第百八十四話 遠い過去の記憶
……ここは一体、どこなんだろう?
視界がずっと、薄ぼやけて見える。
寝起きの、まだ朦朧とした意識の中を彷徨っているような感覚がする。
まるで万華鏡の中の世界に、入りこんでしまったかのように。魚眼レンズを付けて覗き込むカメラのような、不思議な視界がずっと俺の頭の中をぐるぐると回り続けていた。
これは……もしかして、夢の中なのだろうか?
気付いたら、俺の体はいつの間にかに……広い緑の野原の上にいた。体を仰向けにした状態で、壮大に広がる青空を見つめながら地面の上で寝そべっていたらしい。
「……あっ! もう、彼方く〜ん。やっと起きたの? こんな時間から昼寝をしちゃうなんて、ちょっと緊張感が足りないんじゃないの〜?」
よく聞き慣れた声が、俺の顔を覗き込むようにして上から話しかけてくる。
……眩しくて、よく見えないな。
ぼんやりとした視界がまだずっと続いていて、その声の主が誰なのかが俺にはよく分からない。
でも、この猫撫で声はたしか……。俺が昔から、ずっとよく聞き慣れている声のような気もするんだが。
すると、朦朧とした俺の意識とは別に――。
野原の上で寝そべっている、『別の俺の意識』がゆっくりと目を覚まし。
声をかけてきた猫撫で声の人物に対して、俺の意識を無視して勝手に返事をした。
「――悪い悪い、紗希。俺、少しだけ寝過ぎちゃったみたいだな……」
(えっ? もしかして今の声は――『俺』なのか?)
朦朧とした『俺』の意識はまだここにあるのに。俺ではない『別の俺』が今……俺と同じ声を体から発して返事をしたぞ。
これは、一体どういう事なんだ?
今、ここで寝込んでいる俺の体は――。
俺ではない『別の俺』が所有をしているもの、という事なのだろうか?
「もう〜、本当にそんなんで選抜勇者のリーダーとしての自覚があるの? 彼方くんが寝ている間に、魔物は全部アイリーンさんが倒してくれたから良かったものの。これから魔王と戦おうって時に、ちょっと油断し過ぎなんじゃないの〜?」
この声は――、玉木か!?
でも今……玉木に返事をした俺の声は。
玉木の事を『紗希』って、下の名前で呼んでいたような気がしたけれど。
「――アイリーンが魔物を全部倒してくれたのなら別にそれでいいじゃないか。それよりも、紗希。何かタオルみたいなのを持っていないか? 俺、目に小さなゴミが入っちゃったみたいで、さっきからずっと涙が止まらないんだよ」
「もう〜〜、本当世話の焼ける異世界の勇者様よね! この世界の未来は彼方くん一人の肩に、ぜ〜んぶかかっているんだから。もっとしゃきっとしなきゃダメじゃないの! ……ハイ、私のハンカチを貸してあげるから、これで涙を拭きなさいよね!」
どうやら今、玉木と会話をしている別の俺は……。
この広大な野原の上で、玉木に膝枕をされながらぐっすりと眠りについていたらしいな。
自分の持つ白いハンカチをポケットから取り出した玉木は、それを使って、自分の膝の上に頭を乗せている秋ノ瀬彼方の目の周りを、白いハンカチで優しく拭いてあげているようだった。
「――イテテっ。今、何か固いモノが目に当たったぞ?」
「えっ、ああ〜〜っ!? ご、ごめんなさい〜! さっきちょうど汚れを拭いていた所だったから……。ハンカチの中にまだアレを入れっぱなしにしちゃってたわ」
彼方の目を優しく拭いてあげていた玉木が、突然……顔を真っ赤にして慌て始める。
体を起こした彼方は、急いで玉木が隠そうとしたモノを見つけ出して。それをパニックになっている玉木の手から優しく取り上げた。
「あっ、コレって……? 紗希、お前まだこの『猫のキーホルダー』を持っていたのかよ」
ゆでだこのように顔を真っ赤にして、狼狽える玉木。やがて、観念したように口をにゅ〜っと尖らせながら小さく呟いた。
「だ、だって〜〜! これは私の大切な宝物なんだもの〜! 彼方くんが中学生のクリスマスの時に、わざわざサンタクロースの格好をして、私の家に来てプレゼントしてくれたものだし……」
アハハと、別の俺である『彼方』は、玉木の頭をポンポンと撫でながら笑う。
