第三百十八話 変わり果てた女神の泉
「ハァ……ハァ……」
こんなに全身から滝のような汗を流して。呼吸が止まるくらいまで、必死に走り続けたのは生まれて初めてかもしれない。
鼓動の高鳴りも、足の疲れも。完全に体の限界値を飛び越えるくらいに全力疾走した。
手のひらにある黒い染みが、段々と広がっていく恐怖もあったから、余計に焦っていたんだと思う。
仮想夢の中では、この黒い染みが体中に広がってしまうと、俺はほぼ行動不能な状態にまで追い込まれてしまった。そうなればもう、完全に――『詰み』だ。
体を動かすことの出来なくなった俺は、最後はミズガルドに守って貰って、何とか小屋の中で生き延びる事が出来たくらいだからな。
だから黒い染みが、体の隅々に拡大してしまう前に。
心の中が絶望に侵食されてしまう前に、何としてもこの緊急事態を打破しないと、俺に希望の未来はやって来ないと断言してもいい。
今は疲れを気にしているような時間は無い。
早く、早く、みんなの無事を確認しないといけないんだ……!
森の茂みを駆け抜けて、ようやく俺は元の女神の泉があった場所へと戻ってきた。
そこで、俺の目に飛び込んできた光景は――。
「えっ……? 何なんだよ、この状況は――?」
女神の泉は、見るも無惨な姿へと変わり果てていた。
まるで上空から爆弾の雨でも投下された後のように。地面は地形が凹むくらいぐちゃぐちゃに吹き飛ばされ、泉の周辺の大地は破壊され尽くされていた。
もはやどこに女神の泉があったのかさえ分からない。それくらいに酷く、荒れ果てた惨状になっている。
「待ってくれよ……。これじゃあもう、女神の泉は使えなくなってしまったんじゃないのか? だって泉の底にある聖なる力の宿った土が、地形ごと全部吹き飛ばされてしまっているんだぞ……?」
もし……女神の泉がもう、修復不能だとしたら。
俺達は『動物園の魔王』である冬馬このはを眠りから覚ます事がもう出来ない。そして、ティーナの遺伝能力を目覚めさせる事も出来ない。
終わった。これは完全な詰みなんじゃないのか?
そもそもそれが目的で、ここまで俺達は旅をしてきたんだぞ。
最終目的地である女神の泉を、その奇跡の効能を利用する前に完全破壊されてしまうなんて……ハハハッ、こんなの笑うしかないだろ。
誰なんだよ、俺を絶望の底に落とす為なら手段を選ばずに、何でもしてきやがるクソ野郎はよ……! マジでそいつはよっぽど性格の腐りきった、最低の外道野郎に違いないぜ。
「ハァ、ハァ……。フゥーーッ」
呼吸を落ち着かせる為に、俺は自分の胸にギュッと両手を強く当てる。
……分かってる。これも俺の心を絶望で真っ黒に染め上げる為の、敵の策略なんだろう?
だからこの最悪な現実に、俺が対抗出来る唯一の方法は……気持ちを落ち着かせて冷静になる事だ。
決して絶望や虚無感に心が飲みこまれてはいけない。目の前の不安に打ち負けてしまえば、体全体に黒い染みが広がってしまう。
そうさ、例え今は思いつかなかったとしても。
何かしらの方法で、女神の泉はまた復活させる事が出来るかもしれないじゃないか。
例え奇跡の泉が永遠に失われても、みんなが生きてさえいてくれれば何とかなる。
何か別の方法で、冬馬このはを眠りから起こす事も出来るかもしれないし。ティーナの遺伝能力も、いつかは自然に覚醒する事だってあるかもしれない。
生きていれば、必ず何とかなるんだ。
希望の未来への道は、きっとどこかで繋がっている。
目の前の絶望的な光景に、絶対に打ち負けたりなんてするものか。
冷静に気持ちを切り替えて。何とか正気を保つ事に成功した俺は、すぐに行動に移す事にした。
まずは、みんなを探し出そう。ククリアやティーナ達と合流をして、みんなの無事を確かめるんだ。
相変わらず、スマートウォッチには何も反応が無い。
でもこの様子から察するに……。やはり、スマートウォッチが壊れている訳じゃなさそうだ。きっとみんなのいるコンビニに『何か』が起きているんだ。
しばらく周辺の様子を、散策して回ると。
周囲の大地には、ククリアが地中から呼び寄せた『巨大土竜』達の死体が、死屍累々となって無数に土の上に積み重なっている光景が見えた。
どうやらの泉の周辺で、何か激しい戦闘が行われたのは間違いないな。
そしてその戦闘によって、巨大土竜達は敵に全滅させられてしまったのだろう。
既に夜月皇帝は死に、ライオン兵達は散り散りになって逃走しているはずだ。だからこの巨大土竜達を倒したのはライオン兵達では決してない。
明らかに何か鋭利な刃物のようなモノで、その巨体があらゆる方向から無数に切り刻まれているのが分かる。
「この切り口は……たぶん、倉持と名取を殺害したのと同じ奴だろうな。でも、これはどういう事になるんだ?」
正体不明の暗殺者は、女神の泉で巨大土竜達と戦い。
その後、森の奥に移動をして。倉持と名取の2人も殺害したというのか?
