第七集「帰る方法」
主従が出ていって静かになったときには、部屋は薄暗くなっていた。
大伴くんにも「明日の朝、迎えに来るから、今日は早く休んで」と言われたことだし、燭台はつけないで(というか火のつけ方が分からない)、今日はおとなしく眠ろうとベッドに入ったとき、さっき持ち込んだ冊子に気づいた。
開いてみる。
しっかりと読める。薄暗い中だと、こんな藁半紙みたいに書かれた細かい字は、ちょっと見にくいはずなのに……。
やっぱり俺は、唐の長安で壱岐真仁くん十六歳になっているんだ。
ということは、壱岐くんは現代世界で三十過ぎのおっさんになっているってこと、だよな?
俺は大学時代の専攻は中国史で、在学中は何度か中国旅行もしたし、阿倍仲麻呂をメインに遣唐使について学んだ覚えもある。学生だったのは十年前の話だけれど、全くの無知ではない。おまけに人の好い壱岐くんに恩を感じる人々に助けてさえもらっている。
それにひきかえ――彼の状況はあまりにも過酷。
俺はと言えば、この地に一人旅でやってきたうえフリープラン7日間の初日、誰も知り合いがいない。電子SIM入れてあるから異国でも使えるとはいえ、スマホなんて彼には意味不明だろう。金だってカードを使うつもりだったから、たいして両替していない。
しかもおっさんだから体力ないし(もともと運動神経悪いし)。
このままではマズイ。
同じだけ時が経っているとして、あと4日で帰国しないと、不法滞在で壱岐くんが捕まってしまうのでは? 彼が日本に帰国したら不法滞在は免れるけど、そんなことになったらもう何が何だか――。
「いや」
そうじゃないな。
俺は手元の冊子に目を落とした。
随分くたびれている。何度も何度も繰り返し読んだに違いない。傔従くんがいうように、彼はものすごく勉強していたんだろう。選ばれて国の代表になるくらいだし、周りの人を見るに、若いのに人格者なんだと思う。
きっと大望を抱いて、海を渡ったに違いない。
それにひきかえ、こちとら、三十にして立つ――じゃなくて無職。
月の綺麗な夜だった。
いつものように日が変わる直前に駅を下り、いつものようにコンビニで弁当とビールを買って、アパートに帰った。よくあることだけど得意先と上司に理不尽に色々どやされ、重い足取りで階段を上がった。
そうして部屋のドアを開けた時、明るい月の光がまっすぐに差し込んで、狭い1Kを照らし出した。
六畳の部屋には、封も開けてないDM、空のペットボトル、ビール缶、コンビニ弁当、ビニール袋……ベッドと座る以外の空間を埋め尽くしていた。
玄関には朝捨てられなかったごみ袋が積みあがっていて――毎日見ていた部屋のはずだったのに、何故か、言いようのない怒りなのか虚しさなのか分からない感情が突き上げてきて、気づいたら、俺は泣いていた。
そうして俺は仕事を辞めた。次にどうするか、なんて何も考えず。
家に離職票が届くまでの一か月、俺は家に引きこもってひたすら寝て、部屋をぼちぼち片付けて、散歩したり、料理をしたり、ぼんやりとテレビを見たり気ままに過ごした。
ある日、夜中に目が覚めて、テレビをつけたら世界の夜市特集をやっていた。
そこで学生時代に旅行したこの町が出てきて、「ああ、中国行こう」と思い立った。
翌日さっさと旅行会社に申し込み、緊急連絡先には勝手に兄の名前を書いて、誰にも言わず日本を出た。何にも背負ってない、誰のことも考えていない、ただ、自分の気持ちだけに従っただけ。
大任を負った国選留学生が、こんな無責任な無職のアラサーに入れ替わってしまうなんて――どれだけ心細く、情けない思いをしているんだろう。申し訳なさすぎる。
どうしてこうなったんだろう。
英雄豪傑の歴史に心躍らせ、かくあらんと思っていたはずなのに――。
俺は大きく息を吐いた。とにかく、だ。
俺が捕まろうと何だろうと、大望を抱いて海を渡った若者の前途を奪ってはいけない。
何としてでも、元に戻らないと。
こういう展開のドラマやアニメだと、同じ状況を起こせば戻れるってパターンだよな。
つまり、同じ場所に行って、また跳ね飛ばされて屋台に突っ込めばいいのか――安易だと思わなくもないが、それ以外、思いつかない。
しかも同じ状況というならば――壱岐くんも同じことをしてくれないといけない。
恐ろしい確率だ。なんだか掌がじっとりする。
とはいえやってみるしかない。
同じ時間帯と考えると、今日は時間が差し迫っていて難しい。
帰国日までにとなると、チャンスは2回。
まずはどの場所で事故が起こったのか訊かないと――。