第二百九十七話 赤い騎士
「ハァ……ハァ……ハァ………」
俺の体を抱きかかえながら、同時に片手で馬の手綱も握り。全速力で前に突き進んでいくミズガルドは、馬上で激しく息を乱していた。
ミズガルドの左腕は、もう引きちぎれる寸前だ。
それだけ深い傷を負ってしまっている。このまま放っておけば、出血多量で死にかねないレベルの重症だ。
少なくとも、ミズガルドはこの先……。もう二度と左腕を自由に動かす事は出来なくなるだろう。
「……ミズガルド。もう、いいんだ……。お願いだから、俺を置いていってくれよ」
「まだ喋っちゃダメだよ、彼方! うっかり口を動かすと、舌を噛んじゃうかもしれないから、私の胸の中で安静にしていて頂戴ね……!」
こんなにも深い傷を負って。こんなにも大量の血が、体から流れ落ちているというのに。
ミズガルドは、全く苦しそうな顔を俺には見せない。
絶対に痛いに決まってる。こんなに全速力で馬を駆けていたら、激しい揺れと衝撃で……怪我を負っている左腕が引きちぎれてしまうかもしれないのに。
どうして、俺なんかを、そんなに大事そうに抱えていられるんだよ。
どうして、そんなにも優しい顔で、俺の事を見つめてくるんだよ。
頼むから俺の事はもう、放っておいて欲しい。
だって俺にはもう、この世界で生きていく希望なんて何も無いのだから……。何も出来ず、声を発するのもやっとの無能な異世界の勇者の事なんて、放っておいてくれて構わないのに……。
呼吸を乱しながら馬で駆けていたミズガルドが、不意に後方を振り向いて、何かを確認した。
俺も目線だけで、馬の後方を確認してみると――。
そこには、もの凄い速さでこちらを追撃してくる、ライオン兵達の集団が見えていた。その数は……おおよそ20匹くらいはいそうだ。
それは今の俺達には、決して相手に出来るような数じゃない。
ミズガルドは、手綱を握る手の動きを早めて。愛馬に全速力で前進するようと指示を出す。
「――彼方! しっかり私に掴まっていてね! 今から、あそこに見える小さな村の中に入るから!」
「…………」
俺は全く力の入らない体で、必死にミズガルドにしがみつく。
俺とミズガルドが馬で入った村は、無人の村になっているようだった。おそらくここに住んでいた住人達は、夜月皇帝によって全員連れ去られ。全て獣人兵に変えられてしまったのだろう。
もう、誰も人が住んでいない小さな村の中に侵入したミズガルドは……。村の奥に、穀物を貯蔵する為の大きな倉庫小屋を見つける。
そこは岩壁にある洞窟を利用した場所になっていて。ズッシリとした、金属製の重い扉が入り口付近には付いていた。
倉庫の前に辿り着いたミズガルドは、急いで俺の体を馬から降ろす。
そして追っ手のライオン兵達が来る前に、愛馬を先に行かせて。俺の体を慎重に、穀物倉庫の中の床に寝かしつけた。
「ここでしばらく体を休めていてね、彼方!」
『嫌だ……!』と、俺は必死に体と口を動かして、俺を置いて外に出ようとするミズガルドに訴える。
「……ダメだ! お願いだから俺をここに置いていかないでくれ、ミズガルド。絶対にアイツらに殺されてしまう。頼むよ、もう俺は誰も目の前で大切な仲間が死んでいく姿を見たく無いんだ! ミズガルド、俺にとって君は本当に大切な存在なんだ! だから約束をしてくれ、絶対に死なないと! 頼むから俺にそう約束をして欲しい……!」
呻くような、俺の小さな囁き声を聞いたミズガルドは……。
そっと俺の体の前に座り込んだ。
そして右手で優しく、俺の額から流れ出る汗を拭き取ってくれた。
少しの間だけ、ミズガルドは愛おしそうに俺の顔を見つめると。最後に俺の髪に、そっと自分の手を重ねて優しい声で告げてくる。
「ごめんね……彼方。私はその約束を守れないかもしれない。でも、私は彼方にはこの世界で生き残って欲しい。それは彼方がこの世界の救世主になる人だからじゃないの。ただ、私が本当に心から好きになった人を、皇帝としてではなく。ただの一人の騎士として、最後までこの手で守り通したいと思ったの」
「………そんな、ダメだ。ミズガルド……」
俺は必死に目線だけで、訴えるが。
ミズガルドは俺の顔を見て、晴れやかにニコリと笑ってみせた。
「最期に私が命をかけて守りたいと思える、本当に大切な人に出会わせてくれてありがとう。そして私の事を大切だと言ってくれて、ありがとう……。最愛の人を守る為に剣を振るう騎士として。私はこの世界で生きれた事を誇りに思うわ。ありがとう、彼方。私はあなたに出会えて本当に良かった……」
””ズドーーーーーン!!””
