契約2
メルクリーズが目を覚ますと、そこはベッドの上だった。いつの間にか眠ってしまって、そのままシエルが運んでくれたのだろう。
メルクリーズは、シエルと同じように起きていられない自分が悲しかった。もっとたくさん話がしたいし、もっとたくさん一緒にいたいのに……。
身支度を整えてキッチンに行き、朝食の準備をしていると、メルクリーズは背後でかすかに物音がした気がした。振り返ると、高校の制服を着た少年がすこし眠そうな顔をしてうなじをさすりながらリビングに入って来るところだった。
「おはようございます、昌輝さん」
「おはよう」
にこりと少年が笑う。
その屈託のない笑顔にまだ慣れなくて、メルクリーズはどぎまぎしてしまう。
「夜ちゃんと眠れてる? そんなにいつも早く起きなくて大丈夫だよ? 俺、いつも自分で全部やってたから、一人で平気だし」
「ありがとうございます。でも、私が好きでしていることなので、気になさらないでください」
メルクリーズはトースターに食パンを入れてタイマーを回し、ティーポットにお湯を注いだ。紅茶のやさしい香りがふわりと広がる。
「あんまり頑張らなくていいんだからね、ほんとに。あと、今日は俺、クラスの友達と外で食べて来たいんだけど、かまわない?」
冷蔵庫からジャムを取り出しながら昌輝が言う。
メルクリーズは笑って答えた。
「もちろんですよ。というか、私に許可を得る必要なんてないんですから、昌輝さんの思うようになさってください」
「いや、でも夕食の都合とかあるでしょ?」
椅子に腰かける昌輝を、メルクリーズはどこか不思議な気持ちで眺める。
シエルは烏の濡れ羽色とでも言うべき艶やかな漆黒の髪をしているが、日中の姿である昌輝は赤みがかった黒髪をしていた。
容姿も、周囲の空気の色を変えてしまうほどの美しさをもつシエルに対し、昌輝は周囲に溶け込んでしまうようなおとなしい顔立ちだったし、何よりもそのやわらかい雰囲気が、研ぎ澄まされた刃のようなシエルとは正反対だった。
魔族としての力の片鱗もないし、昌輝がシエルだなんて、未だに現実感がなかった。
「大丈夫ですよ、夕食くらい何とでもなりますから」
「そう? 桜子さんはけっこう怒ってるよ? 雪人が俺と外食したりすると」
雪人というのは昌輝の友人で、桜子はその恋人だ。
「それは食事を作って待っていた桜子さんに黙って外食したか、直前に言ったからでは?」
「さあ、それは分からないけど」
「たぶん、そうだと思いますよ。とにかく私のことは気にしなくて大丈夫なので、昌輝さんはお友達の方と楽しんできてください」
「ありがとう。なるべく早く帰ってくるようにするから」
メルクリーズは思わずクスクスと笑ってしまった。
「昌輝さん、ほんとに私のことは気にせず、今までどおり自由に生活なさってください。いきなり押しかけてきたのは私のほうなんですから、私に合わせて生活を変える必要なんてないんですよ」
「いや、そうは言っても……」
チン! と、トースターが鳴った。
メルクリーズが焼き上がったパンをお皿にのせて、昌輝のところへ運ぶ。
ありがとうと、穏やかな笑顔を浮かべる昌輝に、メルクリーズは思わず視線を奪われた。
シエルとは別の人格だと頭では理解しているが、あまり表情を動かさないあのシエルがこんなにも自然に笑うのかと、何度目にしても驚いてしまう。
「そういえば、今日は桜子さんが仕事終わりにこちらに寄りたいそうです。以前、昌輝さんにお貸ししたガラス製のタッパーを取りに来たいとのことで。どこにあるかご存じですか?」
「それなら、シンクの上にある棚の右側に……ちょっと待ってね」
言いながら、昌輝が席を立つ。
メルクリーズは慌てて顔の前で手を振った。
「あ、いえ、パンが冷めてしまいますし、場所さえ教えていただければ私が自分で出しますので」
