くるみ先生、東京へ行く。
冬休み第一日目から何の予定もない俺を置いて、両親は結婚記念日の温泉へ出かけた。
だから今日はダラダラしてやるか。
そう思って朝食を食べ終え、階段を上がろうとした時。
和室のふすまがスターンと開いて、ひょこっとそこから女性が顔を出す。
「ちょっとちょっと」
女性――ミルクはちょいちょいと俺を手招きする。
俺が和室に入るなり、ミルクは正座をした。
「健太、大事な話があるの」
そう言ったミルクは、今日も恐ろしいほどにきれいだった。
やや釣り目がちの大きな瞳の色はグリーンで、全体的に整った顔立ちをしているし、ふわふわの猫っ毛の銀色の髪は肩までのボブヘアー。
華奢な体を覆うのは、『着たら二度と脱げなくなる』とネットで噂の、人をダメにするパジャマ。
まるでパジャマを着た天使みたいだった。
「猫もダメにするのか」
俺がそう呟くと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
その表情にふいと目を逸らす。
この美人は俺の姉でもましてや母でもない。
飼い猫である。
いや、比喩ではないぞ。
男子高校生の妄想でもないぞ。
勘違いしないでくれ。
誰に言うでもなく言い訳を脳内でしていると。
ミルクがこう言った。
「私を東京に連れて行ってほしいの! お願いっ!」
ミルクが一瞬、何を言っているのかわからなかった。
東京へ、行く?
その途端、俺の脳内では、ミルクが東京のどこの馬とも骨も知れない男に飼われるのを想像する。
それからミルクを抱きしめてこう叫ぶ。
「嫌だ! 今さらミルクを他の家にやらないからなっ! そもそもミルクはただの猫じゃねえ!」
俺は興奮してさらに続ける。
「猫又だから他人には見せられねーんだよおお」
「ねえ、健太、苦しい……」
ミルクの言葉に、俺は思わず彼女の体を離す。
いくら猫とはいえ、今は人間の姿だ。
女子の体に抱き着くなんて……でも、柔らかかったなあ……いやいや、何考えてんだ俺。
鼻血か出そうになる気配を感じて、俺はスマホの画面を見る。
そこには、真っ白な毛の美猫が映っていた。
猫の状態のミルクだ。
途端にすっと鼻血はおさまり、正常に戻る。
猫のミルクもかわいい。最強の美猫。
「あのさ、私の昔の写真を待ち受けにしてくれるのはいいんだけれど、今は私の話を聞いてくれるとうれしい」
ミルクの言葉に、俺は我に返る。
「ああ、すまん。それで、東京には何をしに行くんだ?」
買い物か?
そう言いかけた俺に、ミルクは畳の上に視線を落とし、それから勢いをつけるかのように言う。
「私ね、作家になれるかもしれないの!」
「は? サッカー?」
「サッカーじゃない! 作家! 小説家!」
「え……。エッセイ的な? いや、だめだろ、正体ばれちゃうだろ!」
「もし私が猫なんです、ってエッセイ書いて誰が信じるのよ。健太ぐらいでしょ。違うよ」
「じゃあ、なんだ」
「ミステリー!」
ミルクがうれしそうに答えたので、俺は「ああ」と妙に納得した。
一人の部屋が欲しいと家族に相談したミルクに、母が用意したのは六畳の和室。
もともとは客間だったが、今はお客もあまり来ないし、泊まるような来客なんてなおさらいない。
そういうわけで、ミルクは父のお古のパソコンと、リビングにあったこれまたお古のテレビ、俺がつかっていない本棚というこの家の家族の匂いで満たされた部屋で寝起きしている。
本棚には、ミルクがネットでポチッた本がどんどん増えていった。
刑事ものやサスペンスのDVDなんかも増えていった。
母が作ったミルク口座には、どんどん金が振り込まれ、母に聞いてみればミルクは現在コラムライターをしているのだとか。
猫と暮らすコツや楽しさを書いたコラムは、それなりに需要があるらしい。
そういうわけで、ミルクは人間ライフを楽しんでいる。
二十年も猫をやってきたとは思えないくらいに。