ここからさっきの森の奥の場所までは、かなりの距離があるはずだ。
となると、敵は高速移動をして。俺がいる場所にまでわざわざやって来たというのか? そんな事が物理的に可能なのだろうか?
もしそれが可能なのだとしたら、おそらく敵は『瞬間移動』のような事が出来る能力を持っているのかもしれない。
それか『次元』そのものを移動してくる、とか?
例えるなら、コンビニの勇者の能力で召喚の出来る、あの『黒ヘビ』のように。次元移動能力を持っている敵という事になるのだろうか?
しばらく周囲の様子を観察していた俺は……。
とうとう地面の上に、絶対に見たくはなかった『最悪な現実』を、まざまざと目の前で見せつけられしまう。
たくさんの巨大土竜達の死体が、積み重なって倒れている場所の近くに……。
黒髪の美しい女性、アリスの死体がそばに一緒に横たわっていた。
俺は静かに、アリスの死体の横に座り込む。
その残酷な光景を見ても、俺の心は不思議と大きな動揺はしなかった。
もしかしたら、女神の泉の惨状を見せつけられて。
きっとこういう悪い現実が起きているであろう事を、俺は心の奥で、既に覚悟していたのかもしれないな。
倉持や名取のように、アリスは死体はバラバラにされている訳ではなかった。でもそれがアリスの死体である事はすぐに分かった。
なぜなら切断されたアリスの首が、遺体のすぐ横に転がっていたからだ。
「……………」
アリスが殺されたのは、完全に俺のせいだ。
俺は同行してくれたアリスに、この旅の危険性を何一つ伝えてなかった。
現実世界を100%リアルに再現する事の出来る仮想夢の世界で、あんなにも残酷な死に方遂げていたアリス。
それなのに俺は、その残酷な事実を伏せて。この旅で命を失うかもしれない危険性がある事を……アリスに説明していなかった。
それは、今回の女神の泉へ向かう旅に――どうしても『回復役』の存在が必要だったからだ。
たったそれだけの理由で、俺はこれが命を落とす可能性のある危険な旅である事を告げずに、アリスを無理矢理ここまで連れてきてしまった。
自分が持つ心の冷徹な残忍さと、独善的なエゴの醜悪さに今更ながらに気付いて、思わず恐怖する。
少なくともフィートは自分自身の意思で、この旅についてきた。
いや、実際は勝手について来たのだけれど。女神の泉に向かう旅の危険性自体は、本人も承知していたはずだ。
当然だけど、俺に仮想夢の体験を相談されたククリアは全てを知っていた。その上で旅に同行してくれた。ティーナはいつだって、コンビニの勇者である俺と一緒にいる事が危険だと承知していて、いつも俺のそばに付いてきてくれている。
――でも、アリスは違ったんだ。
ただ俺の自分勝手なエゴで、彼女を今回の危険な旅に巻き込んでしまった。
アリスとは、それほど仲が深まっていた訳でもなかった。ただ、カラム城の近くで盗賊に襲われていた所を俺が助けたという恩があっただけだ。
しかもその事を、俺は飛行ドローンから墜落したショックで……すっかり忘れていた。
