第六集「記憶喪失」
彼は大股で近寄ってくると、「今はしっかり休まないと」
さあさあと促され、俺は渋々ベッドに戻る。袖の下に冊子をこそっと隠し持ちながら。
「おかげんはいかがですか?」
「大丈夫、です。もう普通に生活していいと、医者の方にも言われました」
「それはよかった! 主もお喜びになります。ところでこれ――」
彼は懐から、黒い何かを取り出した。掌に載るくらいの、小さな壺だった。
「これを塗ると、傷跡が残らないって。余りたくさんは買えませんでしたが、使ってみてください」
俺は驚きのあまり――まじまじと傔従くんを見た。
遣唐使は国や唐から支給があるということだったけれど、彼のような立場ではそう多いものではないはず。しかも彼は大伴くんの傔従なのであって、壱岐くんのために身銭を切る必要なんてない。
なのに。
「――何でここまでしてくれるの?」
思わず訊いていた。すると傔従くんはちょっと驚いた顔をして見せたけれど、ふっと笑って、
「それは、壱岐さまが私に良くしてくださったからですよ。ご自分の具合も悪いのに、残り少ない船酔いの薬を、傔従でしかない私に下さいました。私が無事に長安の地を踏めたのは、壱岐さまのおかげです」
だから?
掌客様や大伴くんが俺に親切なのも、壱岐くんが彼に良くしたからってこと?
「あ、ありがとう。大事に使わせてもらうね」
声が震えそうになった。目からも何かが零れそうになって、俺は壺の蓋を開ける態で目を伏せる。
中身はおどろおどろしい深緑色で、これまた何とも言えない妙な香りがした。いかにも効きそう、だ。
「朝晩、二回塗るといいらしいですよ。今日寝る前に塗ってみてください」
傔従くんはニコニコしている。きっと、壱岐くんのこと好きなんだろな。
遣唐使船って、恐ろしいほど造りがヤバいと聞いたことがあるし、船酔いなんて相当だろう。その状況で残り少ない薬を分けてあげるなんて、どんだけできた十六歳なんだ。
それにひきかえ――。
「他に何か必要なものはありますか? もしくは訊きたいことは?」
その言葉に甘えて、俺はトイレに連れて行ってもらうことにした。
部屋を出たら廊下になっていて、正面の壁には窓があった。
左右には同じ扉がずらっと並んでいて、扉の傍らに番号の書かれた札がかかっている。どの扉の前にも窓があり、窓と窓の間には、据付の燭台があった。
俺は傔従くんの後についてトイレに向かいながら、色々と質問をした。
鴻臚客舎と呼ばれるこの敷地には、同じような建物が他にもあり、各国からの使節団が滞在しているという。なんと最大収容数は千人!
その、各国からの使節団の接待係が掌客。
鴻臚寺の三大部署の一つ典客署に所属する役人で十数人おり、割り振られた国の使節団が去るまで、その世話をするのだという。
掌客って役名だったのか。
それはため息をつかれるはずだ――そして日本の担当者である彼は、「許宇」という名だそうだ。
「十数人で千人って……掌客の方、相当お忙しいですね」
「いつも千人が滞在しているわけではないそうですよ。それに彼らはあくまで接待の責任者であって、実務を担当する雑用担当者が多数いるみたいです」
だよね?
責任者があそこまでやらないよね、普通。
そう思っていたら、隣から視線が下りていることに気づいた。
目を向けると、傔従くんが何とも言えない、複雑そうな顔をして、俺を見ていた。
「今の話、壱岐さまから聞いたんですよ。覚えてないってより、最初から知らない、って感じですよね――本当に、大丈夫ですか?」
鋭い。
なんて言い訳しよう……思ったところで、「あちらです」そう傔従くんに示されたので、俺は慌ててトイレに入った。
トイレは――まあね、学生時代に行ったマイナーな観光地で、穴堀っただけってとこあったから、それに比べたら大分マシってことで、うん。
◆
部屋に戻ったら、大伴くんがいた。
「顔色が良くなったみたいだね、安心したよ」
相変わらずの爽やかスマイルである。
傔従くんは「お医者様も問題ないとおっしゃられたとか」
それを聞いて、大伴くんは眉をひそめた。
そうだった、掌客様は「しばらく安静が必要」って言ってたんだった。俺は慌てて、
「でも、頭を打っているから念のためしばらくは安静に――ということでした!」
「へえ、念のため、ね……」
声が低い。
いつも爽やかスマイルだからこそ――その目が怖いんですよ!
俺が曖昧に笑っていると、大伴くんは一転、いつもの穏やかな様子に戻り、
「まあ、でもよかった。今日は早めに休んで。明日の朝ご飯は一緒に食堂で食べよう」