第三集「新たな男」
「お替わりは?」
「あ、りがとう、ございます」
思いっきり戸惑いながら空の茶碗を差し出したけれど、好看好人=大伴高理くん、は、男の俺でも見惚れる爽やかな笑顔を見せて、席を立った。
大伴くんはベッド脇の卓上に置かれた急須から茶碗に水を注ぐと、軽やかに身を返して、俺に渡してくれる。
そのうえ「寒くない?」言いながら、上体を起こしたときに脇にずり落ちた衾を引っ張ってきて、下半身にかけてくれる。
これがスパダリっていうヤツですか?
思いつつ彼に目を向けるが、相変わらず綺麗な笑顔は崩れてない。
だけど内心、絶対動揺しているはず。
俺ときたら、「頭を打ったから記憶が曖昧」と言いつつ、今が何年で、ここがどこで、自分たちは何者なのか(名前含む)等々、「……曖昧?」と不審がられても無理はない質問を重ねたんだから。
ここは唐の都・長安で、彼と彼は留学生として滞在してひと月ほど、だという。
俺がいるこの部屋は、宿舎としてあてがわれている鴻臚客舎の一室、だとか。
つまり遣唐使、ということだ。この、大伴くんも、この俺=壱岐真仁くんも。
しかも十六歳! 俺の半分なんですが。
国の代表だから見た目の良さが重要視されたって教授言ってたけど、本当だったんだな。
とはいえ、まだ十八歳にして大伴くんのこの落ち着きぶり、伊達に国の代表やってない。
大伴氏って教科書で見た覚えがあるし、さっき彼に言いつけられて部屋を出ていったのは、彼が日本から個人的に連れてきたという傔従=雑用係というから、名門の子息なんだろう。
今は三代皇帝、つまり高宗の御世だという。となると西暦600年後半か?
大伴くんが言うには、三日前、鴻臚寺(確か、外国使節を接待する役所だったはず)の役人に引率されて、大伴くん他数人の留学生と長安城内見学に行ったところで、突如いきり立った馬に蹴飛ばされ、屋台に突っ込んで昏倒し――今に至る。
大学の専攻は中国史だったけれど、学生だったのは十年も前のこと。
在学中は何度か中国旅行もしたけれど、就職してからは国内旅行だってしなくなった。
久々の旅行で、こんなことになるなんて――理解が追いつかない。
「どうした? 何処か痛む?」
緊迫した声に、俺は自分が頭を抱えて立てた膝に顔を埋めていたことに気づいた。
「いえ、大丈夫です」慌てて顔を上げて首を振ったら、ふらっとした。大丈夫じゃなかった。
「危ない!」と大伴くんに背を支えられたとき、またしてもこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
扉が三度叩かれた。
『失礼』冷えた声。
見れば、部屋の入り口に、一人の男が立っていた。
青い丸襟の衣にベルト、ブーツ、そして頭上の髷は布ではなく冠で覆われている。細身の体は背筋正しく、尖った顎に切れ上がった目といい、「切れ者」な雰囲気がひしひしと感じられる男だった。
「掌客殿」
大伴くんが俺に背を添えたまま立ち上がろうとするのを、彼は手で制しながらこちらに近づいてきた。
『壱岐殿が目覚めたと聞いた』
中国語だ。もしかして鴻臚寺の役人だろうか?
彼はベッド脇に立つと俺を見下ろし、『没事?』と訊いてきた。
睨まれてる? と思える眼光の鋭さに、俺は何度も頷いてしまい、再び大伴くんに支えられる羽目になった。
掌客様は、ふいっと大伴くんに目を向けると、「あなた、今日、学校行く。壱岐殿、私が見る」
片言だけど日本語じゃん!
思わず彼を見上げると、彼はチラッとこちらに視線を投げてきた。一瞬、口元が上がったように見えたのは気のせいか?
「すぐ我が国の医者が来ます。大丈夫です」
「医者、私呼んだ。我が国の事故、我が国が見る、当然」
すっと大伴くんが立ち上がり、二人は自然と対峙する形になる。
なんかバチバチしてないこの二人? これもしかして国際問題なの?
でも――中国の医者に来てもらった方が、言葉が分からない態で色々ごまかせそう。彼が日本語を使ってくれてるってことは、あんまり中国語が話せないって判断されてるんだろうから。
掌客様は片言でも充分分かるし、彼からも情報を引き出せそう。
俺は大伴くんの袖を引き、
「ここは、掌客様のご厚意をお受けいたします。大伴様はどうぞ学校へ。我ら留学生の本分ですから」
幾分早口にそう伝え、「ささ」と退出を促した。
さきほどから優しい顔を見せていた大伴くんが一瞬怖い顔で俺を見た気がするけど、気づかないふり。
大伴くんは小さく息を吐くと、俺の背に手を当てたまま身を屈め、「とりあえず横に」と俺を再びベッドに寝かしつけると、掛け布団をかけながら、「なるべく早く帰ってくるから、それまではゆっくり休んでいて」耳元で囁かれた。なんかぞわっとした。
大伴くんは身を返すと、
『ご厚意に感謝します。彼をよろしくお願いします』
大伴くんは滑らかな中国語でそう言うと、滑らかに礼を執り、部屋を出ていった。
大伴くん、中国語できるじゃん! つまり彼は、壱岐くんのために日本語を使ってくれてるってわけね。二十年ぶりに中国語を話す俺にとっては、好都合。
「さて」
大伴くんが去ったところで、青衣の彼がくるりと振り返った。
彼は傍らの椅子に座ると、
『私が分かるか?』
訊いてきた。
『掌客――様?』
おずおずと答えると彼は小さく首を振り、「俺を覚えているか?」改めて日本語で訊き直してきた。
俺が大伴くんの言葉を真似ただけなのが分かったんだな。
「いえ」正直に答えると、彼は大きくため息をついた。
にわかに立ち上がり、
「医者を連れて来る。落ち着いたらまた話そう」
ビックリするほど滑らかな日本語でそう言うと、彼は部屋を出ていった。