「私ね、小説投稿サイトに小説を連載してて、それで出版社に声をかけられたの」
「へえ。すごいな。ってゆーか、小説投稿サイトに小説投稿してたのは初耳だな」
「だって誰にも言ってないし。SNSで猫又コミュニティで情報交換してることも知らないでしょ」
「猫又コミュニティがそもそも初耳だ。そんなんあるのか」
「そう。妖怪専用SNS。猫又は人間になってからは少なくとも八十年は生きるってことも、この情報交換で知ったのよ」
「ああ、俺がミルクの寿命を心配したときのことか……いや、今はそのことじゃなくて、小説家の話だ」
「そうね。それで出版社に行ってみたいの。私の担当さんも会ってお話できるならぜひって言ってくれてるし」
ミルクはそう言うと、「だから私を東京に連れて行ってください」と頭を下げた。
「わかった。で、いつ行くの?」
ミルクは顔上げ、笑顔で答える。
「今日!」
マジかよ……。
「これが、新幹線、かあ」
駅のホームに滑り込んできた新幹線を見て、ミルクがごくりと唾を飲み込む。
結局、俺はミルクの『お願い、私の作家人生がかかってるの。ドタキャンしたら印象悪い』と言われて渋々OKした。
最初から俺を連れて行く気満々じゃねえか。
まあ、高校生活初の冬休みは何も予定はないわけだが……。
新幹線に乗り込む俺とミルク。
空いている座席に座った途端、隣のミルクがこちらをじっと見てくる。
「ああ、窓際がいいのか」
俺がそう言ってミルクと席を変わると、ミルクは言い訳をするかのように呟く。
「車窓からの眺めで良いトリックが思いつくかもしれないし」
外が見たいだけだろ。
そう思ってハッとする。
ミルクの頭には、白い猫耳が生えていた。
俺は慌ててミルクのコートのフードをすぽっと頭にかぶせてやる。
「落ち着け。猫耳が生えてきてるぞ」
小声で俺が言うと、窓の外を見ていたミルクがこちらを見た。
「別に興奮なんかしてないよ。むしろ新幹線って思ったより小さいなーなんてガッカリしていたくら……」
そう言ったミルクの顔に、にゅっとひげが生える。
猫のひげだ。
ミルクは顔を隠し、それからコートのポケットに手を入れた。
白いスマホは彼女専用。
その画面をじっと見つめているうちに、ミルクの耳やひげは消えていた。
「なあ、いつも思うんだけど、何見てるんだよ、それ」
俺がミルクのスマホを覗き込もうとすると、ミルクは俺をにらみつけた。
「セクハラ!」
その声がやけに大きく響いて、俺は慌てて周囲を見る。
幸いなことにこの車両には人がほとんどいない。
ホッとしていると、ミルクはさっとポケットにスマホをしまってから口を開く。
「健太が見ても面白い写真じゃないよ。だって私の心を落ち着けるために見てるものだからね」
「まあ、そうか」
俺はそう言って、ふうと安堵する。
ミルクは、二十歳を境に尻尾が二又になり、人間になった。
最初のうちは、たまに人間になれる、というだけだったが。
あれから二年が経ち、現在二十二歳のミルクは人間の姿でいることのほうが多い。
だが、猫の姿に戻ってしまうこともある。
そのきっかけとなるのは、興奮だった。
興奮したり、好奇心旺盛さに火がついたりしてしまうと、猫に戻ってしまうのだ。
しかも、一瞬で猫に戻るわけではなく、耳が生え、ひげが生え、尻尾もはえ、最終的に猫の姿になる。
落ち着けば人間に戻れるのだけれど、完全に猫の姿になってから人間に戻るのは大変らしい。
だからミルクは一人では出かけられない。
どこで猫の姿になるかわからないからだ。
家族と一緒に出かける時も遠出はしたことがない。
それなのにまさか東京に行くことになるとは……。
一応、キャリーケースも持ってきたので、最悪、ミルクが完全に猫に戻っても楽々運ぶことはできる。
まあ、猫にならないのがミルクにとっては一番いいのだろうけれど。
出版社にいる時に猫になったら、それこそ大事だからな。
ミルクは俺が一緒にいるから、と安心しているけれど。
