第三百十七話 最初の犠牲者
「ハァ……ハァ……」
迷いの森の中を、息を切らしながら全速力で駆ける。
目指す場所は、森の中心部にある女神の泉だ。
後方からは倉持と名取の2人が、必死に俺の後を追いかけて来ていた。
倉持達にとって女神の泉に向かう事は、自分達の命がかかっている死活問題だ。
女神の泉の奇跡の力で、クルセイスによって付けられた呪いのブレスレットを外さないといけない。そうしないと倉持達は、あのサディスト女に永遠に支配され続ける事になってしまう。
だから必死に俺の後に食らいついて、追いかけてくるしかないんだ。
「……よし、この辺りでもういいだろう。もう、クルセイスやロジエッタのいる場所から、だいぶ離れる事が出来たはずだ」
俺は慌てて、スマートウォッチの画面を確認してみる。
逃走した夜月皇帝を追いかけたいた俺は、森の奥で突然、クルセイス率いるグランデイル軍と遭遇をしてしまった。
そしていきなり、魔女のロジエッタの襲撃を受けるという予想外な出来事が立て続けに起きた。
だからしばらく、女神の泉に残っているククリアやティーナ達との連絡が取れていなかった。
みんなはちゃんと、無事でいるだろうか?
おそらく、あれから30分くらいは経ったはずだ。コンビニの倉庫で水を無限発注して、女神の泉の中に水を満たすという作業は、もう完了しているだろうか?
スマートウォッチの小さな液晶画面をタッチして、俺は急いでみんなと連絡を取ろうとする。
ところが……スマートウォッチの小さな画面は何も反応をしない。どれだけ指でタッチを繰り返しても、ティーナの姿を映したライブ映像は流れてこなかった。
””ザザー、ザー、ザーーッ……!””
「えっ……!? どうしたんだ? 何で、液晶画面に何も映らないんだよ?」
コンビニ事務所のライブ映像が、なぜかスマートウォッチの画面に映らなくなっている。
いや、それどころか……。通話もメール機能も全く機能しなくなってる。何なんだよコレは? 一体、どうなってるんだ!?
嫌な予感がして。額からぬめりとした冷や汗が、ゆっくりと頬を伝わって流れ落ちてきた。
さっきから心臓がバクバクと鼓動を繰り返し。脳の奥からは、大量のアドレナリンが際限なく分泌され続けている。この警鐘にも似た嫌な予感は、まさか……!
「おい、頼むからやめてくれよ……! みんなは、ちゃんと無事なんだよな……なぁ、そうなんだよな!?」
きっとロジエッタの攻撃を受けた時に、スマートウォッチが壊れてしまったんだ。
背後からの直撃を食らったし、コンビニ店長専用服の無敵防御機能が緊急作動したくらいだからな。腕に付けていたスマートウォッチが、その時の衝撃で故障してしまったとしても、おかしくはないはずだ。
……大丈夫。あの夜月皇帝ミュラハイトだって、既に死亡しているんだ。
女神の泉を守っていた、数千を超えるライオン兵達は散り散りになって逃げ去っている。
その後、ククリアが女神の泉の周辺地帯をちゃんと確保してくれているだろうし。決してコンビニの地下シェルターには入らないようにと、みんなに注意もしてくれているはずだ。
今回は事前にみんなにも、集団で行動をするようにと俺は念入りにお願いをしておいた。
アレだけ何度も注意を促したのだから、みんなが勝手に単独行動を取るような事はないはず。そしてもふもふ娘のフィートだって、今回はずっと冷静な状態のままでてくれていた。
自分の両親の仇であるミュラハイトを目撃しても、フィートは復讐心に駆り立てられて、1人で勝手に飛び出すというような行動は一切取らなかった。
だから今回は、何もかも完璧なはずなんだ。
確かに倉持達が、クルセイスやロジエッタを引き連れて森にやって来たのは予想外だったさ。でも、カエルの粉を浴びていないグランデイルの連中は、女神の泉には決して辿り着く事は出来ない。
そうさ、まだ焦る必要なんて何もない。
このまま俺が女神の泉に戻れば、みんなが笑顔で出迎えてくれる。きっとティーナが『おかえりなさい、彼方様!』って、いつものように俺の体を抱きしめてくれるに違いないんだ。
もしかしたら、女神の泉に奇跡の水がもう満たされていて。その効果で300年近く眠りについていた『動物園の魔王』――冬馬このはも、もう眠りから目覚めているかもしれない。
そうなればもう、コンビニ陣営は『鬼に金棒』状態だ。なにせ最強の『コンビニの勇者』と、最強の魔王と名高い『動物園の魔王』がタッグを組むんだぜ?
