第二百八十五話 女神の泉の消失
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「彼方くん、どうやら女神の泉のある場所が見えてきたみたいだよ……! とうとう僕達は辿り着けるんだよ、念願の女神の泉へね!」
先行する倉持が、小声で後方にいる俺に嬉しそうに話しかけてきた。
心なしか、倉持の声がかなり上機嫌に聞こえる。
それも当然か。倉持や名取にとっても、女神の泉は必ず行かなければいけない念願の場所だった。
期限付きの呪いのブレスレットを付けている2人にとって。今回はある意味、必ず達成しないといけない最優先の課題を、やっと成し遂げる事が出来るんだからな。
俺達は、昼間にやって来た時と同じように。
女神の泉が上から見える森の丘から、慎重に暗闇の森の中を前に進んでいく。
太鼓を打ち鳴らす音は、全然聞こえてこないな。
それどころか……。夜の迷いの森の中は驚くほどに静かだった。もしかしたら誰もいないんじゃないかと思えるくらいの、不気味な静けさを感じる。
よく、アウトドアで湖のキャンプ場に泊まりにいくと。夜になった時の、湖畔の異様な静けさにビビってしまう事があるけれど……。
何だか、今はそれと似た感じがする。だってあまりにも森の中が静か過ぎたからな。
「彼方様……。夜月皇帝に仕える警備隊のような人達は、泉には誰もいないのでしょうか?」
「分からない。誰もいないという事は無いと思うんだけど。これじゃあ、本当に静か過ぎて。警備は全くいないように感じてしまうな……」
俺とティーナは小声で話し合う。
仮に数人くらいの帝国軍の騎士、あるいは守備用のライオン兵が待ち受けていたりしたなら。最低限の戦いが起きる事は、覚悟をしてここにきたのだが……。
流石に誰もいないのは、全くの想定外だった。
よくよく考えてみると、迷いの森の中にある『女神の泉』は、誰も辿り着けない場所に本来はなっているはずだ。つまりはここに到達出来る人間は、元々限られているという事だ。
不老カエルである、コウペイによって。カエルの粉をかけて貰った俺達は、迷いの森の特殊な作用を受けずにここまでやってくる事が出来たけれど……。
本来なら誰一人として、ここまで辿り着ける者はいないのだから。特に警備の必要はないとされているのかもしれないな。
「もしそうなら、俺達にとっては本当にラッキーだ。誰もいない深夜に、女神の泉を使わせて貰って。俺達の旅の目標をここで全て達成させて貰う事にしよう!」
森の丘を下った俺達は、とうとう日中に女神の泉があった場所にまで辿り着く。
やはり警備の守備隊は誰もいないみたいだな。まさに今は、女神の泉が貸し切り状態と言ってもいいだろう。
俺と倉持は、謎にテンションが上がって。
まるで子供のように、女神の泉のそばへと駆け寄っていく。
感覚としては、少年時代に誰もいない学校のプールに深夜に忍び込んで。人目を気にせずに遊びまくる、背徳感を楽しむような感じだな。
周囲の様子を警戒しながら、とうとう女神の泉の近くに辿り着いた俺と倉持は……。
目の前に広がっていた、驚愕の光景を見て。思わず両手で頭を抱えて絶叫してしまった。
「――な、何なんだ、コレは!? 一体、どうなっているんだ!?」
倉持が大声を上げて、何度も女神の泉の底を見回す。
敵に気付かれてはいけない状況だというのに、倉持はそんな事はお構いなしに。パニックに陥ったかのように絶叫し続けている。
俺も出来るだけ冷静さを保っていたかったけれど。叫び声を上げたい気持ちは、倉持と同じだった。
「これは、どういう事なんだ! 何で『女神の泉』が無くなっているんだよ? こんなバカな事があり得るのかよ……!?」
――そう。女神の泉のあった場所に辿り着いた俺達の目の前に広がっていたのは……。
中身がスッカラカンになって。水滴1つ残されていない、水の全く入っていない干からびた泉の跡地しか残されていなかった。
こんなバカな事は絶対にあり得ない。確かに昼間には、ここに女神の泉があったのに……!
昼間には、ここに不思議な虹色に光る水面が溢れていたんだ。それなのに、泉の水が今は完全に干からびてしまっている。虹色に光る不思議な水は、完全に消え失せていた。
――どうしてだ? 何で、女神の泉の中に溜まっていた水が完全に干上がってしまっているんだ!?
落ち着け。落ち着くんだ……!
