第二集「大混乱」
大いに混乱していると、こちらに小走りに近づいてくる足音が聞こえた。
「まひと!」
開け放たれた扉から大きな声で駆け込んできたのは、二十代前後と思しき若者だった。
彼は大股でベッドまで歩いてくると、俺に付き添っていたひょろり男を振り返り、「掌客殿にご報告を」
男は頷き、慌てて部屋を飛び出していく。
ドタドタと遠ざかっていく足音をぼんやり聞いていたけれど、何だか視線を感じて、俺はそちらへと目を向ける。ベッドの傍らに立つ視線の主は、俺の視線を捉えると小さく微笑んだ。
この姿――日本の着物じゃない。胸元で襟を合わせる見慣れたものと違って丸襟だし、やっぱり頭のてっぺんで髷を結っている。
これは中国の服だ。それも昔の。
視線を動かしてみる。
開け放たれた扉の正面には窓がある。そこから射し込む日差しが、細長い室内を隙なく照らしていた。
部屋の隅にある棚といい、一段高い床面に据えられた文机と座椅子といい、このベッドといい、全ては柱と床と同色、木製のようだ。文机の傍らにあるのは――あれって、燭台?
思わず天上を見上げたけれど、どこにも電球は釣り下がっていない。
確かに俺は中国には旅行に来た。
悠久の古都を巡る七泊八日のフリープランで。
だけど何だこの風景、時代劇のセットか? まるでタイムスリップしたみたいじゃないか。
「落ち着いた?」
ほんの少し高めの、柔らかい声だった。
傍らの彼は、じっと俺に目を注ぎ続けていたようだ。
面長ですっきりとした輪郭、きりりとした口元と涼やかな一重が見目麗しく、誰もが認めるしかないイケメンだった。
その彼が、随分と優しいまなざしで俺に目を注ぐのだ。なんというか――妙な気分だ。
そういやさっき鏡に映った「俺」の顔も、大きな目をした、子犬を思わせるかわいい感じのイケメンだったな。
彼はベッド脇の椅子に座る。
ただそれだけのことなのに、袖を軽く払い、流れるように腰をかけるさまが優雅で、思わず見惚れてしまった。背筋もきちんと伸びてるし、見た目だけじゃなく振る舞いも、まるで貴族――と思ってたら、なんか手が温かい。
目を下ろすと、腹の辺りで軽く重ねていた両手に、彼が手を重ねているじゃないか!
思わず顔を上げると、優しい眼差しが――ほんのりと赤く、潤んでいる。
「よかった。馬に蹴られて屋台に突っ込んだ挙句、三日も目を覚まさなくて――このままだったら、どうしようって……」
震える声が消え入る。目元が一層赤くなって、あれ? 目の下、隈ができてない? もしかして眠れてなかった? 俺が心配で?
というか――馬? 車じゃなくて?
確か、いきなり暴走した車に跳ね飛ばされたんだった。そしてサンザシ飴の屋台に突っ込んだ。
そこまでは理解できるけれども。
俺は、慣れない体温に包まれ居心地の悪かった両手をさりげなく引き抜くと、それでこめかみを押さえながら、
「あの……ちょっと、色々分からなくて……」
「うん」
彼は、まっすぐ俺を見つめて「分かるよ」と言わんばかりにしっかりと頷いた。
本当にイケメンだな。嫉妬する気にもならんレベル。
そんなイケメンが、余りにもじっと見つめてくるので、なんだか気まずくなって、なんとなく視線を外しながら、
「まだ頭がぼんやりして……。ちょっと質問してもよろしいでしょうか? 場合によってはおかしな質問をするかもしれませんが……」
俺の言葉に、彼は何度も頷き、
「こんな状況だから混乱するのは当然だよ。気にしないで、何でも訊いて」
随分と優しい声で、そう言った。