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第二十九話:夢に沈みしもの

ひんやりとした霧が足元を這う。

草木は凍てつき、空は灰色。

その景色は、まるで時間すら凍結したようだった。


「……ここが、最後の領域か」


凛夜が呟く。

彼の横に立つカガリも、周囲を警戒するように目を細めた。


「何か……変じゃの。空気が、生きておらぬ……」


「いや――逆だ」


凛夜が目を凝らす。

その中心、澱んだ池のほとりに母が立っていた。


透き通るような白い肌、長く垂れる黒髪。

その瞳は、深海のように沈んでいた。


「……おかえりなさい、凛夜」


――声がした瞬間、凛夜の表情が固まった。


「……やめろ、その姿は……!」


「忘れてしまったの? あの日、あなたは私を見捨てたでしょう……?」


母が足を踏み出すたび、湖面が揺れ、景色が滲んでいく。

次の瞬間、世界が切り替わった。



「……これは、わしの……?」


カガリの周囲に、あの“平安の屋敷”が広がっていた。

庭には、あの日の彼がいる。

カガリがかつて、まだ白鐘篝だった頃、愛した彼が。

笑って、手を伸ばす。

その笑顔は、もう二度と戻らぬ人のものだった。


「……やめい、やめてくれ……っ」


声が震える。

心が叫ぶ。


だが幻は容赦なく、**“最も失いたくなかったもの”**を突きつける。


「篝、私はここにいるよ。戻ってきておくれ――あの頃の、私のもとに」



同じく凛夜は、かつて自らの無力で救えなかった母の幻影に引き裂かれていた。


「凛夜……どうして、お父さんとお母さんを助けてくれなかったの……?」


「俺は……! 二人を、助けたかった……!」


その声に、冷たく返す。


「じゃあどうして、逃げたの?」


沈む。

過去が、痛みが、罪が、胸を締め上げる。



そして――


世界が歪みかけたその瞬間。


「……凛夜!!」


カガリの叫びが、世界を貫いた。


「わしは、おぬしと歩いてきたこの時間が……全部、幻だったなんて思わん!!」


「……カガリ……っ!」


凛夜もまた、叫び返す。


「過去の罪は、消えない。でも……俺は今、お前とここにいる!」


互いに、幻を振り払い、走り出す。


それを見た女性――人造妖魔・水髄が、初めて表情を歪めた。


「感情など、脆い。人の心など、いずれ濁る。そう作られているのに……!」


「――なら、濁りも抱いて生きてみろよ」


凛夜が、結印。


「『封滅・霊印解放――破幻符:真覚醒はげんふ・しんかくせい』!!」


水髄の幻術空間が、ひび割れていく。

視界が砕け、凛夜とカガリが“本当の世界”に帰還する。


そして――


「カガリ!!」


「任せい!!」


ふたりの結界術が交差する。


「『双術式――魂浄封獄こんじょうふうごく』!!!」


水髄の身体が、光に包まれ、ゆっくりと崩れていく。


その最期、かすかに微笑んだように見えた。


「……ああ、これが……“ほんとうの心”……」


水面に、母の幻影が沈むように消えていった。



戦いの終わり、世界に再び風が吹いた。

冷たくも、どこか優しい春の風。


「終わった、か……」


「ふふ……やっぱり、ぬしとおると、色々とめちゃくちゃじゃの……」


カガリがそう言って、いつものように凛夜の袖を引っ張った。


「帰ろう。ぬしと儂の、今を生きる場所に」


「――ああ、帰ろう」


手と手が繋がれる。


世界が、再び動き出した。


補足:水髄の能力と象徴性

幻術系の人造妖魔。対象の記憶を引き出し、精神を揺さぶる。


見せる幻は、愛・喪失・罪・未練といった「心の澱」。


彼女はあくまで“造られたモノ”でありながらも、最期には「心を持ってみたかった」とこぼす存在。

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