俺も実は新幹線に一人で乗るのは初めてだし、東京へ行くのは小六の修学旅行以来だ。
だから、事前に新幹線の時刻表から切符の買い方、出版社までの道のりを調べておいた。
そういや、SNSを見ていたら俺のように初めて新幹線に乗るから不安、という人に誰かがこんなコメントしていたっけ。
『新幹線は座席ではきちんと靴は脱ぐんだよ。土足厳禁だよ』と。
誰がそんなこと信じるんだよ、と笑ったが、コメントをもらっていたほうは信じていた。
信じてるんじゃねーよ、と思い出し笑い。
この話をミルクにもしてやろうと考えて、ふと足元を見る。
ミルクのぶらぶらと揺れた足は、靴下。
床にはスニーカーがそろえて置かれてあった。
信じているやつがここにもいた。
まさか、あのSNSの書き込みは……。
そう思ってご機嫌で小さく鼻歌なんか歌っているミルクの横顔を見る。
黙っておいてやるか。おもしろいし。
東京駅は人が多かった。
俺の地域の祭りでも、こんな賑わいを見せたことはない。
それぐらいにどこを見ても人、人、人。
今日は冬休みとは言え平日だよな? しかも通勤時間は過ぎている。
人の多さに圧倒されていると、フードをすっぽりとかぶったままのミルクが隣でぶつぶつと何かを呟いている。
「なんだ、どうした?」
「私は……二屋くるみ……作家の二屋くるみ……」
「ニヤクルミ? なんだそれ」
「私のペンネーム。ミルクをくるみにして、苗字もつけたの。にゃーって聞こえるでしょ、二屋」
「おお、そうか」
ミルクは「そう。作家としての自覚をもたないと」と言って背筋をピンと伸ばした。
実に猫らしくない。
まあ、今は猫じゃないんだけれど。
歩き始めたミルクの姿を、サラリーマンや学生らしき男たちが振り返っていく。
やっぱりミルクはきれいなんだな。
もともと美猫だしな。
人間になったら、そりゃあきれいに決まっている。
なんだかミルクが遠い存在のように感じた。
「おいおい、どこ行くんだよ」
歩いていくミルクに俺は慌てて声をかける。
ミルクは立ち止まって振り返って答えた。
「どこって、出版社よ」
「タクシーで行こう。徒歩よりいいだろ」
「タクシー、高いじゃないの」
「でも、途中で猫になるよりいいんじゃないか」
「むしろタクシーの中で猫になるほうが厄介よ」
ミルクはそれだけ言うと、踵を返して歩いていく。
「それに出版社までの道は印刷してポケットに入ってるの。もうバッチリよ」
そう言う後ろ姿に、ゆらゆらとご機嫌に揺れている真っ白な尻尾が見えた気がした。
まあ都会を歩いてみたい気持ちはわかる。俺も歩きたいし。
「ちょっと待って」
俺は慌ててミルクを追いかける。
高層ビルに囲まれる景色を俺とミルクはキョロキョロしながら歩く。
ミルクが猫に戻らないかハラハラしたが、何とか抑えているようだ。
ちょくちょく立ち止まり、通行の邪魔にならないところでスマホを見ているから、本人も自分を落ち着かせることに必死なんだろうけれど。
正直、俺がいればミルクが猫に戻ってもフォローはできる。
不思議なことに着ている服はミルクの猫サイズに戻るし、人間に戻れば服も元に戻る。
だから、もし人ごみの中で猫になっても俺がキャリーケースに入れてしまえば危険もない。
もし、この光景を見かけた人がいても、人間が猫になったと思う人はそうそういないだろう。
見間違いか、それとも自分が疲れているか、はたまた何かの手品かと思うのがオチだ。
だが、猫から人間に戻るのには、どうも時間がかかるらしく。
一旦、完全に眠るか、リラックスしてしばらく過ごすのが良いそうだ。
つまり、外で猫になると刺激が多すぎてなかなか人間に戻ることは不可能。
以前、一緒に家で映画を観た時も、猫に戻ったミルクが人間になるのに三時間はかかった。
ミルクは、今日、この日に猫に戻ることをどうしても避けたいのだろう。
それならば、わざわざ出版社まで来なくても良かったのに、とは思うのだけれど。
