契約1
「──…リーズ、どうした。大丈夫か?」
「…う……ん……」
目を開けると、心配そうにこちらを覗き込んでいる榛色の瞳が見えた。
「……シエルさん?」
「ひどくうなされていたが、嫌な夢でも見たか」
こちらを覗き込んでいる艶やかな黒髪の青年が、そっとメルクリーズの前髪を掻き上げ、労るように頭を撫でてくる。
メルクリーズは目を伏せ、小さく息をついた。
「よく憶えていないんですけど、なんだか昔の夢を見ていた気がします」
「そうか。大丈夫か?」
「はい」
なぜだか体のあちこちが不自然に痛んだ。どうしたのだろうと思って腕を動かすと、ふぁさっと見慣れないブランケットが床に落ちた。
メルクリーズはそのときになってはじめて自分がソファに座ったまま眠っていたことに気づき、慌てて体を起こした。
「あの、すみません。私ったらいつの間にか寝てしまって......!」
きっと、だから昔の夢など見てしまったのだ。
鎖で繋がれていた頃のように座りながら眠ってしまったから。
いま何時なのだろうとリビングの壁に掛けられている時計を確認すると、夜中の1時を過ぎていた。
まだぼんやりとしている頭で、一生懸命に眠る前の記憶を手繰り寄せる。
たしか夕食の後片付けを終えて、美味しい紅茶の茶葉をもらったので、シエルのために茶器を準備しておこうとしたら急に眠くなって……。
「すみません。えっと、紅茶を頂いたのですが、飲まれます……か!?」
立ち上がろうとしたとたん、足元に落ちていたブランケットに足が絡まってつんのめった。シエルの力強い腕が素早くメルクリーズを支えてくれたので、みっともなく転倒することは避けられたけれど。
落ちていたブランケットを拾い、シエルはそのままメルクリーズを抱きかかえた。
「紅茶はまた今度でいいから、もう休め。疲れているのだろう」
そのまま部屋に運んでくれようとするシエルに、メルクリーズは腕を突っ張って、下ろしてほしいと抵抗した。
「あの、でも私、まだ眠りたくないんです」
ほんとうは体は眠りを欲していたけど、心が眠ることを拒んでいた。
シエルは、またメルクリーズが昔の嫌な夢を見たくないのだろうと慮ってくれたのか、そっと再びソファに座らせてくれ、自身も隣に腰かけた。
けれど、メルクリーズは昔の夢を見るのが怖くて眠ることを拒んだわけではなかった。
「シエルさんに会うの、なんだか久しぶりな気がします」
「そうか? 俺は毎日会っている気がするが」
「だってそれは、シエルさんが私の寝顔を見ているだけでしょう? 私はシエルさんに会ってないです」
「そう言われてみれば、そうかもな」
メルクリーズはため息をこぼす。
「どうして私は眠ってしまうんでしょう……。シエルさんは眠らないのに」
「それはメルクリーズが疲れているからだろう。眠ることが必要なだけだ」
またしてもメルクリーズの口から深いため息がこぼれる。
「せめて睡眠くらいはふつうの魔族と同じでありたかったです」
メルクリーズは魔族ではあったが、まったく魔族としての力を持たずに生まれてきていた。
力が誇りであり、価値のすべてである魔族にとって、力を持っていない魔族というのは同族などではなかった。
価値のないものはどう扱ってもいいという考えの魔族たちが暮らす魔界では、力の無いメルクリーズは家畜や奴隷のように扱われるため、安心して暮らせる場所などはどこにもない。
だから、自分自身は魔族の王であるにもかかわらず、シエルはメルクリーズのために人界で暮らすことを選んだのだ。
けれど困ったことに、魔族の王であるはずのシエルは、人界では日中は魔族としての力も記憶も失くしてしまい、ふつうの人間同然になってしまうという厄介な問題があった。
それは何の力も持たないメルクリーズと心臓を交換してしまったせいだったから、メルクリーズは愚痴などこぼしてはいけないと分かってはいたが……。
「私は夜になると眠ってしまうし、シエルさんは夜にならないと出てこられないし……。せっかく一緒に暮らしているのに、なんだか悲しいです。魔界で暮らしていたときは、こんなに眠ったりしなかったんですが……」
「日中は昌輝がいるだろう?」
昌輝というのは、シエルが人間として暮らしているときの名前だ。昌輝とシエルは同一人物なのだが、お互いに記憶がない。
「それは……はい、昌輝さんがいてくださいますし、シエルさんと同一人物なのも分かっていますけど、やっぱりシエルさんに会わないと心配で」
「心配? 何がだ?」
「だって、シエルさんは目が醒めたらいつも独りじゃないですか。朝までずっと」
そして、朝になれば、昌輝の意識と入れ替わる。毎日シエルが独りでいるということを考えると、メルクリーズは胸が痛くてたまらなかった。
魔族の王というのは、魔族の中で最も強い者に与えられる称号だ。圧倒的な力を持つ王であるがゆえに、魔界にいるときも孤独だった彼だから、せめて自分だけはそばにいてあげたいのに。
「そんなこと気にしなくていい。おまえが健やかな寝息を立てて眠っているだけで十分だ。こうやって、ときどき話もできるしな」
「でも……ずっとこんな生活じゃ、シエルさんに申し訳ないです」
「そんなふうに思う必要などない。それに、こっちの生活に慣れれば、メルクリーズも少しは起きていられるようになるだろう。今は体が慣れてなくて疲れているだけだ。今日の昼間は何をしていたんだ?」
穏やかな声で尋ねられ、メルクリーズは思わずシエルのほうを見た。
相変わらず名のある芸術家が彫った彫刻のごとく圧倒的に美しい青年で、一度目にしてしまうと、視線を釘付けにされてしまう。彼の榛色の瞳に自分が映っていることが未だに信じられないくらいだ。
「今日は栗の甘露煮を作っていました。今が旬の食べ物なんだそうです。ああ、そうだわ。甘露煮があったんでした。少し待っててください」
冷蔵庫からシロップに浸けてある栗を取り出し、器に入れてシエルのもとに持っていく。
「よかったら召し上がってみてください」
シエルがフォークを使って栗を口もとに運ぶのを、メルクリーズが緊張の面持ちで眺めていると。
「美味しいな」
そう言ってシエルが笑った。
ため息がこぼれそうになるほど美しい笑みにかるい目眩をおぼえながらも、メルクリーズはほっと胸をなでおろした。
「よかった。甘過ぎるものはお好きではないようなので、お砂糖を少なめにしてみたんです。すこし少な過ぎたかと心配だったんですが」
「いや、ちょうどいい味だと思うぞ」
シエルは器をテーブルの上に置くと、小首を傾げるようにしてメルクリーズのほうを見た。
「なにか困っていることはないか?」
「いえ、とくにはないです。シエルさんにあまり会えないこと以外は」
シエルは苦笑し、メルクリーズを抱き寄せた。
「そのうち会えるようになる。そのためにもあまり無理せず過ごせ。もしも日中に昌輝で対処できないような困り事があれば、キルクに言うといい」
キルクというのは、シエルの片腕とも言うべき魔族の青年のことだ。メルクリーズとも旧知の仲だ。
けれど、そんなことよりも今は自分に触れるシエルの体温に胸がドキドキしてしまって、息がうまくできなかった。
吸い寄せられるように、メルクリーズの腕がシエルの背中にまわされる。まるでパズルのピースがぴったりと嵌まったような感覚がメルクリーズの身体の隅々まで満ちていく。
やっぱりここが、この世でいちばん心安らぐ場所。
深く深く息をつき、メルクリーズはしずかに瞼を伏せた。