グランデイル軍なんて、もう眼中にも入らないくらいにコンビニチームの戦力は大幅に増強される事になる。例え北にある禁断の地から、また灰色ドレスを着た暗黒verのレイチェルさんが襲撃してきたとしても……今度は、余裕で撃退出来るはずだ。
それにこっちには、秘密兵器のティーナだっている。
遺伝能力を持ちながら、今まで能力がずっと目覚めていなかったティーナ。それが今回は、女神の泉の奇跡の水を浴びて、その能力を覚醒させているはずだ。
ティーナが持つ秘められた遺伝能力――それは一体、どんな能力なのだろう?
商人の娘であるティーナの事だから、商売関連の能力だったりするのかもしれないな。もし異世界で、インフルエンサーのようにネット広告が流せるような能力とかだったら、世界中の人々に、一斉にコンビニの商品の宣伝が出来るかもしれないぞ。
そうなったら、一気にコンビニ共和国の知名度は高まるだろう。世界中の人を全員味方に出来るという点では、本当に嬉しい能力かもしれないな。
……アハハ、何だよ。未来は明るい希望ばかりじゃないか。そうだよ、何も不安なんてないし。心配する必要は何もないんだ。
「ハハハ……。大丈夫! 俺はククリアの事を信じている。きっと女神の泉にいるみんなは、無事に決まっている。今回はもう、仮想夢の世界じゃないんだ。現実世界で、異世界の勇者であるこの俺が失敗する訳がないだろう? だって俺はこの世界を救う為に召喚された『コンビニの勇者』なんだぜ!」
……その時、俺の手のひらに。
ぽとりと、一粒の冷たい液体がこぼれ落ちた。
さっきからずっと、額から冷や汗を流し続けていたからな。汗の滴が頬を伝って、手のひらに一滴こぼれ落ちたのだろう……と、この時は思った。
でも、震える手のひらをゆっくりと開いて。手のひらに落ちた、一滴の汗の粒を見つめると。
思わず俺は、その場で大きな悲鳴を上げてしまう。
「うわああああぁぁッ!? 何だよ、これは……!?」
手のひらにこぼれ落ちた汗の滴は……真っ黒に染まっていた。
まるで墨汁のような黒い染みが、手のひらの上に吸い付くように染み込み。皮膚の表面に入れ墨のような黒い染みを刻み込んでいる。
おいッ、もうやめろよ……!
謎の黒い染みは、仮想夢の中での出来事だろ!?
ここはもう、夢から醒めた現実世界なんだぞ。あの悪夢のような仮想夢の中の出来事を、こっちのリアルな現実世界に、持ってくるなよ……! これは、何かの間違いないんだよな!?
「だって、今回はまだ……誰も死んでいないんだぞ! まだ何も起きてないないのに! なのに何で、俺の体に黒い染みが広がっているんだよ。こんなの、絶対におかしいだろッ!!」
激昂するように、俺は森の中で大きな叫び声をあげる。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
心臓が今にも弾け散りそうだ。脈打つ鼓動のスピードが急加速をして、過呼吸で倒れてしまいそうになる。
落ちつけ。いいから、いったん心を落ち着かせるんだ……。
スマートウォッチは、ただ単に故障しただけだ。女神の泉で、みんなが俺の事を待ってくれている。
だから、早く……俺はみんなのもとに向かわないといけないんだ。
その時……後方の森の奥から、突然大きな叫び声が聞こえてきた。
「ぎゃああああああああぁぁーーーッ!!!」
「えっ……! あの声はまさか……倉持なのか!?」
急いで、声の聞こえてきた方向に向かう。
今の声は……絶対に倉持だ。間違いない。クラスメイトで、幼馴染で、子供の頃は大の親友だったこの俺が、倉持の声は一番良く知っている。
俺の後を、倉持と名取の2人はピッタリと追いかけてきていたはずだ。その倉持達に一体何が起きたんだ?