「……いや、あの時はサンタクロースなんか居ないって、紗希の夢を壊すような事を俺がつい学校で言っちゃったからな……。あの頃、お前はまだサンタクロースの存在を純粋に信じていたのに、何だか申し訳ない事をしちゃったと思ってさ。だから急いでドンキでコスプレ衣装を買って、謝る為にお前の家に向かったんだっけ。懐かしいな、あの日の事はよく覚えているよ」
「本当に〜〜!? 彼方くんすぐに昔の事をよく忘れるから、何だか怪しいな〜〜!」
彼方は体をゆっくりと起こして。
顔を赤くしている玉木の体をぎゅっと抱きしめる。
「バーカ、忘れたりなんてしないって! だって俺が世界で一番大切に想っている女の子とのクリスマスの想い出だぞ? 忘れる訳ないじゃないかよ!」
「えっ、えっ、え〜〜! 何よ〜! そんな風に、改めて私に熱い想いを伝えてくるのは、は、反則なんだからね〜!」
更に顔を真っ赤にした玉木の顔に。そっと彼方は自分の顔を近づける。
そして、唇を震わせている玉木に。優しく口づけを交わした。
しばらく彼方と玉木は、お互いに無言で口を重ね続けている。
「もう……クラスのみんなに見られたら、どうするのよ! 彼方くんのば〜か! 変態、エロエロ大魔神!」
「別に見られてたっていいさ。俺達はもう……そういう仲だろう? 違うのか?」
「……ううん、それは違わないけど」
顔を赤くしたままの玉木の髪を撫でながら。彼方はその耳元で小さく囁く。
「この世界の魔王を倒したらさ、2人で必ず元の世界に戻ろうな! そして、紗希のお姉ちゃんに俺は挨拶をしに行くんだ。俺が紗希の恋人の『秋ノ瀬彼方』ですよ〜ってな!」
「お姉ちゃん、私の事をめっちゃ溺愛してるから。きっと彼方くん、お姉ちゃんに半殺しにされちゃうかもしれないよ? それでもちゃ〜んと挨拶出来る覚悟はあるの〜?」
「ハハっ……それは、少し怖いな。でも大丈夫さ。どういう風に挨拶をしたら紗希の事を許してくれるのか、そうだな……後でレイチェルさんに相談をしてみるよ。レイチェルさんは、何でも相談に乗ってくれる俺達の頼れるお姉さんだしな!」
異世界の勇者のカップルである、2人の若い男女が幸せそうに笑い合っている。
そんな、とても平和で穏やかな日常の光景……。
これは遠い過去にこの世界にいた――もう一人の『俺』の記憶なのだろうか?
そうか、もしかしたら……。
この世界に先に召喚されていた、別の『秋ノ瀬彼方』が過去にこの世界で経験をしてきた記憶。
つまりは、やがてこの世界全てを支配した『コンビニの大魔王』の記憶――という事になるのだろうか。
「いててて! 痛っ……!」
「――どうしたの? 彼方くん、大丈夫?」
「ああ……。今、少し頭痛がしたんだ。それに何か不思議な感じもした。まるで俺ではない誰かが突然、俺の頭の中に入り込んできたような、そんな嫌な感覚がして」
「えっ、何よそれ〜? 本当に大丈夫なの? いったん、コンビニに戻って事務所のベッドで休もうよ……。ちゃんとレイチェルさんにも見てもらわないと、何かあったら大変だし」
その瞬間。
俺の意識は、一瞬にして――。
ハサミで線をぶち切られるように。突然、別の『秋ノ瀬彼方』の意識から途切れて、切り離されてしまう。
再び、暗黒の世界の中に俺の意識は戻され。
視界の全く見えない、暗闇の中に放り込まれて……。
そこで、万華鏡のようにぐるぐると視界が何度も何度も回転を繰り返しながら。
俺は、元の自分の身体の中で、静かに目を覚ました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「あっ、彼方くん〜〜! 良かったぁ……目を覚ましたのね〜! 大丈夫……? どこか痛い所はない?」
心配そうな顔をして、俺の顔を上から覗き込んでくる玉木の顔が真上にあった。
「彼方様! 良かった……。目を覚まされたのですね! 本当に安心しました」
玉木の隣には、ティーナもいる。
どうやら俺は、コンビニの事務所の簡易ベッドの上に寝かされているようだった。
ここに玉木とティーナがいるという事は……。
ここはコンビニ支店1号店の中なのか。でも、どうして俺はここにいるんだろう?