まあ、好奇心の塊だからなあ。
「三時間」とふと俺が呟く。
それからショーウィンドウに飾られたジュエリーに目を輝かせているミルクに聞いてみる。
「そういえば、何時から会うんだ?」
「んー?」
「出版社には何時に行けばいいんだよ」
「えーっと、十五時」
「まだ二時間もあるじゃねーか」
これなら昼飯を食う時間はあったな。
ミルクは逆算が苦手なくせに、よくミステリーの小説を書いてるなあ。
そう思っていると、ミルクは「あそこでご飯食べたいの」と言って指さしたのはコンビニだった。
「ああ、そういえばミルク、コンビニ大好きだったな。でも、別に外食でも良くないか」
「おにぎりが食べたい」
「なぜ」
「遠足っておにぎりなんでしょ?」
「ああ、まあそうかも」
そういうわけで、俺とミルクはコンビニでおにぎりとホットスナック、飲み物とお菓子まで買い込んだ。
ミルクいわく『猫又は妖怪だから人間の食べ物を食べても大丈夫』だそうで。
それでも猫時代の名残なのか、薄味が好きだし海苔やら魚、鶏肉が好きだし、牛乳大好きなのだ。
ちょうどコンビニの隣にあった公園に移動して、ベンチに座ってお昼タイム。
遊具のない公園には人がおらず、ポカポカと日差しが当たってとても暖かい。
「あー。こういうのいいなあ」
ミルクがそう言って目を細める。
そういえば、ミルクが人間に変身できるようになり、両親と一緒なら外に出ることもたまにはある。
だけど、俺と二人きりというのは初めてだ。
まさかミルクとこうして公園でお昼を一緒に食べることになるなんて……。
「遠足でおにぎりをリカちゃんに取られちゃったよーって泣いてたなあ」
ミルクが懐かしむように口にしたのは、俺の幼稚園の頃の遠足のエピソードだ。
「よくそんなえっらい昔の話を覚えてるなあ」
「そのリカって子、私が引っ搔いてやるのに! って当時は思ったもんだけど、リカちゃんは健太が好きなだけだったのよねえ」
「そうかなあ」
「そうよー。私も若かったわー。あの頃リカちゃんが家に来なくてよかった。本当に引っ掻いていたら大変だもん」
「家に来るような仲じゃなかったしな」
「健太はリカちゃんのこと、どう思ってたの?」
ミルクがそう言って俺をまっすぐに見つめる。
宝石みたいな瞳を直視できず、思わず視線をそらした。
「え、いや別になんとも思ってなかった」
「うそばっかり! 本当は好きだったでしょ。まあ、でももう昔の話かあ」
ミルクはそう言ってから今度は笑顔でこう聞いてくる。
「じゃあ、今は好きな子とかいないの?」
完全におもしろがっている、という口調だった。
弟の恋バナを無理やり聞いてくる姉状態。
「別にいないし」
「いるでしょー」
「いねーよ」
「えー。だって高校生なら恋の一つや二つ、するものでしょ。ドラマで言ってた」
「それはドラマの中の話だ」
「そうかなあ。隠してるんじゃないのー? 私だけに教えてよ」
ミルクの無邪気な笑顔に、なぜか胸がズキリと痛む。
その胸の痛みの意味がわからず、俺は戸惑いでこう口にしてしまう。
「今まで世話してきた飼い猫には教えねえ」
「それもそうだけど」
「ご飯も、おやつも、トイレの世話もして、寒い日は一緒に寝て、体調が悪ければ病院にも連れて行った」
俺は何を言っているんだ。
そう思うのに、止まらない。
「そんな飼い猫に、なんで浮かれた話なんかしなきゃなんねーんだよ!」
公園がしんと静かになる。
黙り込んでいるミルクをそっと見ると、うつむいていた。
それから顔を上げてこう言う。
「ごめんね。しつこく聞いちゃって」
そう言ったミルクの顔は、とても悲しそうだった。
ミルクは急いで立ち上がり、それからこう言う。
「今日だって、無理やり着いて来てもらっちゃったんだもんね」
「いや、別に……」
「ここからは一人で行くから!」
ミルクはそれだけ言うと走り出した。
「あっ! ちょっと!」
