世界は平和になっている
ある程度動けるようになったのは二歳のころだったか。頼りない歩行でキッチンの包丁に手を伸ばした。踏み台にできそうなものを片っ端から並べて、背伸びをする。指先が包丁に触れる。
よかった。これで死ねる。あの世界に帰れるかもしれない。よかった。はやく、はやく——
「何やってるの?!」
暖かい手が私を引き戻した。
「華深!大丈夫!?怪我はない!?」
泣きそうなぐちゃぐちゃな顔で今世の母親が私の体の無事をたしかめた。立派な手が私を包んでいた。どんな魔物の攻撃も通さない、愛の結界だった。
「は、華深、あれはね、危ないからだめだよ、華深……」
母親の体と私の体が密着した。桜川華深は、母親に抱きしめられている。
「生きててよかった……」
母親の涙が、私に伝わった。
「おかあさん……」
十六才の少女の声が聞こえる。眠っている愛しの勇者の頬をなでる。ハナミはまだ起きない。ソニは地下牢でため息をついた。花の勇者の今世は幸せな家庭らしい。
ハナミの容姿は花の勇者と全く似ていない。花の勇者は美しい金の髪、たくましい筋肉、今世のソニの髪色のような深い青色の瞳の持ち主だった。男性だった。対してハナミは短いほんのり赤い黒髪はぼさぼさで、か弱い少女そのものの姿だった。魂のかたちを注視するソニでなければ、同一人物だと気づくはずがないのだ。つまりソニはハナミの愛のパートナーである。ソニはそう結論付けた。
「こどもは、どうしても、ははおやを好きになってしまうものだ」
そう言ったのは、金色の髪をハーフツインにした灰色の瞳の少女だった。少女にしては低い声。
「寝てるハナミもかーわい~」
ソニは無視してハナミの観察を続ける。何を言っているのだこの女は。そんなわけがないだろう。それは愛されて育った子供の戯言だ。
「こんなところに入れられるなら、ハナミとふたりっきりがよかったわ」
「私はお前たちが来てくれてうれしいぞ」
「うっさいわね。だまってなさいよ」
なんともはなにつく少女である。ソニは早速この少女を嫌いになった。もともと人を好きになるより嫌うほうが得意なのだ。そもそも、同じくらいの年で前世の記憶がある自分より大人びているのが納得いかない。
「ねえあんた」
「どうした」
「そろそろこの檻、壊しちゃっていい?」
ソニは拳をかかげた。
目を覚ますとまた地下牢にいた。正確には檻がぐちゃぐちゃに破壊された地下牢にいた。ソニがやったのだろう。私は目をこする。確かイニティオ村のみんなにご飯をもらって……なんか盛られて……え、なんで!?大歓迎だったじゃん!?
「おっ、華怜の格闘家、勇者さまがおきたぞ」
混乱していると聞きなれない声が聞こえた。見てみると、ソニと同じくらいに見える金髪の少女がいた。
ものすごいスピードで寄ってきたソニに抱き着かれる。ちょっと呼吸が苦しい。
「えっと……私はハナミ。おまえは?」
「わたしは……ミコだ。おまえたちよりまえからここにいた」
ここ、というのは地下牢のことだろう。こんな小さな女の子を監禁するなんて。イニティオ村は50年で変わってしまったのか?
「そうだ。この村はもうほろんでいる」
「私、今声に出してた?」
「ながくいきると、さっするちからがみにつく」
「なによあんた。あたしと大して年変わんないじゃない!」
ソニは十二プラス二十五で三十七歳だろう。と思ったが黙っておいた。このミコとかいう少女はかなりませているらしい。
ってちょっとまって。いまもう滅んでるって言った!?