彼女は異世界の勇者の役に立ちたいと、今回の旅に協力を申し出てくれた。本来の彼女は、記憶喪失で失われてしまった記憶を取り戻す為の旅に出ていた……普通の女の子でしかなかった。
仮想夢の中で知った事だが、アリスには『回復騎士』という名前の遺伝能力があった。それはうちのクラスメイトである、『回復術師』の香苗美花に匹敵する高い回復能力を持ったスキルだ。
だから俺は、旅の途中でみんなの傷を回復させる為の要員としてアリスを連れてきた。
まるで地震や火事などの災害に備えて。緊急医療セットか何かを旅に持っていくような感覚で……。俺はアリスを完全に『物』として扱っていたんだ。
ハハハ、これが異世界の勇者の正体なんだぜ? 全く笑うしかないな。
死んでしまう未来の危険性を一切本人に伝えずに、大切なティーナ、そしてククリア、フィートの身に怪我が生じた時の為だけに。便利な治療セットとして、アリスという『道具』を俺は念の為に連れてきた。そしてその結果、彼女は謎の暗殺者に無惨に殺された。
アリスの死体を見ても、俺の目から涙が出ないのは当然だな。これでもし心から泣けるようなら、コンビニの勇者はとんだ偽善者だと思う。
「本当にどうしようもないクズ野郎だな、俺は……」
しばらくアリスの死体をじっと見つめていた俺は、ふとある事に気付き。アリスの右手を確認する事にした。
アリスの遺体には――『右手』が付いていなかった。
切り落とされた首と同じように、何か鋭利な刃物で右手も切断されていたようだが……。
なぜか、近くに目立つように転がっていた首部分とは違って。アリスの『右手』だけは、どうしてもその場で見つける事が出来なかった。
「おかしいぞ……。何で右手だけ、わざわざ見つからないように隠したんだ?」
俺がアリスの右手を探したのは、ククリアによって提案された『記憶の指輪』を見つけたかったからだ。
ククリアはこの旅に同行した人数の分、6つのメモリーリングを用意してくれていた。
記憶の指輪は自分が死んだり殺されたりした時に、最後に見た光景や、その時に考えていた記憶を……指に付けている指輪の中に残しておく事が出来るという、マジックアイテムだ。
それをみんなは、それぞれの右手の中指に装着し。いざという時に、どのような方法で、どんな敵に殺害されたのかを、残された仲間に伝えられるようにしていた。
それなのに、その記憶の指輪を付けたアリスの右手だけが紛失してしまっている。
「これはまさか……もしかして……?」
考えたくない最悪な想像が俺の頭をよぎり、首を左右に振ってその邪念を脳内から強く打ち消す事にする。
まだ全てが分かった訳じゃない。そう考えるのは、まだ早過ぎる。まずは他のみんなの安否を確認しないと。
しばらく俺はアリスが倒れていた場所の周辺を、くまなく探してみたが……。とうとう、ティーナ達全員の姿を発見する事が出来なかった。
それどころか、あれだけ大きな建造物であるはずのコンビニでさえ、周辺から見つける事が出来ずにいた。
「コンビニが無いなんて……。まさか、爆発か何かでどこかに吹き飛ばされてしまったのか?」
”ガリッ……!”
その時に、足先で何かを踏みつけた音がした。
これは、金属片か?
