森の住人
男は、どこかも分からない森の中で日本人であった自分を思い出そうとしていた。分かっていることは少ないな、そう呟く。名前すら思い出すことが出来ない。一方で仕事をしていたことやその内容についても大まかではあるが記憶がある。自分に家族はいたのだろうかとふと疑問に思うが、仕事は忙しく、おそらくは独身だっただろうと漠然と思った。全くもって意味のない話だ。今の自分はラーズなのだから、それでいい。そう考え、彼は再び歩き出す。それにしても、この森はどこまで続いているのだろうか。辺りを見回せば、木の葉が擦れる音に混じって何かが動く音がしている。音がする方角へしばらく歩くと、そこにはゲームモンスターに酷似した生物が狼らしき肉を引きちぎり、まさに雄叫びをあげようとしているところだった。
あれは確かグリーンドラゴンだったはずとラーズは呟いた。古代文明パールス遺跡跡地(緑地帯)・エルフの里周辺や終の森等に出現したそこそこの敵だった。レベル上げやアイテムによる能力値の底上げを疎かにして単騎で挑むと痛い目をみる所謂初見殺しモンスターである。それにしてもおかしいとラーズは思っていた。そもそもこのゲームにモンスターが肉を喰らう様なエフェクトはなかった。ましてや規制が厳しくなっていた昨今、血を表現するエフェクトは禁止対象の一つだった。
「やはり、ゲームとはまるで違うようだな」
ラーズはぽつりと呟いた。半信半疑ではあったが、ここは異世界なのだと考えて行動しておいた方が良さそうだ。そしてラーズは、もう一つ疑問に感じていた。それは、自分自身についてだ。目の前で自分の倍はある大きさのドラゴンが雄叫びをあげていても全く動じることがない。むしろ小煩いほどだ。これもまた自分がラーズというキャラクターになってしまったからだろうか。日本に居た時の自分では、恐らく今のように冷静ではいられなかったはずだ。ラーズはグリーンドラゴンに向き直る。ゲームの設定ではドラゴンの特異種であれば、言語能力があった。しかしながら、目の前のグリーンドラゴンはギャアギャアと叫ぶだけで話し相手にはなりそうにない。やってみるかとラーズは動き出す。素早く走り出し、ドラゴンの背中に飛び乗った。グリーンドラゴンは身体を左右に振り回し、ラーズを振り落とそうとする。しかし、ラーズはグリーンドラゴンの背中に平然と立っている。
「レベルの差だな。」
ラーズは、少し自分がこの状況を楽しんでいることを感じていた。それもそのはずだ、彼は仕事を除き全てをアンノウンワールドに捧げていたといっても過言ではないほどの生粋のゲーマーであり、彼自身が考えているよりも遥かにラーズという名は、アンノウンワールドに轟いていたのだから。
ラーズはグリーンドラゴンの頭に乗り、頭部を右拳で殴り付けた。刹那、衝撃波の音が鳴り響き、ラーズの右手は地面にめり込みグリーンドラゴンの頭部は跡形も無くなっていた。グリーンドラゴンの身体は、力無く地面に横たわっている。呆気ない幕切れだった。
アイテムボックスとラーズが呟くと、ゲーム時代に揃えたアイテムがコンソールに浮かび上がる。
しっかりと機能しているようだと満足するが、ゲーム時代のアイテムがこの世界でも使えるのかと少し驚いていた。ステータスが確認出来たことでアイテムボックス自体は使えるだろうと思ってはいたが、アイテムは一から集め直す必要があると思っていたからだ。そこから水筒を取り出し血がついた手や顔を洗い流していく。これで打撃と魔法どちらの攻撃についても確認した。あとは、装備の確認でもしようかなとアイテムボックスを探り出す。今の装備もそれなりのものだ、しかし汎用性がない。この装備は、最後にアンノウンワールドをプレイした時の装備のままだ。ラーズは、着ている服を見て最後のゲームプレイを思い出していた。火耐性を持った装備で挑まなければ常にダメージを受けることになる火の都市ソドムのエリアボスを倒しに行こうとしていた記憶が蘇る。結果的には、休日であったはずの翌日が、急遽、出勤日に変わったことでエリアボスまでたどり着けずに終わってしまった淋しい記憶だ。当時は、「コノヤロー、クソ課長」と上司を罵って部屋の中をのたうちまわりながら眠りついた。そのことが、遥か昔の様に懐かしく感じる。
ラーズは、アイテムボックスから元々使っていた通常装備を身にまとう。ダメージ軽減やらステータス隠蔽・改変等、まあそれなりのチートと呼べるアイテムだ。一通りアイテムの確認が終わると、ぐぅと腹の音がした。どれくらい歩いたのかは分からないが、少し疲れを感じる。そして腹が減った。ラーズは、グリーンドラゴンの死骸を眺める。
「コイツ、食えるのかな。」
ゲームの中でも食事をとることは出来た。ドラゴンも食べる事が出来たはずだ。しかし、味がどうかは分からない。ラーズは唸るような声を上げるがすぐに動き出す。腹が減っては戦はできぬ、戦等するつもりは毛頭ないが、ともかくラーズはドラゴンにナイフを突き刺した。