ここでパニックになってしまう訳にはいかない。冷静に考えよう。
俺はメンバーの中で、一番冷静な判断が出来そうなククリアに相談してみる。
「ククリア……これは、どういう事なのか分かるか?」
問いかけられたククリアも、考え込むような表情を浮かべている。そして、水がすっぽりと無くなっている泉の底をじっと凝視し続けていた。
「すいません……コンビニの勇者殿。ボクにもこの事態は全くの想定外です。考えられる可能性としては、女神の泉は夜になると消失してしまう特殊な仕様になっていたのか。それとも、何か特定の条件を満たさないと使用出来ないようなルールがあったのか。他には、何かしらの想定外の事情により。突然、女神の泉の水が消失してしまったのか? 理由は幾つか考えられそうですが……今、その答えをここで出す事は困難でしょう」
「確かにな……。きっと何か理由はあるのだろう。でもそれを今、この瞬間に突き止めるのはかなり難しいかもしれないな」
そう。原因を探る事は出来るかもしれない。
女神の泉の特性を理解する為に、俺達が見ていなかった日中の時間の様子をまた調べるしかない。それか夜月皇帝の関係者でもいれば、そいつを問い詰めて理由を知れるかもしれない。
クソッ……! 警備の兵隊が1人もいないからラッキーだったと、さっきは思ったけど。
今はこの謎の状況を知る為に、ライオン兵の1匹でもいい。
ここに敵の守備兵がいたのなら、そいつをとっ捕まえて。なぜ女神の泉の水が消失してしまっているのかを聞き出したい所なのに……。何でここには誰もいないんだよ!
とにかく俺達は、何か手掛かりになるものはないかと。空になった女神の泉の底を必死に探索し続けた。
ティーナも、フィートも、アリスも――。そしてククリアも、名取と倉持も。
みんなで手分けをして。女神の泉の周辺の様子をくまなく調べ続ける。たけど、どれだけ時間が経っても。結局、何も見つけ出す事は出来なかった。
おいおい、マジでこれはどういう事なんだよ……?
昼間には満水だった泉が、夜には干上がっているなんて事があるのか? もし、どこかに蛇口のようなものが付いてるなら、その場所を俺に今すぐ教えてくれよ!
水道口を全開にして、頼むから昼間みたいに虹色に光る不思議な水で泉を満たしてくれよ!
「くっ……これだけ探しても、ダメなのか!」
「彼方様……」
ティーナが心配そうに俺の手を握ってくれる。
もう、仕方がない。だって無いものは無いんだ。
いつまでもここにいる訳にはいかない。ぐずぐずしてると、敵に見つかってしまう可能性もある。だからもう、決断をしないといけないだろう。
「ククリア、ここはいったん撤退しよう! 朝が来るまで、また地中のコンビニの中に隠れて。明朝にもう一度、ここに偵察に来るんだ」
「……そうですね。今のままでは、あまりにも情報不足ですし。このままここにいても、得られる情報はもう無いでしょう」
ククリアも俺の考えに同意してくれた。
不本意だが、ここは一度ここから離れるしかない。
明日の朝に、再び少数のメンバーでここに偵察に来よう。
夜月皇帝が明日もここに姿を現すとしたら、一体どうやって女神の泉を使用しているのかを、その時に確かめるんだ。
ようやく、ここから撤退をする決断をして。
ティーナやフィートも、すぐに俺の考えに同意をしてくれた。
だから、俺達は敵に見つかる前に。急いで空っぽになった女神の泉から離れようとしたのだが……。
一人だけ、この状況に納得が出来ずに。大声で雄叫びを上げているメンバーがいた。
「あっはっはーーーっ!! こんな事が、あり得る訳がない! この僕がやっとの思いでここまで辿り着いたというのに……。何で女神の泉には、水が入っていないんだ! これもあの拷問女のクルセイスの僕への嫌がらせなのか!? きっと、そうなんだろう! グランデイル王国を裏切った僕をわざと絶望させて。その様子を遠くから見て嘲笑っているんだろう!」
突然、両手を広げて大声で喚き始めたのは、倉持だった。
おい、マジかよ。こんな所でいきなり発狂なんかしやがって……!
気持ちは分かる。お前はどうしてもここに来たかったんだものな。その為にずっと準備もしていたんだものな。
でも、まだ自暴自棄になるには早いぞ!
「倉持、落ち着くんだ! そんなに大声で叫ぶんじゃない!」
「落ち着けだって!? これが落ち着いてなんていられるのかい? 女神の泉の水が空っぽなんだよ? 誰か大食いの人間がやってきて、泉の水を全部飲み干したとでも言うのかい? あっはっは! それは実に愉快で笑えるじゃないか!」
「泉の水は確かに今は無い! でも、昼間にはちゃんとあったのをお前も見ていただろう! 今はまだ理由は分からないが……。だからこそ、ここは一度引き返して。また明日、様子を探るんだ。こんな所で闇雲に叫んでいたって何も解決はしないぞ!」
興奮している倉持をなだめる為に。俺もつい、大声で怒鳴り返してしまった。
いやさすがに、これはマズイだろ……!
いくら何でも、こんなに大声で深夜の森の中で叫びあっていたら。絶対に誰かに気付かれてしまうぞ。
『――へぇ〜。明日もここに来て、オレの女神の泉を調べようっていう訳なのか。でも、お前達にはもう……『明日』は無いとオレは思うけどな』
……この声は、まさか!?
俺は急いで、周囲を見回してみると。
いつの間にかに、おびただしい数のライオン兵達が女神の泉をぐるりと取り囲んでいた。
その数は昼間の時より遙かに多い。おそらく1万匹以上は、ここに集結しているかもしれない。
そして、最悪な事に……。
空になった女神の泉の底に、愕然として立ち尽くしている俺達を見下ろすように。
漆黒の鎧を着た夜月皇帝ミュラハイトが、両腕を組みながら。
こちらを睨むようにして、泉の対岸から俺達を見つめていた。