俺は立ち上がって慌ててミルクを追いかける。
しかし、猫だからなのかはたまた妖怪だからなのか。
異様に身体能力の高いミルクの足は速く、すぐに見失ってしまった。
必死で探してみたものの、それらしき姿が見つからない。
ここは大都会。
おまけに人ごみに紛れてしまえば、人探しは困難だろう。
そこでふと思い出した。
「ああ、そうだ。スマホ」
俺はミルクのスマホに電話をかけてみた。
しかし、何度コールしても電話には出ない。
俺はスマホでミルクにメッセージを送った。
しかし既読マークはいつになってもつかない。
おかしい。
ミルクは俺に迷惑をかけないように、と一人で出版社へ行った。
俺の言葉にそれだけ怒っているということだろうか。
もう俺に用はない、と。
そう考えると胸がズキリとした。
ミルクからの返事はない。
スマホを見ながら出版社に向っているんじゃないのか。
それとも、まだ待ち合わせには早いからどこか寄り道をしているのか。
どちらにしてもスマホを手にしているのに、俺の連絡には完全無視。
そこでふと気づく。
「まさか!」
俺は急いで公園へと戻る。
するとベンチには白いスマホが置いてあった。
招き猫の根付もついているから、ミルクのだ。
そういえば、この根付は俺が中学の修学旅行で買ってきたミルクそっくりの招き猫だ。
当時、どこにつけようか迷った挙句、かわいくてもったいないからと引き出しの奥にしまった。
それをまさか、ミルク本人にあげることになるとは。
「ドジだな」
そう呟いて、ミルクのスマホを見る。
すると、ロック画面が目に入った。
ロック画面は、俺の赤ん坊の頃の写真。
ついついロックを解除してみれば、待ち受けは家族写真だった。
ミルクがまだ普通の猫だった頃の写真。
「これ、見せたくなかったのか」
俺はそう呟いた。
ミルクが自分を落ち着かせていたのは、家族の写真だったんだ。
つまり、好奇心が暴走にいしそうになった時に、ブレーキになるのは家族の笑顔。
ミルクにとって、家族こそが一番の癒しということなんだ。
それなのに俺は、ミルクには浮いた話はしない、だなんてひどいことを。
しかも、俺が世話をしてやった、なんて偉そうなことまで言ってしまった。
本当はミルクの世話ができて、俺自身が幸せだったのに。
今、ミルクは身の回りのことは自分でできている。
それが俺には寂しかったのかもしれない。
手のかかる姉が、自分から離れていってしまうようで。
姉。
その言葉にふと違和感を覚える。
ミルクは俺にとって家族であることには違いない。
だけど、姉という存在はしっくりこなかった。
その時、大通りのほうで車のクラクションの音が聞こえる。
我に返り、「とりあえずミルクを探すのが先決だ」と走り出す。
しかし、やみくもに探しても疲れるだけだ。
ミルクが行くのは出版社。
それじゃあ先に出版社に行っているということだろうか。
寄り道をするという危険をおかすよりも、何時間待ってでも出版社に行く、というほうがミルクらしい。
そう判断を下して俺は出版社へと急いだ。
受付で聞いてみても、それらしき人物は来ていないと言われた。
そもそもいくら早く着いたからって二時間も前から出版社の中で待っているわけないか。
俺は出版社を出て、ため息をつく。
どこへ行ったんだ。
事前にミルクは出版社までの道を調べて印刷までしていたから、ここにはたどり着けるはず。
じゃあ、この近くで時間をつぶしているのだろうか。
人の多いところは刺激が多いからいかないだろう。
とりあえずミルクが好きそうな細い路地を通り、きょろきょろと辺りを見回す。
すると、自販機がずらりと並ぶスペースがあり、そこにはベンチが一つ。
ちょうどそこに隠れようにしてミルクが座っていた。
「ミルク!」
俺の言葉に、ミルクは大きな目を丸くした。
「心配したんだぞ! 一人で行くな!」
「……心配してくれるの?」
「当たり前だろ!」
「私、まだ健太にとって家族なの?」