頭の中がまだ朦朧として思考が追いつかない。
それに、こうしてベッドの上で起きたという事は。
さっきまで見ていたあの光景は、やはり『夢』だったのだろうか……。
俺は心配そうに見つめてくる、玉木とティーナの顔を交互に見る。
そして、ゆっくりと上半身を起こして。
目の前にいる、中学生の頃から俺がよく知っている玉木紗希に、そっと声をかけてみた。
「――玉木。お前、白いハンカチを持ってたりするかな? もし持っているなら、俺に少し貸して欲しいんだけど」
「えっ、白いハンカチ……? うん、持ってるけど。ハイ、これ」
玉木が夢の中と同じ形をした、白いハンカチを俺に手渡してくれた。
それを受け取った俺は、特に目から涙が出ている訳でもないのに。玉木から借りた白いハンカチで、目の周りをゴシゴシと拭いてみた。
この感触。夢の中と全く同じだな。
という事は、もしかして……。
「……なぁ、玉木? お前、俺が中学生の頃にクリスマスの日にあげた『猫のキーホルダー』って、今も持っていたりするのか?」
俺がそう問いかけてみると……。
”――ボンッ――!!”
風船が破裂する効果音が聞こえるかのように。
玉木は途端に、顔を真っ赤にして。ゆでだこのように口を尖らせながら、両手をバタバタと振って焦り出した。
「なっ……なっ……!? 何で、そんな事を急に聞いてくるのよ〜! わ、わ、私が……彼方くんに貰った猫のキーホルダーを、今でもずっと大切に持っている事を……ど、どうして知っているのよ〜?」
「……良かったらそれを、俺に見せてくれないか?」
更に顔をポストのように真っ赤にした玉木が。手をプルプルと震わせながら、おずおずと俺に小さな『猫のキーホルダー』を手渡してきた。
俺はその猫のキーホルダーを手に取ってみて、マジマジと見つめる。
うん。やはりさっき見た夢の中と、全く一緒だな。
玉木は俺があげたこの猫のキーホルダーを、ずっと大切に持っていてくれてたんだな……。
ちなみにこの猫のキーホルダーは、うちの実家で飼ってる子猫のミミにそっくりな外見をしているから選んだんだけどな。
「この猫ちゃんのキーホルダーがあったから。私はカディナの街にいた彼方くんの事を、『索敵探索』の能力で追いかける事が出来たのよ。ほら、彼方くんが私にプレゼントをくれるなんて、め、めったに無いからさ……! だから、それはたまたま大切にしまっておいたのよ〜。でも、あの時のクリスマスの想い出の事を彼方くんが憶えていてくれてたなんて、何だか嬉しいな。彼方くんって天然な所があるから。もう、すっかり忘れていると思ってたから……」
忘れたりはしないさ。
あの時は俺も……と何かを、思い出しかけて――。
視線がティーナと合った俺は、それ以上過去の想い出を思い出すのを、いったん止める事にした。
「……ありがとうな、紗希!」
俺は白いハンカチと猫のキーホルダーを玉木に返した。
「えっ……? 紗希って、彼方くん!? 今、私の事を紗希って名前で呼んだの? グハ〜〜〜っ!!」
玉木が鼻から大量の鼻血を出して、その場で卒倒する。
しまった。さっきの夢の中と同じような雰囲気のままで、つい俺は玉木の事を下の名前でそのまま呼んでしまった。
「――た、玉木様! 大丈夫ですか……!?」
ティーナが慌てて、コンビニの床に倒れた玉木の看病をしてくれる。
玉木はしばらく幸せそうに? ニヤニヤとニヤケ笑いを浮かべながら床に横たわっているようだったが……。
数分でまた、いつも通りの玉木に戻った。
それにしても……。
これで、俺がさっきまで見ていたあの『夢』は。
全て、過去にこの世界で起きていた現実であったという可能性が高くなった訳か……。
俺はもっと夢の事を思い出そうとしたが……。
すぐに頭の中に。俺とアイリーンが遭遇をした、あの『巨大コンビニ』の事を思い出して、思わず大声を上げてしまう。
「――そ、そうだ!! 思い出した……! 俺は、幻想の森にいたんだ! あ、アイリーンは今、どこにいるんだ!? 右腕を失って大怪我をしていたアイリーンは今、無事なのか?」
俺は飛び起きるようにして、ベッドから体を起こすと。目の前にいるティーナと玉木にその事を聞いてみる。
そうだった……。
こんなにも大事な事を忘れていたなんて!
