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悪夢との遭遇2

 朝、メルクリーズが目が覚めると、そこはいつものようにベッドの上だった。

 なんだか昨夜の記憶が曖昧で、ぼんやりしたままキッチンに行くと、調理台はいつもと変わりない綺麗な状態だった。

 うまく眠れなくて酢橘すだちを搾っていた気がしたけれど、夢を見ていただけだったのだろうか。

 首をひねりながら朝食の準備のために冷蔵庫を開けたメルクリーズは、思わず入れた憶えのないガラス容器に手を伸ばした。


「シエルさん?」


 ガラス容器の中身は酢橘の果汁だった。

 やはり酢橘を搾っていたのは夢ではなかったのだ。

 散らかしたままで片付けた記憶などなかったけれど、まさか彼が全部片づけてくれたのだろうか。


「おはよう。何してるの?」


「あ、昌輝さん。おはようございます。ここ片付けてくださいました?」


「いや? 俺は何もしてないけど。っていうか、いま起きたばっかりだし。どうかした?」


「いえ……、私、キッチンを散らかしたままだったんですけど、朝起きたら綺麗になっていたので」


「ふぅん? シエルが片付けたんじゃないの? どうせ時間は有り余ってるんだろうし」


 昌輝は何でもないことのように言うが、メルクリーズにしてみれば申し訳なさと恥ずかしさがいっぱいで泣きたくなった。

 そんなことまで手を煩わせてしまうなんて。


「べつにそんな気にしなくていいんじゃない? ってか、けっきょく片付けたの俺ってことか。なんか相変わらずヘンな感じだなぁ。俺、自分では寝てるつもりだけど、寝てないんだもんね」


「眠っているのは昌輝さんの意識だけですからね。力の強い魔族ほど眠りを必要としないんです」


「そうなんだ。じゃあ、眠る魔族もいるってこと? リーズみたいに」


「ええ、私は眠りすぎですけどね」と、メルクリーズは苦笑いする。

 この酢橘のことが夢でなかったとしたら、きっとシエルと話したことも夢ではないのだろう。昌輝がメルクリーズ以外に惹かれることはないとシエルが言っていたことも。


 だけど、本当にそんなことがあるのだろうかと、小首を傾げながら昌輝を見やる。

 いくら言葉で説明されても納得できなかった。

 当の昌輝は我関せずといった様子で朝食の準備をしている。


 まあ、べつに私のことを好きにならなくても、他に好きな人ができなければ大丈夫だものねと、つい消極的なことを考えてしまう。

 そもそもシエルも、メルクリーズ以外に惹かれることはないと言っただけで、メルクリーズに惹かれるとは言っていない。

 おまえしかいらないと言っていたけれど、それはメルクリーズが必要ということとイコールではない。


 考えれば考えるほど分からなくなっていく。

 恋愛どころか、今まで誰かに好かれたいと思ったこともなかったメルクリーズは、とつぜん昌輝の気を引くように言われても途方に暮れるしかなかった。

 

「リーズ? どうしたの。めちゃくちゃ難しい顔してるけど……。パン焼けてるよ? 食べないの?」


「あ……はい、すみません」


 だいたい自分自身が昌輝のことをそういうふうに見ていないのだ。

 シエルと同一人物ではあるけど、シエルが泰然自若としていて何事にも余裕のある青年なのに対して、少年らしい無邪気さを残す昌輝はとても幼く思えて、どちらかと言えば可愛い弟という感じしかしなかった。

 シエルの少年時代がこうであったらと思うと、少しはときめくものもあるけれど。

 きっと実際のシエルは、昌輝とは似ても似つかない過酷な少年時代を過ごしていたに違いない。


 はぁ…と、無意識に大きな溜息をついたメルクリーズは、昌輝が眉根を寄せたことに気づかなかった。



    ▲  ▲  ▲


 街はむせ返るほどの金木犀の甘い香りに満ちあふれていた。

 メルクリーズはワインレッドのワンピースの裾を翻し、足早に街の中を行く。

 メルクリーズの服はすべておしゃれ好きで衣装持ちな桜子が準備してくれたものだった。桜子はあれこれ服を準備してくれたのだけど、上下で分かれている服はメルクリーズには組み合わせ方などが分からず、けっきょくいつもワンピースを着ていた。魔界にいるときもいつもワンピースだったので、そのほうが自分でも違和感がなく、しっくりきた。