倉庫小屋の外から、大きな音が聞こえて来る。
追撃してきたライオン兵達がすぐそこまでやってきたのだろう。
ミズガルドは最後に、俺の髪をゆっくりと撫でて。
そして、スッとその場で立ち上がると。
そのまま振り返る事もなく、無言で鋼鉄の扉の外へと出ていった。
「待ってくれ……お願いだから……。俺をここに置いていかないで欲しい……! 頼むから、ミズガルド! 俺を一人ぼっちにしないでくれ……!」
””ズシャーーーーン!!””
鋼鉄製の錆びた扉が、重く閉ざされる。
それと同時に、俺の体を蝕む黒いシミが、再び俺の体内に広がっていくのを感じた。
「ぐぅああああぁぁぁーーーッ!!」
呼吸が苦しい、息が吸い込まない。
手の震えが止まらない……。
全身から、大量の冷や汗が湧き出てくる。
俺の焦りが、不安が、孤独が……。俺の体内に広がっていく黒いシミの広がりを加速させていく。この黒いシミは俺の心の中の黒い感情と連動しているんだ。
大切なミズガルドを失ってしまうかもしれない、という俺の不安と焦りが。より黒い模様のシミを、俺の体内に広く侵食させていく。
「ぐっ……うっ……み、ミズガルドッ……!!」
極限まで俺の体は、黒い感情に侵され。蝕まれ。
そして限界まで神経がすり減らされてしまった、最後のその時に。
俺の意識は……。
そこで、プツリ――と、途切れてしまった。
後は、もう何も憶えていない。
倉庫の外からは、ミズガルドの振るう剣と。ライオン兵達の持つ鋭い爪とがぶつかり合う音が、遠くから聞こえてきたような気がした……。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
どれくらい、俺は意識を失っていたのだろう?
不思議なくらい、柔らかなまどろみの中を。俺の意識はずっと漂っていた気がする。
この感覚は……よく晴れた休日に、いつもなら学校で授業を受けていないといけない時間帯に、実家で子猫のミミと一緒にベッドで快眠を貪っているような……。
そんな怠惰で贅沢な時間の過ごし方をしている時と、似ている気がする。
そう……深い睡眠はいつだって、傷付いた人の心を時間をかけてゆっくりと癒してくれる。
あまりの不安と焦りで、完全なる『虚無』に支配されてしまいそうになった最後の瞬間に。
どうやら俺は、倉庫小屋の中で眠りについてしまったらしい。
寝ている間は不安に襲われる事がない。
睡眠に落ちている時だけは、絶望と悲しみを忘れる事が出来る。
おかげで目覚めた俺の体からは……。
少しだけ黒い模様のシミの進行が、治っているように見えた。
「静かだな……。外の様子は一体、どうなっているんだろう……?」
――そうだ、ミズガルドは!?
ミズガルドは無事なのだろうか!?
俺は慌てて倉庫小屋の重い鋼鉄製の扉を開けて、外に飛び出る。
不思議なくらいに体が軽い。深く眠ってしまったおかげで、体の中に侵食していた黒いシミの影響は、だいぶ落ち着いたようだった。
でも……起きてすぐに俺は、今起きている現実を思い出して不安になる。
俺を守る為に、この扉の外に出て行ったミズガルドは無事なのだろうか?
頼む、生きていてくれ……ミズガルド! 俺はもう、大切な仲間が死んでいる姿を見たくないんだ!
”――ズズズズ――!”