「それにイニティオ村が滅んでるってどういうことよ!大人も子供もあんなにいたじゃない」
ソニがミコにピッと指をさしながら叫ぶ。私も同じことを思った。あんなに人がいて、あんなに食料があって。滅んでいるというのは無理があるだろう。それとももっと内面的に「終わってる」というような話なのだろうか。
「華怜の格闘家。おまえ、ひとのたましいをみるんじゃなかったのか?」
「はあ?!だからなによ!」
「あのたましいに、いわかんは、なかったのか?」
ソニはだまって、あごに手を当てた。魂に違和感というのは?私にはそういうのは全く見えないのでわからない。ミコは何を言いたいんだ?
「あのたましいは、ひと、の、ものだったか?」
瞬間幼い顔がみるみる青ざめる。
「何言ってるのよ。あの魂には何の違和感もなかったわ!」
震えながらいう。私は置いてけぼりを食らっている。
「そうか……そのくらいとけあっているのか」
ミコは私たちをみていなかった。ただ、どこか遠くを見ている。現実から離れたい、そんな目に見えた。ソニが私のスカートをつかむ。その手は震えている。ソニはこの後ミコが何を言うかを察したに違いない。
「もういちどいう。このむらはもう、ほろんでいる。むらびとのたましいはみな、しんでいる」
やっと気が付いた。ミコの灰色の目は遠くを見ているんじゃない。何も見ていないんだ。少なくとも、私たちが知っているものは何も見えていない。死にたがっていた、過去を見ていた私と同じなんだ。
イニティオ村は平和そのもの。確かに、五十年前はそうだった。王都近くの平原という立地もあり、旅を始めた人々が最初に寄り付く村だった。その旅人たちをもてなすかわりに、魔物討伐などのいろいろな仕事をしてもらうことで成り立ってきた。だが、魔王が勇者によって討伐され平和になったはずの世界でイニティオ村は襲撃された。魂だけを殺されたのだ。
「さばくにいる魔法使い、エジミラのしわざだ。あいつはししゃのたましいをあやつる」
エジミラは配下の魔物達をイニティオ村の人々の中に住まわせた。その身体に魔物の魂を慣らしていく。
「すこしまえからこのむらは、まもののむらになっていた」
魔物たちは以前のように旅人を歓迎するふりをして眠らせ、牢屋に閉じ込める。
「そしてまた、エジミラがそのたびびとを、まもののすみかにするのだ」
信じがたい、恐ろしい話だった。あの心豊かな優しい村は、とっくに滅ぼされていた。彼らの魂はもう、この世にいないのだ。と、いうか早くここから逃げないと私たちも魔物の新居になるのでは!?
「というわけで、わたしはおまえたちがきてくれてうれしいぞ」
「ちょっとまって。なんであんたはそんなこと知ってるのよ!」
ミコはきょとんとする。
「すうねんここにいたからな」
「数年!?」
「なんでよ!?なんであんた無事なのよ!」
「すごいだろ~」
ミコはどうやらただませているわけじゃないらしい。
「ところで花の勇者たちにおねがいごとがふたつある」
ミコはそう言いながら指を二本立てた。
「そのいち。わたしをにがしてくれ。おまえたちがくるのをずっとまっていた」
まっていた?というのにつっこんでも無駄だと感じたので黙っておく。もちろんミコを置いていく気など全くない。逃げるならみんな一緒である。
「そのに。このむらを、すくってくれ」
救う。
「救うって言っても。この村の人たちはもう死んじゃってるのよ?」
「うーん。それでも勇者ごいっこうか?このむらのひとたちの、むねんをはらしてくれ、といってるんだ」
「確かにその通りだな」
この村をこのまま放置していると、被害者が増えてしまう。それに。
「イニティオ村のみんなの仇を討とう」
私は立ち上がる。村のみんなの死体を埋めてやりたかった。この世界に確かそんな文化はなかったはずだが、桜川華深が育った世界では埋葬という文化がある。そのために、まずはこの牢屋、崩壊済、から脱出しなくては。
ところで。
この世界、全然平和になってなくないか!?