第三十三話・前編:歌が響く日
逢魔の危機から、はや一月近くが過ぎていた。
未曾有の襲撃によって甚大な被害を受けた本部は、未だ完全復旧とはいかず、職員たちは昼夜を問わず復旧作業に追われている。
――もちろん、凛夜やカガリも例外ではなかった。
だが、カガリは不機嫌だった。
なにせ、一月弱――まともに凛夜と会えていないのだ。
新婚さんなのに、である。
「……まったく、これでは新婚の意味がなかろうが……」
小声でぶつぶつと文句を言いながらも、手は止めずに書類を整理していく。
目の下にはうっすらとクマ。肩も重い。背中も痛い。おまけに誰も甘やかしてくれない。
「……凛夜……会いたいのぅ……」
ぽつりと漏らした独り言。誰にも届かないと知っていながら、それでも言わずにはいられなかった。
カガリは手を止め、そっと周囲を見渡す。
そこにいたのは、自分と同じように疲れ果てた逢魔の仲間たちだった。
黙々と仕事をこなし、張りつめた空気の中で、誰もが限界に近づいていた。
「……いかんいかん!」
自らの頬をぺちりと叩くカガリ。
「辛いのは儂だけではないのじゃ。皆がんばっとる……なら、儂も!」
そう言って再び書類に向き直ると――
「……ふんふん、ふん……♪」
どこか懐かしい童謡の旋律を口ずさみはじめた。
口ずさんだのは、かつて祖母に教わった童歌。
「春の野を駆ける子兎の歌」――命の芽吹きを讃える、やさしい歌だった。
それは、気まぐれのようなものだった。
しかしその声は、不思議なほどによく響いた。
歌声は、開け放たれた木枠の窓から風に乗って流れていく。
地上と地下をゆるやかに繋ぐ吹き抜け構造の本部では、空気の通り道が多く、
その音はまるで本物の風のように、そっと人々のもとへ届いた。
風に乗って、廊下へ、会議室へ、倉庫へと、逢魔のあらゆる場所へ広がっていく。
透き通るような声。
心に染みわたるような、やさしく、あたたかな音色。
職員たちは、一瞬、手を止めた。
書類の束を抱えた者も、倉庫の片付けをしていた者も、通信機器の前で眉間に皺を寄せていた者も。
みな、ただ耳を澄ませ、静かに聴き入った。
「……なんて、綺麗な……」
「この声……もしかして、カガリ様?」
しばしの静寂。
だが次の瞬間、逢魔のあちこちで声があがった。
「……よし、頑張るか!」
「へこたれてられないわね!」
「なんか……泣きそうになっちゃった。でも、動ける!」
疲労で重たかった空気が、ふっと和らいだ。
笑顔すら戻りはじめた。
その様子を見て、カガリは少しだけ口元を緩めた。
「ふふん。儂の歌の力、伊達ではないぞ?」
彼女の歌声は――やがて、別の場所にも届いていた。
――図書室の片隅。
山のような古文書と術式の解析データに埋もれていた凛夜が、不意に手を止めた。
「……カガリ?」
耳を澄まし、目を閉じる。
響いてくるのは、優しい歌声。
姿は見えずとも、そこに“想い”がある。
どこか懐かしく、どこまでもあたたかい、その声に包まれて――彼は、静かに微笑んだ。
「……もう一踏ん張り、頑張るか」
そう呟いて、また筆を執る。
書の向こうに、愛する者の声を感じながら。
そして今日も、逢魔には噂が流れている。
――“逢魔には、歌姫がいる”と。
その歌声は、疲れた心に力を与え、沈んだ場所に光をもたらす。
誰が言い出したのかは分からない。
だが今も、誰かがこっそり囁く。
「……あの歌声、また聴きたいな」
“逢魔の歌姫”――その噂は、今日も密かに広まり続けている。




