決意
メルクリーズの話を聞いている間、ずっとシエルの瞳はしずかで、何の感情の揺らぎも見えなかった。
「どうする? こっちから捜して狩るか? それとも、とりあえず泳がせておく?」
つい先日も同じダイニングテーブルを囲んでキルクと話をしたが、テーブルを囲むメンバーが桜子からシエルに替わるだけで、ずいぶんと場の雰囲気が違った。
あたたかさは皆無で、無意識に背筋が伸びるような凛とした空気が流れている。
ずっと黙ったまま腕組みをして話を聞いていたシエルは、ゆっくりと口を開いた。
「もともとそのへんの魔族ではメルクリーズを傷つけられないように守護してあるから、俺はどちらでも構わん。メルクリーズがどうしたいかだ」
シエルとキルクの視線が自然とメルクリーズに向く。
メルクリーズは膝の上に置いた手を見つめながら、とつとつと話し始めた。
「……私が今日声を聞いたのは女魔族だけなのですが、じつは私を幽閉していた魔族はもうひとりいるんです。男の魔族が。彼がこちらに来ているのかどうかは分からないのですが、男のほうが残忍な性格で執着心が強かったんです」
「うわ、出た。リーズのツイてなさが。変なのがひとりどころか、ふたりもって……どうなってんの? しかも、めちゃくちゃ最悪な男っぽいじゃん」
心底嫌そうにキルクが顔をしかめる。
「つまり、相手はもうひとりいると考えたほうが妥当ということか。残忍で執着心が強いということは、おそらくメルクリーズを殺すというより、捕らえようとするだろうな。俺の行動範囲に平気で入ってくるあたり、小者なのは目に見えているから、どうとでも対処できるが」
メルクリーズは正直、女魔族よりも男魔族のほうが恐ろしかった。
シエルにかかれば、大抵の魔族は赤子同然なのだろうけど、それはメルクリーズの感情とは関係のないものだ。
「メルクリーズ、俺はおまえが嫌でなければ、そいつらをおまえの前に引きずり出してやるぞ。おまえはもう、狭い世界に閉じ込められていた頃のおまえとは違う。俺がそいつらをさっさと始末するのは簡単だが、おまえを虐げたやつらをその目でしかと確かめておくのも悪くないと思うぞ」
「それ、悪趣味じゃねえ?」
シエルはふんと鼻を鳴らしただけで、何も答えはしなかった。
メルクリーズはくちびるを噛み、うつむいた。
できることなら、彼らにはもう関わりたくない。思い出したくもない。
反省も謝罪も無意味だし、求めていない。
何も望まないから、ただそっとしておいてほしかった。
けれど、向こうから近づいて来ようとするなら、それに対抗しないといけないし、どこかで決着をつけなければいけないのだろう。
メルクリーズの脳裏に、シエルの配下たちに刃を向けられた瞬間のことがよぎる。
あれも目を背けることなどできない現実だった。
逃げることなど不可能だったあのとき、追い詰められた自分はせめて顔を上げていようと思った。
何も持っていない自分だから、せめて誇り高いシエルに相応しい死に様でありたいと思ったのだ。
あのときの切羽詰まった覚悟を思えば、今のこれくらいのことは何でもない。
何より、あのときと違って、今はシエルが傍にいるのだ。
これ以上に心強いことがあるだろうか。
きっとシエルは、過去と決別するチャンスをくれようとしているのだ。
負けるなと。
メルクリーズはぎゅっとこぶしを握り、顔を上げた。
「分かりました。シエルさんの言うように、私を閉じ込めていた彼らを、今の私の目できちんと見てみようと思います」
そうだ。負けてはいけない。
シエルの隣で生きていくと決めたのだから。
少しでも彼に相応しい生き方をしたい。
メルクリーズの明るい若葉色の瞳は力強い光をたたえていた。
そんなメルクリーズの様子を見て、シエルは口もとに笑みを浮かべた。
「念のために先に訊いておくが、そいつらを殺してほしいか?」
メルクリーズは首を横に振った。
「いいえ。そこまでは望みませんが、もう私には関わらないでもらいたいです。あと、できれば……」
いくら自分を傷つけた者たちとはいえ、その命を奪う勇気はメルクリーズにはなかった。忘れたい過去なのに、わざわざ彼らの命なんて背負いたくもない。
それに、おそらく直接手を下すことになるのは、自分ではなくシエルだ。自分は手を汚さないくせに、簡単に相手を殺してほしいと言うのは、狡くて卑怯に思えて嫌だった。
「できればなんだ? 言ってみろ」
「彼らの屋敷には、私の他にも力を持たない者たちが複数いたんです。できれば、彼らも解放してあげたいのですが......」
彼らを幽閉している魔族の息の根を止めるという選択肢があるのに、その選択をしないのなら、自分だけが助かればいいという残酷なことを言っているような気がした。
彼らのもとにいる者たちを見捨てるどころか、加害者側にまわった気さえする。
甘いことを考えている自覚はあった。
この世には見捨てざるを得ない状況に直面することなど、きっといくらでもある。
でも、できることならば……。
ただ、やはりあれもこれもと言うのはさすがに欲張り過ぎで、高望みが過ぎるだろう。
メルクリーズはそう思った。
けれど。
「わかった。努力しよう」
意外にもシエルはあっさりと頷いた。
「えっ。ちょ……いきなり話がでかくなりすぎじゃねぇ!?」
キルクが声を上げるのも無理はない。
試しに言ってみただけだったメルクリーズも思わず目を瞠って狼狽えてしまった。
まさかシエルがそれほど簡単に了承するとは思わなかったのだ。
「ほ、ほんとうに構わないのですか?」
「おまえが言ったのだろう? この際だからとことんやればいい。メルクリーズがそいつらの死を望まないなら、死ぬほどの屈辱を味わわせてやるだけのこと」
俺がただで見逃すとでも思ったか? と、シエルが言う。
キルクはくっくっと喉の奥で笑った。
「やっぱりそうだよな。いくら寛大なシエルでも、そこまで甘くないよな。安心した」
キルクは思案するように左手を顎においた。
繻子のような綺麗なその手の甲には、ひと筋の傷痕があった。
「それなら、しばらく相手を泳がせるってことでいいのか? じゃあ、俺が護衛につくと、かえって邪魔になるかな? 警戒させちまうだろ」
「そうだな。近くで張り付いてると警戒されるし、そもそも小者であれば、力の差が歴然としているおまえには近寄ってこないだろう」
キルクはシエルに付き従ってはいるが、彼自身も王の候補者として数えられるほどの実力者なのだ。
相手はまだシエルの存在に気づいていないようだが、おそらくシエルにも気づいたら近付いてこないだろう。
「まったく……愚鈍な者には困ったものだな」
そもそもある程度力の強い魔族であれば、日中でもシエルの残り香とでも言うべき気配を感じ取って、その領域に入ることは避けるはずなのだ。ましてやシエルの心臓を持つメルクリーズを見ても平気で接触してくるような相手など、話にもならない。
「まあ、いいさ。そのうち思い知ることになる。自分たちが何をしたのかをな」
シエルの瞳には、魔族たちを震撼させてきた王の名に相応しい剣呑な光があった。