土に混じって、硬い何かをつま先で踏んだ気がする。
土の中に埋もれていた、その硬い物は青い色をしていた。その色に多少思い当たる事のあった俺は、急いで周辺の土を掘り起こす。
「そんな、まさか……。この青い鎧はもしかして……」
土の中に埋もれてたもの、それは鳥の羽の刺繍が施された青い美しい鎧だった。
この鎧を着ていたのかは誰なのかを、俺は知っている。当然だ、この特徴的な鎧の模様は――ドリシア王国の王族を代表する紋章でもあるんだからな。
「……ク……クリ…ア………?」
土の中から出て来たのは、小さな女の子の首だった。
紫色の綺麗な顔をした女の子だ。その周辺には彼女の全身が土に埋もれて横たわっていた。
俺は既に生き絶えているククリアの小さな首を、抱きかかえて。静かにその場で涙を流す。
「本当にすまない……ククリア……。俺が、ここに帰ってくるのが遅れてしまったせいで……」
既に森の奥で倉持、名取の死を確認し。
首の切断されたアリスの死体も見つけていた俺は……その場で大声をあげて、咽び泣くような事はなかった。
ただ、両目からは静かに涙の線が……頬を伝ってゆっくりと地面にこぼれ落ちていく。
幸いなのは、ククリアの顔が思ったよりもずっと安らかで、穏やかな表情をしていた事だった。
もし、苦しみ抜いた苦悶の表情を浮かべていたなら……。俺は申し訳なくて、とてもククリアの顔を至近距離から見つめる事は出来なかっただろう。
地面に片膝をつき、ククリアの首を抱えた俺はゆっくりとその場で腰を落とす。
そしてその時、周辺の地面が異様に硬い事に気付いた。
「ハッ!? そういう事か……! ククリアが土の中にコンビニを隠してくれたんだ!」
ククリアの死体が埋もれていた場所の下にある地面は、まるでコンクリートのような硬さがあった。
――つまりは、そういう事なんだろう。
ここにコンビニ支店1号店があったんだ。そして巨大土竜達に地中を掘らせたククリアは、急いでコンビニを深い地面の底に沈めて、正体不明の敵からコンビニを隠そうとしたんだ。
「この下に、コンビニが眠っている……のか?」
ティーナは、ティーナは無事なのだろうか!?
体に震えが走り、再び俺の額からは滝のような冷や汗がこぼれ落ちてくる。
俺の最後の希望。ティーナが生きてさえいてくれるのなら、俺は黒い染みに体を汚染されなくて済む。
既に仮想夢の中で、深いどん底の絶望を味わっていたから。2回目のやり直しの世界である今回は、ありのままに起きた凄惨な事実を、冷静に受け止める事が出来ている自分がいた。
それとも、俺はもう……。
この世界の事を――『諦めた』のだろうか?
もしかしたら今回も、まだ朝霧が見せてくれている仮想夢の世界なんじゃないかと僅かに期待をして。この世界の未来を……諦めて、捨ててしまってるんじゃないかとさえ思えてしまう。
だってさっきから、こんなにも乾いた笑いを俺はずっと浮かべているのだから。
ダメだ……。これ以上、虚無に飲み込まれるな。
この世界にもまだ希望はある。異世界で何も無かった俺に、眩しい光を当ててくれたティーナが生きている可能性がある限り。俺は決して、絶望の沼の底には沈まない。
でももし、またこの世界でもティーナが殺されてしまっていたとしたら……?
そして、ここが本当の現実世界で。もう『次の世界』は無かったと確定してしまったとしたら。
俺は本当に、これから一人で生きていけるのか?
「アハハ……。これが仮想夢なら、早く目が覚めてくれないかな? もし、もう覚める事がない現実世界なのだとしたら。そしてもし、ティーナが死亡していたら。こんな体なんて、さっさともう1人の俺にくれてやるのに……」
抱えたククリアの首を、ゆっくりと地面の上に置き。俺はククリアの死体を注意深く観察してみる事にする。
ククリアの体も、また『右手』の部分が切り落とされて、紛失している事に気付いた。
「アリスも、ククリアも。記憶の指輪をはめていた右手が完全に消失している。わざわざ切り落とした首は残していくのに、指輪をはめた右手だけは隠すのかよ」
最後の死因を隠す為に、わざわざ右手だけは切り落としてどこかに奪い去っていく。
そんな事は、アリスやククリアの右手に付いていた指輪が……どういう能力があるのかを知っている者でないと出来ないはずだ。つまり敵は、外部の者ではないと断定する事が出来てしまう。
まだ俺がその姿を確認出来ていないのは、もうティーナと冬馬このは、そしてフィートの3人だけだ。
その3人の中に、暗殺者がいるのは確実という事になってしまうぞ……。だってそれ以外に、俺達が記憶の指輪を付けている事を知っている人物は、もういないのだから。
「クッソ……! 野郎、ふざけやがって!!」
俺は持てる全ての力を使って、地面を掘り起こす。
そして土の中に埋もれている、コンビニ支店1号店の入り口を探し出す。
絶望になんて、飲まれている時間はない。
「必ず、必ず……敵を見つけ出して、この俺の手でそいつを殺してやるんだ! 待っていやがれよ、腐れ外道のモンスター野郎めッ!!」