どうやら、さっきの夢の中の印象があまりにも強烈過ぎて。
大切な『現実』の事の方を、すっかりと俺は忘れかけてしまっていたらしい。
そう、俺はあの『巨大コンビニ』という本物の『悪夢』に遭遇をしてしまったんだ。
そこには俺達もよく知っている、ピンク色の髪をしたレイチェルさんと同じ姿の女がいて……。そして、そいつは想像も出来ないくらいの恐ろしさを秘めた悪魔だった。
俺とアイリーンは命からがら、巨大コンビニの前から逃げ出して来たんだ。
「――店長、私ならもう大丈夫ですよ! この通り、体もしっかりと癒えましたので」
事務所の中にガチャリと白いドアを開けて。コンビニの守護騎士であるアイリーンが入ってきた。
「アイリーン、無事なのか!? そうか、『回復術師』の香苗が傷を治してくれたのか」
アイリーンと一緒に、回復術師の香苗美花が入室をしてきたのを確認して、俺は大体の状況を察する。
アイリーンの傷がもう治っていて、俺の方が後に目を覚ます……という事は。どうやら、俺の意識が回復する方が遅かったようだな。
もしかしたら、俺はずっと夢をみていて。しばらくの間、ベッドの上で眠り続けていたのかもしれない。
「……俺は、どれくらいここで寝込んでいたんだ?」
「彼方様は、約半日ほどベッドの上で寝ておられました。ここは砂漠の地下にある、地下空洞の中です。私達がコンビニ支店1号店でこの地下空洞の中を進んでいた所……。突然、目の前に空間転移をしてきた彼方様とアイリーンさんが現れたのです。アイリーンさんは大怪我をされていたので、すぐに香苗様に治療をして頂いたのですが……。彼方様は、私達が呼びかけてもなかなか目を覚まして下さらなかったのです」
ここが砂漠の地下空洞の中だって?
じゃあ、俺とアイリーンは幻想の森から。一気にここまで転移をしてきたという事なのか。
どうやらあの幻想の森の中に、ポツンと置いてあった緑色の光石の力で……俺達は危機を脱する事が出来たらしい。
俺は傷の癒えたアイリーンにその事を詳しく尋ねようとした所。
先にアイリーンの方から、俺達を転移させてくれた――あの緑色の光石についての説明をしてくれた。
「店長……。実はコンビニ支店1号店に残る皆様を森の外に送り届けた後……。私はとある謎の人物にお会いしたのです。その時の記憶を、なぜかしっかり思い出す事は出来ないのですが……」
アイリーンは、自分の頭を強く押さえながら。ゆっくりと俺に説明をしてくれた。
「……その人物は、この場所に転移をする事が出来る、緑色の光石の場所を私に教えてくれました。そしてこれから大きな歴史の転換点が起きるので、何かあったらその場所にまで逃げるように……と告げてきたのです。たしか黄色いドレスを着た、若い女性だったと思います。でもなぜか、その方の事をあまり詳しく思い出す事が出来ないのです」