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悪夢との遭遇1

 酢橘すだちの爽やかな香りがキッチンいっぱいに広がっていた。

 慣れない手つきで酢橘の果汁を搾っていくメルクリーズの表情はどこかぼんやりしていた。

 すでに頭は半分眠っていたのだけれど、ベッドに入るとまとまりのない思考がぐるぐると頭を占拠して眠れなくなるという厄介な状況に陥っていて、仕方なく起きだしてきたのだ。

 何か作業をしていたほうが、うるさい思考をやり過ごせるだろうと思って、酢橘の果汁を搾るという単調な作業を始めたのだが、それは思いのほか効果があった。思考が停止しはじめて、だんだんと純粋な眠気が侵食してくる。


「メルクリーズ? おまえ、また起きてるのか? こんな時間に何をしてる?」


「シエルさん……」


 やおら振り返ったメルクリーズの目に、困惑しているような表情のシエルが映った。


「ぽん酢というものが柑橘類の果汁を使って作られていると桜子から伺って、作ってみようと思ったんです。シエルさんも昌輝さんも喜ぶかと思いまして……」


「いや、そういうことではなく。なんでわざわざこんな時間に作っているんだ? そんな顔をして。何かあったのか?」

 

 目の覚めるような美貌とはまさにこのことだろう。シエルの姿を目にしたとたん、メルクリーズの眠気が一瞬でどこかに吹き飛んだ。

 ハッと自分の手もとを見て、あちこちにこぼれ落ちている酢橘の種を慌てて拾い集める。


「もういいから、そのまま置いておけ」


 シエルの手がそっとメルクリーズの手を止める。

 シエルに促されて流水で手を洗ったメルクリーズは、そのままソファにいざなわれた。


「それで、何があったんだ?」


「じつは今日、桜子さんたちとお話をしていて……。私とシエルさんは終生契約を交わしていますでしょう? それで、何も知らない昌輝さんが私以外の誰かを好きになってしまったら、昌輝さんもシエルさんも契約違反で命がなくなってしまうという話になって……」


 こんな話をシエル本人に聞かせるなんてどうかしていると思ったけれど、艶やかで心地いいシエルの声に抗えなかった。シエルに尋ねられると、どうしても答えたいと思ってしまう。くちびるが自然と言葉を紡いでしまう。

 無意識に他者を従わせてしまう相変わらずの魔王っぷりに、メルクリーズは内心で嘆息する。

 なにせ彼は微笑みひとつで相手を死にいざなえるほどなのだ。魔族としての力の強さ云々以前の話で、生まれながらにしての真正の魔王なのだと誰もが認める存在。それがシエルという青年だった。


「キルクさんは本性が魔族である昌輝さんが人間に惹かれることはないだろうと仰るんですが、桜子さんは自分たちの例もあるし、記憶がなくてシエルさんとは性格が違う昌輝さんでは、他の人に惹かれる可能性はゼロではないと仰って……」


「なるほどな。それでそんな顔をしているわけか」


 メルクリーズの隣で話を聞いていたシエルは、肘掛けに肘をおいて頬杖をついた。

 その気だるげな様子が妙に色っぽくて、メルクリーズは無駄に心拍数が上がってしまう。


「それはキルクの言っていることが正しいだろうな。たしかに昌輝は記憶はないが、俺であることに変わりはない。俺がメルクリーズ以外に惹かれることはないから心配するな」


「ですが、そんなことってあるんでしょうか」


「どういうことだ?」


 おもむろにシエルの右手が伸びてきて、メルクリーズの肩にかかる赤銅色しゃくどういろの髪をひとすじ指に絡めとった。

 名残惜しむように、メルクリーズの長い髪がシエルの女性的で滑らかな指からゆっくりと流れ落ちていく。


「私はこんなですし、もっと他に相応しい方がいるのではないかと思えて……。他の方を選べる状況で、わざわざ何もない私を選ぶことなんて有り得るんでしょうか」


 シエルの手がメルクリーズの頬に触れ、そっと顔を上に向けさせた。


「おまえがどんなふうだって?」


 シエルの瞳と視線がぶつかり、メルクリーズは思わず息を呑む。

 神々からの特別な寵愛を受けて生まれてきたとしか思えない美しい容姿は、ただそこに存在するだけで心を揺さぶるというのに、誰よりも誇り高いシエルの瞳は、眼光だけで相手を金縛りにしてしまうほど力強い光を宿していた。