錆びた鋼鉄製の重い扉を開けると、そこには眩しい程に明るい太陽の光が一面に広かっていた。
まるで、冬を通り越して。やっと春がやってきたかのように――。爽やかな陽光が、大地に優しく降り注いできている。
「ここは……本当に異世界なのか?」
夢から覚めたはずなのに。まるで倉庫の外の世界の方が夢の中のように感じられた。
それくらいに外の世界は、あまりにも美しかった。
そして――。
重い扉を開けて外に出た俺は、すぐに気付いた。
俺の眠っていた倉庫小屋の扉のすぐ隣で。
銀色の長剣を地面に突き立てて。赤い鎧を着た一人の騎士が石の階段の上で、静かに座っているのを。
その赤い騎士はピクリとも動かなかった。
まるで名のある芸術家が作り出した、美しい彫像のように。静かにそこで、じっと座り続けている。
「……ミズ……ガルド……?」
不動の赤い騎士の顔をそっと覗き込んでみる。
彼女の顔は――少しだけ微笑んでいるように見えた。
眩しいばかりの陽光に照らされて。
白く美しい顔が、より光り輝いて見える。
そのあまりにも荘厳で、神聖な雰囲気の漂う赤い騎士の姿を見て………。
俺の目からは、いつの間にか大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていくのが分かった。
眼球から流れ落ちる涙は、一向に止まる気配が無い。
俺は人生でこんなにも、たくさんの涙を流した事は今までに一度もなかった。
それは、俺の中にある悲しみの感情が爆発したとか。そういう激情に促されて出てきた涙では決して無い。
ただただ……あまりにも美しい『人の死』を見て。
成すべき使命を果たして生き絶えた、一人の騎士の最期の姿を見て。自然と目から、溢れ出てきてしまった涙だった。
赤い騎士の満足そうな死に顔を見て。
俺は、こんなにも美しい人の死に方があるのだと……初めて知った。
人は決して死なない為に生きているのではない。
どこで、一体何の為に。自分の命を賭けて死んでいくのか……。
その事が本当に大切なのだと、ミズガルドの姿を見て俺は思わされた。最愛の人を守りきる為に命を賭したミズガルドの姿は、俺にはあまりにも美しく、そして眩しく見えたから。
倉庫小屋の周辺には、おおよそ20匹ほどのライオン兵達が生き絶えていた。
彼女はたった一人だけで、俺が中で眠りについていた倉庫小屋を守ってくれた。
心から大切だと言ってくれた俺の事を……文字通り、命を賭けて守り通してくれたんだ。
俺は階段の上に座っているミズガルドに。
その場で静かに、深く頭を下げた。
「……本当にありがとう、ミズガルド。そして、本当にすまない………」
赤い騎士はもう、返事を返してはくれない。
だけど、その幸せそうな死に顔が全てを物語っていた。
彼女は心から満足をして。ここで、自分の納得の出来る死に方が出来たのだと思う。
俺はしばらく、もう動かなくなったミズガルドの体に対して頭を下げ続けた。
――そして、決心をする。
この先、どのような絶望があったとしても。
例えティーナの存在しない世界を生きる事になったとしても。
絶対に、自殺だけは選ばない。
虚無から逃げて、自分に課せられた使命から逃げてしまう事だけは……決してしない。
それは、俺の為に命を賭してくれたミズガルドに対して。あまりにも失礼で、彼女の美しい死を汚す行為に思えたからだ。
だからこれから俺は、何があっても自ら絶望して死ぬ道だけは選ばない。
足掻いて、足掻いて、必死にこの世界で生き残ってみせよう。
俺の命は、もう……俺だけのものではなくなったのだから。俺に自分の命を託してくれた人の死を無駄にしない為にも、強く生き続けなければならない。
俺は倉庫小屋を後にして。
しばらく無人の村の中を一人で歩いていると――。
村の外の方角から、大きな爆発音が鳴り響いている事に気付いた。
どうやら外ではまだ、夜月皇帝の率いるライオン兵達と。クルセイスの率いるグランデイル軍とが、激しい戦いをあちこちで繰り広げているらしい。
戦況はどちらが優勢なのかは分からない。
だが……この戦いは、しばらくこの辺りで続くのかもしれないと思った。
村の小道を歩いていた、俺の前に……。
不自然なほどに、赤い血溜まりが地面に広がっている場所がある事に気付いた。
その赤い血は、まだ新しかった。
まるでついさっき、ここで誰かが傷を負って出血したような新鮮な色合いをしている。
俺は急いで、血溜まりが流れている場所の先を目指す事にする。
すると、そこには……。
大きな木に、両手両足を釘で打ち付けられている、『不死者』の勇者。行方不明になっていた倉持悠都の死体が木に括り付けられているのを発見した。