side…森の住人たち
森の住人達は、彼らの代々伝わる秘宝である先視鏡を用いてある男を覗き込んでいた。
「何者なんだ、あいつは…」
里から派遣された偵察隊の隊長の男は、仲間の一人に問いかけるが答えは帰ってこない。グリードラゴンを一撃で沈める圧倒的な戦闘能力は見るもの全てに恐怖と警戒をもらたしていた。奴を見つけることは容易だった。神々しくもあり禍々しさもある特異的なオーラを常時発していたからだ。彼らは、奴が現れたとその瞬間から警戒を怠っていない。突如として魔法を放った時には、驚きのあまり木から落ちる所だった訳だが、見張り役の彼らにも何の魔法なのか知識を持つものはいなかった。しかし、その魔法が、自分達では計り知ることの出来ない強大なものであることは、各々が理解した。あれから、鳥肌が止まらない。奴が、我々に害を為す存在かを調べねばならないが、同時に彼らは得体の知れない化け物にどのように接触をはかればいいか考えあぐねていた。
「リーンとアラファスを除き、里に帰還せよ。」
隊長の男が、仲間を見比べ発する。5人の仲間の中で最も魔法に精通するリーン、近接戦を得意とするアラファスだけを連れていくことを決断する。無論、奴と戦闘にでもなれば手数が多いに越したことはないが、男は、仮に戦闘になれば6人で束になってもかなわないだろうとみていた。であるならば、残りの者達は、里に帰り情報を伝えてもらった方が遥かにいい。無駄な犠牲は好まない。「我々もお供致します。」と仲間は言うが、優先すべきことを考えろと諌め帰還の準備に入らせる。彼らも渋々了解し魔除けの薬を飲み干す。魔除けの薬は、魔物に発見され攻撃される確率を大幅に低下させることができる。彼らだけでは、グリーンドラゴンにでも出会せば太刀打ちすることができない。
「どうか、ご無事で。」
と仲間達が、残る3人に声をかける。その者達に、里で会おうと返した後、彼らは木々を飛び移りながら帰路を急いだ。
「さて我々も行動に移るとするか」
リーンが深く頷く。
「どのように彼に近づくおつもりですか」
リーンの言葉に隊長は静かに答える。
「お前たちは、あの化物に感づかれることなく接近できると思うか、十中八九無理だろう、だったら正面から堂々と近づこう、敵意がないことを示しながらな。」
「俺が行ってきてやろうか、隊長。」
アラファスは、腰に携えた剣に触れながら答える。
「私が行こう。もし奴が敵対的な行動をとった場合、二人は即座に撤退し、里に伝えよ。」
了解したと二人が声を揃える。隊長は深く頷き、慎重に木々を移動しながら奴に近づいていく。小さくなっていく隊長を眺めながら二人は静かに先視鏡を覗きこんでいた。静けさが辺りを覆い気味の悪さが二人を包む。
「隊長が死んだりしたら私は…」
リーンがぼそりと呟く。彼女が隊長を慕っていることの証だ、それが隊長としても男としても。
「心配することはねえさ、隊長はそう簡単にくたばる男じゃねえ、何なら奴を手懐けて来るかもしれねえな。」
少しばかり笑いながらアラファスが答える。実際は彼も奴の異質さを重々理解している。つい先程までの戦闘を思い起こせば手が小刻みに震え出していた。武者震いではない。里では戦闘狂なんて呼ばれる自分が久々に味わう恐怖が震えとなって表れていた。チキショウがと小さく発し、何とか平然を装おうとする自分自身にも腹が立つ。隊長だけに重責を負わせてしまたったことへの微かな罪悪感を感じながら空を見上げる。木々の葉の隙間から顔を出す青い空を見つめながら任務の成功を願う。
「どうしたの、顔色悪いわよ。」
覗き込むようにして言ってくるリーンの顔を押しのける。
「何でもねえよ、全く。」
そう、それならいいわとリーンが答え隊長が向かった先を見つめていた。
リーンは里では人気者だ。彼女に恋心を抱く者も少なくない。同じ部隊に所属しているからと彼女を紹介してくれと何度せがまれたことだろう。アラファス自身は、リーンをそういった類の目で見たことはないが、彼女が好かれていることもその理由もなんとなくは分かる。誰にでも気兼ねく接することができ嫌味がなく真っ直ぐな心を持っている。子供たちと接する彼女はまるで女神様だと里の人々は口々に言う。はぁとため息を吐きたくなる。あの鈍感な隊長が、彼女からの好意に気づくはずがないがアラファスは心の中で思う。
(隊長…リーンを泣かせる様なことしたら里の奴等に何されるか分からねえぞ…必ず生きて帰れよ)
同僚の恋路のことなんか考えてる場合じゃねえよなと思いつつアラファスは微かに笑み先視鏡を覗く。そこには奴と対峙した隊長が映しだされていた。二人の息を飲む音が聞こえる。無事でいてくれというアラファスの呟きは獣の鳴き声が響く森の中へ消えていった。