 夕食を作っている途中で醤油が切れていることに気がついて、慌てて買いに出てきたメルクリーズは、自分のうっかりさ加減に辟易しながら店に急ぐ。

 家からいちばん近い店までは歩いて十分もかからない。

 あと少しで目的の店に着くというとき、とつぜん後ろから声が聞こえてきた。


「こんなところにいたのね」


 その声を耳にしたとたん、メルクリーズの全身に粟が立って、手にしていた小さなバッグがどさりと地面に落ちた。

 全身から力が抜けて体が震える。

 足が地面に縫い止められてしまったかのように、まったく動けない。


 思考回路が完全に停止しそうだった。

 振り向いてはいけない。

 いや、振り向くことなんてできない。


「見つけたわよ、能無し」


 メルクリーズの心臓が大きく跳ねる。

 その声は忘れるはずもない。

 幼い頃から聞き慣れた声。

 自分を閉じ込め、傷つけてきた女の声。


 なんで。

 どうして……。


 振り向いて確かめる勇気などなかった。

 それよりも逃げる本能のほうが勝った。

 震えて力の入らない足を必死に叱咤して、メルクリーズは走りだした。できるだけ人がたくさんいるところを選んで、ただがむしゃらに。

 何度も人にぶつかり、足が絡まってこけそうになりながらも、走ることをやめられなかった。

 捕まったら最後だ。

 きっとまたあそこに連れ戻されて、今度こそなぶり殺しにされる。

 一度逃げ出した自分のことを彼らはけっして赦しはしないだろう。


 悪い夢ではないか。

 ただの勘違いではないか。

 そう思いたかったけれど、耳に焼き付いているあの声を聞き間違えるはずなどないことも分かっていた。


 駅近くのショッピングセンターの横を通りかかったメルクリーズは、息を切らしながら、初めて恐る恐る後ろを振り返った。

 行き交う人のなかに、メルクリーズの恐れていた女の姿は見つけられなかった。けれど、このまますぐ家に戻るのは躊躇われた。

 まだ女がどこかで自分を見ていて、帰る家を知られたらと思うと、怖くて足が家に向かなかった。

 それに、女がひとりで行動しているとは限らない。自分をいたぶっていたのはあの女だけではないのだ。男もいた。そして、男のほうがメルクリーズに対して容赦がなく、執拗だった。

 思い出して、メルクリーズは身震いした。


 とにかくどこかに身を隠さなければ。

 メルクリーズはショッピングセンターの裏にある不要品が積み上げられた横にある柵を乗り越え、非常階段の陰に身を潜めた。

 壁に身を寄せて膝を抱え、息を殺す。

 魔族というのは、目視できる距離に相手がいなくても、魔力で識別して相手を探すことができる。けれど、それが魔力を持たないメルクリーズを探す場合にも有効なのかどうか、メルクリーズには分からなかった。


 秋の今は、日が暮れはじめると、あっという間に辺りが薄闇につつまれ、暗闇に落ちていく。

 大通りは反対側のため、ショッピングセンターに流れる賑やかな音楽が漏れ聞こえる他は、物音などしなかった。

 もう出ていっても大丈夫なのだろうか。

 けれど、もしもどこかで待ち伏せされていたら……。見つかってしまったら……。

 考えると恐ろしくて、メルクリーズは震える足をふたたび叱咤して立ち上がるということができなかった。


 いったいどれほどの時間が経ったのだろう。

 辺りはすっかり闇につつまれ、空気も冷たくなっていた。

 それが余計にあの頃を思い出させる。

 メルクリーズは自分の肩を抱き、ガタガタと震えた。

 あるはずもない痛みが体中を突き刺す。

 聞こえるはずのない笑い声が耳にまとわりつくようで、振り払うように頭を左右に激しく振った。


 ガシャンと暗闇のなかに小さな金属音が響いて、メルクリーズは身をすくめた。

 息を詰めて、音のしたほうを見る。


「リーズ?」


 その声は思ってもみないものだった。


「まさきさん……? どうして……」


 キョロキョロと周りを確認しながらも、明かりのない中を昌輝はまっすぐにメルクリーズのほうに歩み寄ってくる。


「お醤油を買いに行くだけって言ってたのに、なかなか帰ってこないから捜しに来たんだよ」


「でも、どうしてこんなところに」


「それは俺のセリフだよ。なんでこんなところにいるわけ? ここ、道に迷ったにしては不自然すぎるよ?」


 昌輝がメルクリーズの前にしゃがんで視線を合わせてくる。


「どうして私がここにいると?」


「よく分からないけど、なんとなく。勘ってやつ? 自覚ないけど、魔族としての何かなのかもね。それより、大丈夫? ものすごく具合悪そうだけど」


「ほんとに昌輝さん、ですか?」


 魔族は人間に擬態できる。雪人のように姿を変えて。


「そうだけど、俺以外の誰に見えるの? 暗いから? いや、でも声で分かるよね?」


 純粋に訳が分からないといった様子で昌輝が首を傾げる。

 だが、さすがにメルクリーズも魔族の端くれだ。夜目だけは利いたから、昌輝の姿ははっきりと見えていた。

 それでもまだ信じきれなくてメルクリーズは動けなかった。


「帰ろ? リーズ、上着持たずに出掛けただろう?」


 そう言って、メルクリーズの肩に昌輝が上着をかけてくれた。

 そのとたん、思わずメルクリーズの目から涙がぽたりとこぼれた。

 シエルと初めて出会ったときも、寒いだろうと、シエルがメルクリーズの肩にストールを掛けてくれたことを思い出したのだ。

 そのときも自分は今のように座り込んでいた。


「シエルさん……っ」


 すがりつくようにして昌輝の腕を掴む。

 緊張の糸が切れたのか、涙がとまらなかった。

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