第二十九話:夢に沈みしもの
ひんやりとした霧が足元を這う。
草木は凍てつき、空は灰色。
その景色は、まるで時間すら凍結したようだった。
「……ここが、最後の領域か」
凛夜が呟く。
彼の横に立つカガリも、周囲を警戒するように目を細めた。
「何か……変じゃの。空気が、生きておらぬ……」
「いや――逆だ」
凛夜が目を凝らす。
その中心、澱んだ池のほとりに母が立っていた。
透き通るような白い肌、長く垂れる黒髪。
その瞳は、深海のように沈んでいた。
「……おかえりなさい、凛夜」
――声がした瞬間、凛夜の表情が固まった。
「……やめろ、その姿は……!」
「忘れてしまったの? あの日、あなたは私を見捨てたでしょう……?」
母が足を踏み出すたび、湖面が揺れ、景色が滲んでいく。
次の瞬間、世界が切り替わった。
◇
「……これは、わしの……?」
カガリの周囲に、あの“平安の屋敷”が広がっていた。
庭には、あの日の彼がいる。
カガリがかつて、まだ白鐘篝だった頃、愛した彼が。
笑って、手を伸ばす。
その笑顔は、もう二度と戻らぬ人のものだった。
「……やめい、やめてくれ……っ」
声が震える。
心が叫ぶ。
だが幻は容赦なく、**“最も失いたくなかったもの”**を突きつける。
「篝、私はここにいるよ。戻ってきておくれ――あの頃の、私のもとに」
◇
同じく凛夜は、かつて自らの無力で救えなかった母の幻影に引き裂かれていた。
「凛夜……どうして、お父さんとお母さんを助けてくれなかったの……?」
「俺は……! 二人を、助けたかった……!」
その声に、冷たく返す。
「じゃあどうして、逃げたの?」
沈む。
過去が、痛みが、罪が、胸を締め上げる。
◇
そして――
世界が歪みかけたその瞬間。
「……凛夜!!」
カガリの叫びが、世界を貫いた。
「わしは、おぬしと歩いてきたこの時間が……全部、幻だったなんて思わん!!」
「……カガリ……っ!」
凛夜もまた、叫び返す。
「過去の罪は、消えない。でも……俺は今、お前とここにいる!」
互いに、幻を振り払い、走り出す。
それを見た女性――人造妖魔・水髄が、初めて表情を歪めた。
「感情など、脆い。人の心など、いずれ濁る。そう作られているのに……!」
「――なら、濁りも抱いて生きてみろよ」
凛夜が、結印。
「『封滅・霊印解放――破幻符:真覚醒』!!」
水髄の幻術空間が、ひび割れていく。
視界が砕け、凛夜とカガリが“本当の世界”に帰還する。
そして――
「カガリ!!」
「任せい!!」
ふたりの結界術が交差する。
「『双術式――魂浄封獄』!!!」
水髄の身体が、光に包まれ、ゆっくりと崩れていく。
その最期、かすかに微笑んだように見えた。
「……ああ、これが……“ほんとうの心”……」
水面に、母の幻影が沈むように消えていった。
◇
戦いの終わり、世界に再び風が吹いた。
冷たくも、どこか優しい春の風。
「終わった、か……」
「ふふ……やっぱり、ぬしとおると、色々とめちゃくちゃじゃの……」
カガリがそう言って、いつものように凛夜の袖を引っ張った。
「帰ろう。ぬしと儂の、今を生きる場所に」
「――ああ、帰ろう」
手と手が繋がれる。
世界が、再び動き出した。
補足:水髄の能力と象徴性
幻術系の人造妖魔。対象の記憶を引き出し、精神を揺さぶる。
見せる幻は、愛・喪失・罪・未練といった「心の澱」。
彼女はあくまで“造られたモノ”でありながらも、最期には「心を持ってみたかった」とこぼす存在。




