
この国が再び災厄に見舞われるその日まで──
己の命と時を賭けて。