「いいよ、そんな細かいこと気にしないで。それに、リーズだと踏み台を持ってこなくちゃいけないでしょ?」
そう言って、昌輝は棚を開けてタッパーを取り出した。
昌輝は両親が仕事の都合で海外にいるため、つい最近まで一人暮らしをしていて、料理好きで世話焼きな桜子が昌輝の食事の面倒を見ていたらしい。
もちろん本性が魔族の昌輝に人間の両親などいるはずもなく、血の繋がりはない便宜上の養父母ではあったが、昌輝自身は魔族の記憶がないためにずっと本当の親だと思っていたようだ。
それが2ヶ月ほど前に、突然自分がシエルという名の魔族の王であることを明かされ、おまけに伴侶までいたことを知るという、本人にとっては青天の霹靂としか言いようのない現実を突きつけられたのだから、昌輝の心情は察するに余りある。
かつてメルクリーズは、魔族としての力を持たない者が王の伴侶になることは罪だと、命で贖えと、シエルの配下に殺された。
引き裂かれたメルクリーズの魂を捜すために人界を訪れていたシエルは、メルクリーズを蘇らせたあとも魔界に居場所のないメルクリーズのために人界で暮らすことを選んだのだった。
けれど、そんなことは人間のつもりで暮らしていた昌輝にとってはまったく関係のないこと。
シエルにとっては伴侶でも、昌輝にとっては見ず知らずの相手なのだ。いきなり一緒に暮らすことになって、ものすごく迷惑だっただろうなとメルクリーズは考えたりするが、同族に虐げられ、命すら狙われるメルクリーズの立場を理解していた昌輝は、メルクリーズのことを拒否したりはしなかった。
もちろん伴侶として受け入れてくれているわけではなかったけれど、そこはメルクリーズもまったく求めていないので、拒否せず家に置いてくれるだけで十分にありがたいと思っていた。
「家事とかほんと適当でいいから、ゆっくりしなよ? 体悪くしたら困るから」
手渡されたタッパーを胸に抱え、メルクリーズは微笑んだ。
「大したことはしていませんし、これくらいで具合悪くしたりしないから大丈夫ですよ」
「そう思うでしょ? でも、毎日気を遣って家事ばっかりしてると、知らないうちに神経すり減らすんだよ」
マーマレードをトーストに塗りながら、昌輝が言う。
シエルが柑橘系の果実を好むことは、昌輝を通して初めて知ったメルクリーズだった。同一人物なので当然かもしれなかったが、味の好みはシエルも昌輝も同じだったからだ。
そんな小さな発見の一つ一つがメルクリーズには嬉しかった。
「私、たぶん平気です。こうして自由に手足が使えるだけで幸せだと思っていますから」
マーマレードを塗る昌輝の手が止まる。その眉宇はわずかにひそめられていた。
「……リーズは魔界でいったいどんな生活をしてたの」
メルクリーズは曖昧に笑った。鎖に繋がれて幽閉されていたことなど、わざわざ昌輝に聞かせることではないだろう。
メルクリーズはおどけて少し大袈裟に肩をすくめて見せた。
「ご存じないですか? 最近まで私、仮死状態だったんですよ。だから、こうして自由に動けるだけでありがたいことだと思えるんです」
「うん。それは知ってるけど……」
目を伏せて黙り込んでしまった昌輝は、カチャリとマーマーレードを塗っていたスプーンをお皿の上に置いた。
そうして、顔を上げた彼の瞳は明るく輝いていた。
「ねえ。今度どこか行かない? なにか楽しいことしなくちゃ。俺とじゃ不本意かもしれないけどさ。何なら桜子さんも誘って」
「いえ、不本意だなんて、そんなことないです。昌輝さんこそ、そんなに私に気を遣っていたら神経をすり減らして具合を悪くしますよ」
記憶はないけれど、昌輝はシエルと同じく真面目で繊細で、そして優しかった。
ただ、シエルは寡黙であまり表情を動かさないので、表情豊かな昌輝を見ていると、メルクリーズはなんだかそれだけで楽しい気持ちになれた。