必死に森の茂みをかき分け、少し開けた場所にまで辿り着いた所で――。
俺の目に入ってきたのは……。仮想夢の時の既視感を伴う、悪夢のような凄惨な光景だった。
森の茂みの中の地面に広がっていたのは、一面……真っ赤な『血の海』だ。
森の地面を真っ赤に染め上げている、赤い液体の染み。
さっきミュラハイトが死亡していた場所に広がっていた血とは……比較にならない程の大量の人間の血が、辺り一面にぶち撒けられていた。
普通に殺害されただけなら、これだけ大量の血が飛び散るという事は絶対にあり得ない。
人間の死体をバラバラに引き裂いて、バケツでぶち撒けるように。わざと大量の血を周辺の地面にばら撒きやがったんだ。
一体、誰が何の為に? ……決まっている。
殺害現場に、のこのことやって来たこの俺に。この凄惨な惨状を見せつける為だ。そういった蛮行を、俺は仮想夢の中で何度も見せつけられてきたじゃないか。
そう、今でも絶対に忘れられない――あのコンビニの地下シェルターの中での悪夢のような出来事。
とうとう、『アイツ』がここにやって来たんだ。
俺を精神的に追い詰める為だけに、ありとあらゆる残虐な手段を用いて、俺の仲間を無慈悲に殺害していく正体不明の悪魔が……。
俺は震える足取りで、地面に広がる真っ赤な血の上を……ゆっくりと歩いていく。
そしてその中心部で、体をバラバラにされて殺されている『結界師』の勇者、名取美雪の死体が乱雑に転がっているのを発見した。
「な……と……り………?」
唇がブルブルと震えて、上手く言葉が発せられない。
奥歯がカタカタとぶつかり合い、手足が痙攣したかのように痺れて動かせなくなっている。
「そんな……。頼むから、やめてくれよ。もう『次の世界』は、無いかもしれないんだぞ……?」
朝霞は、仮想夢を見られるのは1回か2回が限界かもしれないと言っていた。だから次の世界が全く無いとは、確かに言い切れない。
でもおそらく……半分以上の高確率で、今回の世界はもう最後なんだと、俺は覚悟を決めて行動をしてきた。
次の『やり直し』はもう無いんだぞ……と心に言い聞かせて。そう覚悟を決めて、挑んだ世界だった。
それなのに……また惨劇が起きてしまうなんて。
これが本当に現実なら、名取はもう二度と、生き返る事は出来ないんだぞ。
俺は、さっきまではおそらく『名取』であった体の一部に向けて、ゆっくりと引き寄せられるようにして前に進んでいく。
真っ赤な血の海の中で、名取の体はバラバラに引き裂かれていた。
それがどうして、名取の死体であると判断出来るのかというと。ちょうど真ん中の部分に、切断された首が正面を向くようにしてポツンと置かれていたからだ。
「オウェェ……! ぐふぉっ………!!」
これじゃあ完全に仮想夢の中の悪夢、あの真っ赤に染まった地下シェルターの再現だ。
あの時も俺は、バラバラに切断されたみんなの死体を確認する為に。地下シェルターに転がっていた、名取の生首を確認した事がある……。
今、森の地面に置かれている名取の首は、その時と全く同じような状態で置かれていた。鋭利な刃物か何かでスパッと切断されたような、鮮やかな切り口で首は切断されている。
最も避けたかった最悪の結末を再び見せられ、さっきから俺は、喉の奥から込み上げてくる嘔吐が一向に止まる気配が無い。
凍えるような寒気と、全身の震えが、体の動きをゆっくりと蝕んでいく。
「ハァ……ハァ……ハァ………」
ふと、もう一度手のひらを見ると。
さっきの黒い汗が染み込んだ箇所の手のひらの染みが、更に広がっている事に気付いた。
やはりこの黒い染みは、俺の心の中の『絶望』や『恐怖』といった負の感情と連動しているらしい。
いつからこんな体になってしまったのかは、分からない。でも、この名取のバラバラにされた死体を見るまでは……俺の心の中はまだ、未来への『希望』で満たされていたと思う。
――そうさ。今回の俺は、よくやっていたはずだ。
朝霞が見せてくれた、仮想夢の世界での恐ろしい体験を活かして。みんなが犠牲にならない最良の未来に至る為に。信頼の出来るククリアと相談をしながら、常に最善手を打ち。
