第三十五話:癒やしの家──安倍縁の物語
この話から、物語は最後へと向かっていく予定です。
皆様の心に何かが残ってくだされば。
少し、昔の話をしよう。
今からおよそ千二百年前、混迷と混濁に満ちた平安の世。
この世とあの世の境が今より遥かに曖昧だった時代。魑魅魍魎が跋扈し、夜ごと人を喰らい、悪しき妖が人の理を乱していた。
そんな時代、陰陽師たちは人の守り手として、その力をもって妖と対峙していた。
なかでも傑出していたのが、一組の兄弟──安倍晴明と安倍紅明。そして、その従姉妹にあたる若き巫女、安倍縁。
そしてもう一人。彼らと肩を並べ、数々の戦いを共にしてきた陰陽師──久遠宗雅。
晴明と紅明は、まさに陰と陽。
理知と直情、静と猛。
いずれ劣らぬ才覚と霊力を持ち、あやかしすら名を聞けば震えるとされた。
宗雅は、そのどちらにも染まらぬ“調和”の力を持っていた。
二人の対立を諫め、縁の心を支え、己は戦の最前線で戦いながらも、常に他者を思いやる心を失わぬ男。
晴明は「兄弟にこそなれぬが、魂の血族」と評し、紅明も「宗雅だけは信用できる」と公言して憚らなかった。
対する縁は、戦う力こそ、あまり高くなかったが、その代わり、他の追随を許さぬ「癒やし」と「守り」の力を持っていた。
彼女は、傷ついた者に寄り添い、穢れを祓い、結界を張り巡らせ、疲弊した者たちに眠りと安らぎを与えた。
その慈愛の心と術の才から、彼女は人々にこう呼ばれていた──
「癒やしと守りの申し子」
その名の通り、縁は多くの命を救った。
人懐こく、笑顔を絶やさず、誰よりも人の痛みに敏感な娘だった。
誰かが傷つけば、まるで自分が斬られたように顔を曇らせ、誰かが涙すれば、自分のことのように泣いた。
だが、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。
あるとき、未曾有の妖怪の大軍が人の領域を襲った。
一体一体の力は取るに足らぬものだったが、その数はまさに“無尽蔵”と呼ぶに相応しく、人の方が疲弊し、崩れていった。
安倍兄弟と宗雅を始めとする歴戦の陰陽師たちですら、絶え間ない戦闘に次第に疲弊していく。
そして、その陰で誰よりも酷使されていたのが、治癒と結界の術師たちだった。
特に縁は、眠る間も惜しみ、声を枯らして人々の心身を癒やし続けていた。
「縁! いい加減にしろ! お前、それじゃ身体が保たねぇぞ!」
紅明が怒声を上げる。
しかし、縁は笑って答えた。
「大丈夫だよ、紅明お兄ちゃん。私も、みんなの役に立ちたいの。早く……また、皆で笑い合えるように、ね」
その笑顔に、誰も何も言えなかった。
だが、限界は必ずやってくる。
ついに、治療班の中で倒れる者が現れ始めた。
一人、また一人と、心を折り、身体を壊し、その力を使えなくなっていく。
このままでは人の側が先に潰れる。
急ぎ、陰陽師たちの元老院──長老たちが対策を協議した。
そこで彼らが提示した案は、常識を疑うような“禁術”だった。
一つの家を建て、その家に癒やしの力を持つ者の魂を定着させる
その家を、人の癒やしと守りの拠点とするのだ
すなわち、癒やしの力を持つ陰陽師の魂を、肉体から引き剥がし、“家”へと封じるということ。
その提案に、晴明と紅明、そして宗雅は激しく反対した。
「人であることを捨てろというのか」と。
宗雅は一晩中、長老らを説得し、代案を模索し、式神たちにより強固な結界の構築を試みた。だが、時は足りなかった。
当時の元老院の影響力は絶大だった。晴明派、宗雅派は少数に過ぎず、その意志は押し切られる形となった。
家の建設が始まり、術の準備が整えられていく。
“癒やしの家”と名づけられたその家に、定着させるべき魂の数は──十。
治療班は皆、怯えた。
自分が“選ばれる”のではないか。
魂を抜かれ、意思を失い、家に囚われるのではないかと。
そしてある日──
一人の少女が手を挙げた。
「私がやります」
縁だった。
彼女の癒やしと守りの力は、他の追随を許さなかった。
計算上、彼女一人の力で、十人分の機能を満たせるとされた。
「ふざけんなよ……ッ!!」
紅明が叫ぶ。
「そんなこと、誰が……誰が許すかよッ!!」
普段は静かな晴明も、初めて声を荒げた。
「縁…それは駄目だ…!。何か、何か方法があるはずだ」
宗雅もまた、血相を変えて彼女の前に立ち塞がった。
「縁……私たちが命を賭けてでも、お前を守る。そのために戦っているんだ。だから……行くな」
だが、縁は首を横に振り、静かに周囲を見渡した。
倒れた仲間たち。彼らに付き添う家族、恋人、友人。
悲しみに暮れる人々の姿に、唇を噛みしめながら、それでも微笑んだ。
「私なら……大丈夫。心まで、無くすわけじゃない。皆の想いが、私に力をくれるから」
そう言いながら、震える身体を必死に隠した。
怖くないはずがなかった。
それでも、誰かの代わりにと、その身を差し出した。
そして儀式の朝。
縁は白装束に身を包み、紅明の前に立った。
「ねぇ、紅明お兄ちゃん。私ね……ずっと、好きだったんだよ。気づかなかったでしょ?」
不意の告白。
笑いながら、けれど涙を浮かべて縁は言った。
紅明は言葉を失ったまま、縁を強く、強く抱きしめた。
言葉など、意味を成さなかった。
どんな言葉も、彼女の覚悟の前では、ただの慰めにしかならなかった。
「夢が一つ、叶っちゃった」
縁はそう言い、笑った。
一筋の涙が、縁の頬を伝う。
それが、彼女の最後の笑顔だった。
その日、安倍縁は己の魂を“家”へと捧げた。
人を癒やし、守るために。
愛する者たちを、生かすために。
そして、安倍晴明と紅明が涙を流したのは──
その日が、最後だった。
その場にいた宗雅は、静かに手を合わせ、誰よりも長く祈りを捧げたという。
のちに彼が記した日記には、こうあった。
「彼女の覚悟は、神にも匹敵する。
されど私は、あの時、彼女を止めることができなかった。
あの家は、癒やしの拠点であると同時に──私たちの、永遠の痛みでもある」
この“癒やしの家”は、今もなお存在している。
人知れず時代の流れに身を潜めながら、
あるべき者が再び訪れる、その日を静かに待ち続けていた──。