「当然だろ!」
「妖怪なのに?」
ミルクが悲しそうな声でそう聞いてきた。
「妖怪……。まあ、そうかもしれないけれど」
「私、もう前のミルクじゃないのよ。健太が世話をしてくれていた頃とは違うの」
「それは、そうだけど」
「私これから人間でいる時間、どんどん長くなるよ。猫に戻れなくなるよ」
「そうか」
俺はそう言うと大きくうなずく。
「俺にとって、ミルクはミルクだ。猫のミルクも人間のミルクも同じ」
「本当に? 嫌じゃないの?」
「嫌だって言ったことないだろ」
「それはそうだけど……」
「さっきは、ごめん。俺、恋バナとか、その、慣れてないからつい」
「うん。しつこく聞いてごめんね」
「俺、ミルクの世話、すげえ楽しかった」
俺の言葉に、ミルクが驚いたような顔をする。
勢いをつけるかのように続けた。
「だからさ、ミルク。これからも俺を頼ってくれよ」
ミルクはホッとしたような笑顔を見せてこう言った。
「ありがとう、健太」
それから俺たちは、その狭い休憩スペースで話し込んだ。
俺はカフェオレ、ミルクはコーんスープを飲みながら、思い出話をする。
人間になったミルクとこうして二人きりで話すのは初めてだった。
俺のことを赤ん坊の頃からよく見ていたミルクは、まるで母親のように俺のことを語る。
「健太はママがいないと、すーぐ泣いちゃってねー。かわいかったなあ」
ミルクはそう言うと、自分のスマホを操作して画面を見せてきた。
そこには、俺の赤ん坊の頃の写真が大量にある。
「健太ママからもらったものとか、写真をそのまま撮ったものとか、色々とあるのよ」
うれしそうに言うミルクに、俺は聞いてみる。
「こんなの見てどうするんだよ」
「え、落ち着くのよ。この無邪気な健太を見ると。私が守ってあげなきゃ、って思えるの」
ミルクは目を細めてほほ笑む。
「まさか。いつも気持ちを落ち着かせるために見ていたのって、俺の赤ん坊の頃の写真!」
「ちがう」
ミルクはそう言ってから、こう付け加える。
「幼稚園とか小学校の頃の写真もあるよ」
「親戚かよ……」
「まあ、確かにそういう感覚かもね」
ミルクはそう言うと満足そうに笑った。
なんだ、ミルクも俺のことをちゃんと家族だと思っていてくれたんだな。
うれしいけれど、どこか寂しい気もする。
そうこうしているうちに、十五時近くなり出版社へ向かった。
俺は出版社の外で待っているつもりだったが、ミルクがどうしても、と聞かなかったのだ。
「私の弟なんですけれど、目を離すとすぐに迷子になるんで」とか言ったら、ミルクの担当だという編集者の女性は快く迎えてくれた。
おいおいおい。迷子になるのはどっちだよ。
「二屋先生の作品、編集部でもとても評判が良いんですよ」
編集者の白井さんは、そう言って原稿をローテーブルの上に置いた。
すらりとした体型の美人で、なんとなくシャムネコを連想させる人だな、と思った。
「ありがとうございます。『フードコート連続殺人事件』は私も大変気に入っています」
ミルクはそう言ってにっこり笑う。
フードコート連続殺人事件ってなんだよ……。
ちょっと気になるじゃねーか。
まあ、今一番気になるのはミルクの猫化だけれど。
でも今のところ、ミルクも落ち着いているから大丈夫そうかな。
そう思っていると、白井さんがこんな言葉を口にした。
「それで、ぜひ書籍化を進めていきたいと思いますので――」
「本当ですか?」
「ええ。はい。シリーズ化もしていきたいと私は思っています」
「シリーズ化……」
ミルクがそう呟いたところで、ぴょこんと猫耳が生える。
俺はすかさずミルクにフードをかぶせた。
ミルクの原稿に視線を落としていた白井さんは、猫耳には気づいていないようだ。
「はい。『フードコート連続殺人事件』は、ストーリーの中で『スマホゲーム殺人事件』にも触れていますので、そちらにつなげていけそうですよね」
