第十二話:—海の底より深く—
逢魔の一室にて。
その日は、いつにも増してカガリの気分が軽やかだった。
晴れ渡る空のように、胸の内が澄みきっていた。
そんな彼女に、久遠凛夜が唐突に告げた。
「……今度の休みに、水族館へ行かないか?」
一瞬、空気が止まる。
「……へ?」
カガリの耳に届いた言葉は、まるで幻のようだった。
再確認するまでもない――が、それでも思わず聞き返した。
「……それはつまり……『でーと』とやらでは、ないのかの?」
「……ああ。そうなるな」
次の瞬間。
「ぼ、ボンッ!!!!!」
顔を真っ赤に染めたカガリから、効果音が聞こえてきたようだった。
──妖生はじめてのデート!!
カガリの心は、爆発寸前だった。
◆
カガリは、速攻で女性陰陽師たちを召集した。
目的はただ一つ。
“デート必勝指南”である。
「儂はどうすればよい!? どうすれば凛夜に嫌われぬのじゃ!?」
「服装は!? 話題は!? 現代流の“でーと”とはどういったものなのじゃ!?」
彼女の必死の形相に、周囲は微笑みながらも全力でアドバイスを提供。
「髪はちょっと巻いたら可愛いですよ!」
「歩く時、ちょっと袖をつまむと男心にグッときます」
「水族館ならヒールよりも歩きやすい靴がいいですよ」
「あと、イルカは大体人気です。反応良くしとくと印象◎です!」
中には「最初に手を繋いじゃえ!」という猛者もいたが、
カガリは真剣にメモを取りながら頷いていた。
「ふむふむ、イルカ……イルカは重要……!」
◆
そして迎えた、運命の日曜日。
普段の艶やかな和装ではなく、控えめながらも現代風のワンピースに身を包んだカガリ。
化粧も控えめに。だが、どこか初々しさの漂う装いだった。
水族館へ向かう道中、やや緊張していた彼女も――
中に入るや否や、目を輝かせていた。
「おおお……!? これは……水の中に、空が……!」
大水槽を前に、目を丸くする。
クラゲの展示では、手を合わせて見とれる。
ペンギンの餌やりでは、「ちいと……魚臭いのう……」と鼻をつまむ。
そして、イルカショー。
ジャンプと同時に飛び散る水しぶき、観客の歓声。
カガリは、目をキラキラさせて拍手を送っていた。
その横で、凛夜はずっとカガリを見ていた。
(こんな顔……するんだな)
気づけば、最近自分がよく笑っていることに、彼はまだ気づいていない。
だがそれは、カガリがいるからこそ。
自分が変わってきていることを、凛夜はほんのりと自覚し始めていた。
◆
帰り道、空は薄紅に染まっていた。
水族館を出てしばらく歩いたところで、凛夜は足を止めた。
「……これ、渡しそびれてた」
小さな包みを差し出す。
開けると、中には銀のイルカのネックレス。
小ぶりで、さりげなく輝く一品。
カガリは、それを見た瞬間――固まった。
目を見開いたまま、微動だにしない。
「……好みじゃ、なかったか?」
どこか不安げに、凛夜が言いかけた時だった。
「~~っ!」
バッと、まるで奪うようにネックレスを受け取ったカガリ。
そして、それを胸に抱きしめたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。
「う、嬉しすぎて……言葉が、出ぬ……っ」
凛夜が一歩近づくと、カガリは顔を上げ、涙をこぼしながら笑った。
「有難う……凛夜……! 大切にするのじゃ……っ!」
涙と笑顔が混ざったその姿は、まるで、かつて見た水中の光のようだった。
優しく、揺れて、きらめいて。
彼の胸に、ひとつ、確かな想いが灯った。
(……俺は、やっぱり――)
だが、その言葉はまだ口にはしない。
ただ、その横顔を見つめるだけ。
海よりも深く、静かに心が満たされていくような、そんな夜だった。




