Act21:遺伝子レベルで詐欺師なんだな
あくとにじゅういち。
たまたま、早くに目が覚めた。
時計を確認すると、時刻は5時半を示している。
窓の外はいまだ薄暗いが、今の季節、すぐに明るくなるだろう。
わりとスッキリと目が覚めてしまったので、二度寝する気にもならなくて、身を起こすことにする。
「…………」
さて、と数舜考える。
早起きしたからと言って、できることは多くない。
ログインしてバーチャルで身体を動かすか。
あるいは外に出てリアルで身体を動かすか、だ。
最近は比重がバーチャルにより気味だったので、良い機会と思い、少し出かけることにする。
着替えを取り出すと洗面所に向かい、顔を洗って適当に身嗜みを整える。
寝巻からジャージに着替え、ダイニングに向かう。
明佳はまだ眠っているようなので、できるだけ静かに動く。
冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して、少しだけ水分を補給すると、俺は自宅を出た。
ジョギングがてらに向かうのは近所の公園だ。
俺が修めている古武術流派である『戴天流』は、とにかく『乱れ』を嫌う。
体勢の乱れ、精神の乱れ、呼吸の乱れ。
それらの乱れを徹底的に排除し、自らの肉体を調律し制御下に置くことを基本骨子とする。
ゆえに、ただ走るだけでも姿勢は一定に保ち、心は平静を維持し、呼吸を乱すことなどもってのほかである。
朝練に向かう中学生や出勤途中のサラリーマン、犬を連れたご婦人や散歩する老人などとすれ違い、ときに追い抜きながら、目的地の公園に辿り着く。
住宅街の只中に存在するその公園は、遊具の一つもない、小さな広場のような場所だ。
あるのはベンチと、水場が一箇所だけ。
普段は、周辺に住んでいる子どもが父親とキャッチボールをする姿なんかを見ることができる。
この殺風景さが逆に気に入っていて、俺は早朝や夜中に身体を動かす際には良くここに来るのだ。
鍛錬と言っても、特に派手なことはしない。
自分の身体の動きを確かめる様に、ゆっくりと型稽古を行う程度だ。
拳打、蹴撃、歩法、さらにはただ立つ姿勢一つとっても、すべてに意味がある。
最適の呼吸がある。
己の肉体と対話しながら、丁寧に一つ一つの動作をなぞっていく。
中国武術で言うところの套路に近い練習法だ。
今回は動きこそゆっくりだが、全身を満遍なく駆使するので運動量はそれなりに大きい。
「…………ここまでにするか」
ゆっくりと一通りの動作を終えると、ちょうどいい時間だった。
俺は先程よりも人通りの多くなった道を、また一定のペースで走りながら、自宅へと戻ることにした。
「お兄ちゃん、おはよぉー……」
軽くシャワーを浴びて汗を流し、朝の報道番組を流し見しながら朝食を用意していると、妹の明佳が起きてきた。
うつらうつら、ぺったらぺったらと緩慢な足取りで、傍目には寝ながら歩いているように見える。
「おはよう、さや」
明佳はそのままリビングのソファーまで歩いていくと、コテンと寝転がり、丸くなり始めた。
あの子は別に寝起きが悪いわけではなく、こうして自分でちゃんと毎朝起きてくるのだが、スロースターターというか、エンジンが掛かるまでに時間を要するのだ。
そんないつもの光景を横目に、俺が調理するのはフレンチトーストだ。
小食な明佳は朝食を食べたがらないことが多く、何を作ればちゃんと食べてくれるのか考えた結果がこれだ。
やはり、甘いものには食指が動くらしい。
香ばしく甘い匂いに釣られたのか、ソファーで丸まった明佳がもぞもぞと動く。
「さや。ごはんにしよう。顔を洗ってきなさい」
「はぁーい……」
明佳は緩慢に起き上がり、またぺったらぺったらと洗面所に向かって行く。
彼女の寝巻はシャツ一枚で、だぼだぼのワンピースみたくなってしまっているそれは俺の衣服だ。
別に、俺が着なくなった古着を使っているわけではなくて、俺が自分で着るために買ってきたシャツがいつの間にか勝手にあの子の寝巻にされてしまっていただけである。そもそも、俺が一度でも着たのかどうかも今となっては怪しいものだ。
俺はダイニングの机に朝食を並べ始める。
明佳の席にはフレンチトーストと、一口大にカットしたフルーツを適当に添える。
それと、牛乳。