 ましてや挑みかかるようにしているシエルの瞳を間近で真正面から見たとあっては、メルクリーズが硬直してしまうのも無理はなかった。


「もっと俺に相応しいやつとは、例えばどんなやつだ?」


「それは、あの……ちゃんと魔族としての力を持っていて、もっと美しい方がいらっしゃるのではないかと」


 上ずる声で返すと、シエルは口の端だけで笑った。


「俺にはそんなものに価値があるとは思えないが?」


 その声音はとても冷ややかで、メルクリーズの心臓は凍りつきそうだった。


「何に価値があるのかは俺が決める。俺はおまえ以外はいらない」


 シエルが言いきる。

 そうだ。彼はそういう青年だったと、メルクリーズは今更ながらに思い出す。


 シエルは他者が勝手に決めた価値などには左右されない。すべて己自身で判断して決める、誰よりも強くて誇り高い青年なのだ。

 そんなシエルだから、その言葉に嘘がないことくらいはメルクリーズも分かっている。

 けれど、いくらシエルが自分を大切に想ってくれても、いつも心の奥底に消せない不安があった。

 それは他ならぬ自分が自分に価値を見出だせなかったからだ。


「訊いてもいいですか。シエルさんにとって、私のどこに価値があるのかを」


「そうだな。こうやって俺の隣でふつうに話をするところだ」


 そう言って、シエルはメルクリーズの頬から手を離すと、その手をそのままメルクリーズに差し出した。メルクリーズは小首を傾げつつも、シエルのその手におずおずと自分の手を重ねる。

 シエルの練絹のような手に触れるのは、今でも少し緊張してしまう。


「こうやって俺の手を取ることもいとわないだろ。そういうところだ」


「そんなことですか?」


「おまえはそんなことと思うかもしれんが、“そんなこと”をできるやつが他にいない。魔界の誰が俺の血にまみれた手を取る? 殺されることを恐れて恐怖に顔を歪ませるやつや、自ら命を絶つやつならいくらでもいるが」


 そう。だから彼は孤独だったのだ。

 彼の手が血にまみれたのも、圧倒的な力を持つ王であるがゆえ。

 魔族の王とは、魔族の中でもっとも力の強い者に与えられる称号。王を殺せば、その者が次の王となるため、まだ少年と呼べる頃に王の称号を得たシエルの命の狙う者は絶えなかった。

 それらの魔族を片っ端から始末していくうちに、いつしかシエルの繊細な心は壊れていき、そして、すべての魔族から恐れられるようになったのだ。

 出会った頃のシエルの空虚な瞳を、メルクリーズは今もはっきりと憶えていた。


 重ねていた手にぎゅっと力を込め、メルクリーズは反対側の腕を伸ばしてそっとシエルの肩を抱いた。


「すみません。よけいなことを思い出させてしまって」


「べつにかまわんさ」


 そう言って、シエルはメルクリーズの腰に手をまわして引き寄せた。

 そのまま一度だけかるく口づけを落とされ、メルクリーズは完全に息をするのを忘れてしまった。ただ呆然とシエルを見つめる。

 シエルはおかしそうに笑っていた。それがまたメルクリーズの心臓を止めそうになる。


「おまえは他にもっとと言うが、俺からしてみれば、メルクリーズがいちばん愛らしいぞ」


 キルクが聞いたら顎を外しそうなセリフを囁き、シエルは今度こそメルクリーズをしっかりと抱きしめた。


 ──ああ…、あったかい。


 自然とメルクリーズの瞼が落ちてくる。

 そのまますぐに眠ってしまったメルクリーズを見て、シエルは苦笑した。


「だから、無理をするなと言っているのに」


 慈しみに満ちたその声を聞く者はどこにもおらず、シエルはただいつものようにメルクリーズの赤銅色の髪をやさしく撫でる。

 普段は長い髪で隠れている左のこめかみにある古い傷痕を、シエルはそっと指でなぞった。

 きっと他にも体のあちこちにこのような傷痕があるのだろう。

 メルクリーズはシエルのことばかり心配するが、自分のほうがよほど辛い目にあってきただろうにと、シエルは思いやる。いまだに昔の夢を見てうなされるほどなのだから。


 メルクリーズは今も自分の受けた仕打ちが当然のことと思っているせいか、誰のことも恨んでいる様子はなかったが、それがシエルには少し哀れだった。

 誰かを恨めばいいと思っているわけではないし、どす黒い感情に身をゆだねることがないメルクリーズだからこそシエルも救われているのだが、やはり虐げられる自分が当たり前だと受け入れているのはいかがなものかと思うのだ。


 メルクリーズはきっと、酷い仕打ちを受けて悔しいと思ったこともなければ、自分を助けてくれる誰かの存在を期待したこともないだろう。だからこそ、彼女が唯一の救いとして求めたのは自らの死だったのだ。

 当然、自分を虐げた者たちに仕返しをしたいとも、見返してやりたいとも考えたことすらないに違いない。

 そういう環境で育ったのだ。力のない者は存在する価値もない、這い上がる余地すらない。それが常識という世界で。

 だから、自分がいくら言葉を紡いでもメルクリーズにはなかなか届かない。


「おまえは俺の心臓なんだぞ。俺はおまえしか選ばない。たとえ記憶がない別人格の昌輝でもな」


 分かってないだろと、自分の肩に頭を預けて眠るメルクリーズの髪にくちびるを寄せ、シエルはひとりごちた。

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