「『スマホゲーム殺人事件』で続編が書けたらいいなあって思っていたんです!」
ミルクのハイテンションが伝わり、慌てて彼女の横顔を見る。
その瞬間、にょきっとひげが生えてきた。
あああああああああああ。
でも、白井さんは見ていないかもしれない。
そう思って、そちらを見れば白井さんはさっとローテーブルに視線を落とした。
見られたああああああ。
絶対にこれ見られたああああ。
ミルクも自分の異変に気付き、頬を触ってひげを確認。
深呼吸をすると、猫耳もひげもなくなっていた。
「絶対に見られた……もう私の人生詰んだ……人間二年目で詰んだ……」
打ち合わせを終え、廊下を歩くミルクはぶつぶつとそんなことを呟く。
「いや、人生終わったわけじゃねえよ」
「でも、少なくとも白井さんは変に思った……。今後の作家人生は詰んだ……」
「なんでそうなるんだ。猫だってバレたわけじゃないだろ」
「だってひげ見られたもん。少なくとも変な人だと思われたよ」
そう言ってため息をつくミルクに、俺は何とか励ましの言葉をかけようとする。
ふと、廊下の隅に自動販売機があり、そこにミルクティーが売っているのが見えた。
「ミルクティー買ってやるから元気出せ」
俺がそう言って自動販売機に近づいたその時。
自動販売機の横に誰かがいた。
「はい。白井です。お世話になっております」
白井さんだった。
しかも電話中。
俺とミルクは電話の邪魔をしないように(ミルクは気まずそうだし)そそくさとその場を去ろうとする。
「そうなんですよ。あの二宮くるみさんが来てくださって」
ミルクのペンネームが出て、思わず俺たちは立ち止まる。
「ええ。『フードコート連続殺人事件』の作者の。ええ。そうなんです!」
興奮状態で話す白井さんの頭に、茶色の何かが見えた。
猫耳だった。
俺とミルクは顔を見合わせる。
すると、今度は白井さんの横顔にひげが見えた。
白井さんは俺たちの視線に気づき、早々と電話を切った。
「あの、もしかして」
ミルクがそこまで言うと、白井さんは「見られてしまいましたね」と息をつく。
それから顔を上げた彼女は人間に戻っていて、それからこう続ける。
「ええ。そうです。私もあなたと同じです」
白井さんはそう言うと、右手を差し出す。
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ミルクは白井さんとがっちりと握手を交わした。
俺はその光景を見て、ホッとする。
うれしそうなミルクを見ていると、俺まで幸せな気分になってくるな。
出版社を出ると、ミルクは踊るように歩きながら言う。
「ねえねえ、せっかくだし東京土産でも買っていこうよ」
「ああ、それいいな」
俺がそう言うと、ミルクがうれしそうに笑った。
風でフードが取れ、彼女のふわふわの毛が揺れる。
にっこりと笑ったミルクは、とてもかわいくてきれいだ。
誰よりもかわいい。
クラスの女子どころか学校の女子みんなミルクのかわいさには敵わない。
それは、ミルクがとてもかわいいということもあるが。
俺自身がミルクのことを……。
そこまで考えた時にカバンをがさがさやっていたミルクがふと言う。
「あっ。お財布忘れた……」
「おいおい」
「ねー。ちょっとお金貸してー。家に帰ったら返すからー」
ミルクは俺に泣きついてきた。
やれやれ世話のかかる姉だ。
俺はこれからもミルクにこうして頼られていたい。
「しょーがねえなあ」
俺はそう言いながら財布の中身を見る。
それから静かに財布をしめ、ミルクにこう告げた。
「帰りの切符は二人分先に買ってある。だから帰ろう」
「え? あ、そうなの?」
「土産は、ミルクがこうして出版社にこれたことにしてくれ」
「今日、こうして健太と東京に来られたことが最高の思い出だよ」
そう言って笑ったミルクは、胸がドキドキするほどにかわいかった。
「初恋の相手が猫又ってどうよ」
俺は小さく呟いて、はしゃぐミルクを追いかけた。