理想の未来へと至る道を、これまでずっと突き進んできたつもりだった。
実際に、それは確実に叶いつつあった。
夜月皇帝ミュラハイトは死亡し、ライオン兵達はもういない。女神の泉はククリアが占拠しているし、後は泉に水を満たして、冬馬このはとティーナに女神の泉に入って貰うだけだ。それで全てが上手くいくはずだったんだ。
……そうか。俺は一体、何を惚けていたんだろう。
俺には、ティーナがまだいてくれる。みんなが俺の帰りを待っているんだ。
名取の『死』が、例えここで『確定』されてしまったのだとしても。まだ俺には、やらないといけない事がある。絶対に守らないといけない大切な仲間達がいる。
少しだけ、呼吸が落ち着いてきた。
周辺を見渡し、冷静に敵の気配を探る事に全神経を集中させる。
この真っ赤な血の海の中に広がる、凄惨な光景を見て。激しく動揺していた俺の心は、ようやくやるべき事を再確認して、冷静さを取り戻しつつあった。
不思議と手のひらの中にある、黒い染みの進行も止まったように感じられた。
森の中に敵の気配は感じられない……。どうやら正体不明の敵は既にもうここから遠くに、移動してしまったのかもしれない。
周囲の様子を見渡していた俺は……ふと、ある疑問を思い出した。
「……そういえば、倉持はどこにいったんだ?」
倉持と名取は2人で俺を追いかけて来ていたはずだ。
ここに残されているのは、バラバラにされた名取の死体だけだ。さっき悲鳴が聞こえてきた倉持は、一体どこにいってしまったのだろうか?
心の冷静さを取り戻しつつあった俺は、そこでようやく――気付く事が出来た。
この地面に広がる真っ赤な血の海が……名取の死体1人分だけでは、到底足りない量の人間の血がぶち撒けられているという事実に。
そう、さっきから本当は聞こえていたはずなんだ。
血の海の真ん中に置いてある名取の首を見て、ショックを受けた俺は、今の今まで全く気付けずにいた。
さっきからずっと、ポタ……ポタ……ポタ……と。
木の上から血の滴がこぼれ落ちてくる音が、ずっと耳の中に聞こえてきていた事に。
「………倉持?」
音のする場所の、すぐ真上を見つめてみると――。
そこには名取と同じく、体をバラバラに切り裂かれ。
切断された肉片を枝から吊るされた、『倉持悠都』の死体が、木の上から宙吊りにされていた。
その死体が、あの倉持である事は間違いない。
名取の時と状態は全く同じだ。倉持の死体もバラバラに引き裂かれてはいるが……。ご丁寧に首の部分を分かりやすく、俺が下から見上げた時に、すぐに視界に入るように木の枝に固定までされていたからな。
「倉持、お前まで……殺されてしまったのかよ」
前回、俺が倉持の死体を見つけたのは、仮想夢の最後の方だった。今回はこんなにも早く、倉持の死体と対面してしまう事になるなんて……。本当に敵にとっては、殺す順番なんてお構いなしという事なのだろうか。
「うぐぁぁああぁぁッ!? ぐぅぅ……!!」
突然、肺が締め付けられるように苦しくなる。
呼吸が上手く出来ない。体の全体にまた黒い染みがゆっくりと広がっていくのを感じる。
「ダメだ、こんな未来は絶対に受け入れられない! 何でここで、倉持と名取が殺害されてしまうんだよ!」
再び激しい過呼吸に襲われて、俺はその場に倒れ込む。
目からは、熱い涙が溢れ出てくる。許せないような事も確かにいっぱいされた。憎い奴と思った事もあった。それでも、俺にとっては身近な存在であったあの倉持が、そしてそんな倉持の事を大切に想ってくれていた名取が……。
こんなにも、呆気なく。一瞬にして、2人とも無惨に命を奪われてしまうなんて!
「ハァ……ハァ……。急がないと、今度はティーナが……みんなが危ないッ!」
俺はかろうじて、その場で意識を失う事だけは耐える。そして気合いだけで体を起こし、再び全速力で森の中を駆け出した。
早く、女神の泉に向かわないと……。
もし間に合わなかったなら、今度こそ取り返しのつかない事になってしまう!
迷いの森の中を全速力で走る、俺の腕に付いているスマートウォッチの画面には……。その後もずっと、ティーナ達の無事な姿が映し出される事は無かった。