俺は朝食からがっつり食べるたちなので、明佳と同じものに加えてベーコンエッグとインスタントのスープ、それからサラダを用意する。
ちなみに、俺は朝はコーヒーだ。
顔を洗ってしゃんと目を覚ましてきた明佳と一緒に席に着き、手を合わせる。
「「いただきます」」
テレビの音をBGMにして、黙々と箸を進める俺に対して、明佳は小さな口でもくもくと食べる。
「そういえば」
「ん?」
不意に、明佳が言う。
「明日、お姉ちゃん来るんだよね?」
「ああ。そう言ってたな」
週の頭、昼休みに電話をくれた遥佳が、週末にここに泊まると言っていた。
今日は金曜日なので、たぶん明日うちに来るつもりだろう。
まあ、今日あたりまた遥佳から連絡があると思う。
「お前はどうする?実家に戻ってるか?」
「ううん。私もこっちに居るよ。お姉ちゃんとは久しぶりだし」
「そうか……じゃあ、三人で一度実家に顔でも出すか」
「そだね」
苦手意識、というほどのものではなかろうが、明佳は少しだけ遥佳を敬遠しているふしがある。
女同士であるがゆえの遠慮のなさというか、遥佳は明佳に対して結構ズバズバと苦言を呈することが多い。
完ぺき主義なところのある遥佳にとっては、明佳の適当さというか、ズボラなところが目に余るのだろう。
亡き両親の性格を鑑みれば、俺や明佳の適当具合は父方の遺伝子、遥佳の完ぺき主義は母方の遺伝子だろうと思われる。
もっとも、姉妹の仲が悪いわけでは決してなく。
明佳は優秀な姉のことをなんだかんだで尊敬しているし、遥佳もそんな妹のことを不器用ながらも可愛がっている。
食事を終え、明佳が自室で登校の準備をしている間に、俺は手早く朝食の片付けを済ませる。
金曜日は俺も一限から講義が入っているので、途中までは明佳と一緒に登校することにしているのだ。
俺の準備などは鞄一つ持てば事足りるので、秒で終わる。
中学の制服であるセーラー服に着替えた明佳が、学生鞄を手に部屋から出てくる。
背の中ほどまでの頭髪は二つに括っておさげにしておくのがいつものスタイルだ。
中学校の校則で、肩より長い頭髪は縛っておかねばならないとか。もっとも破ったところで罰則もなく、精々生徒指導に小言を言われる程度の形骸化したルールらしいのだが。
ちなみに昔同じ中学に通っていた頃の遥佳は、普通にその校則はガン無視していて、普段の学校生活でその腰までの長髪を結ったことは一度として無かったようだ。
こんなところにも性格が出ていて面白いのだが、こういうどうでもいいルールに対して、案外と明佳は『従わない理由が特にないからルールを守る』と考え、遥佳は『従う理由が特にないからルールを破る』と考える。
ルールだから、皆やってるから、偉い人が言ったから――――そういう中身の無い権威に唯々諾々と従うのは、遥佳の最も嫌うところなのだ。
「忘れ物はないか?」
「うん。たぶん」
連れ立って家を出た俺たちは、適当に雑談などしながら徒歩で進む。
俺が借りているマンションは明佳の通う中学からは徒歩圏内の距離、俺の通う大学からは地下鉄で一駅分の距離に所在している。
明佳が友達と待ち合わせをしている場所までは一緒に歩いていき、俺はそこから徒歩で大学を目指すか、場合によっては地下鉄を利用するか、といった具合だ。
「お兄ちゃんの動画、アップされてたね」
「見たか?」
「うん。結構長かったから、途中までだけど」
動画と言うのは一昨日俺たちが撮影した『六道窮鬼』のレイド動画だ。
昨日一日かけて会長が編集し、昨夜動画配信サイトにアップロードしたと同好会のグループラインに通知があった。
不要部分を極力削ってほぼダイジェストに仕上げても一時間を優に超える長編動画となっているので、まあフルで見ようと思ったら纏まった時間が取れる時でないと無理そうだ。
「動画のコメント欄がすごいことになってたよ」
「どんなだ?」
明佳は思い出す様に少し考えて、「私も流し見しただけだけど」と前置きして、
「一番多かったのは『チートおつ』とか『頭おかしい』とか『変態すぎる』とか、そんな感じの」
「一応訊いとくが、それ俺のことか?」
「他に誰が居るの?」
そりゃあ[ガルム]とか[焔星]とか、その辺。
あくまでもウチの同好会のPR動画なので俺をクローズアップしないことには仕方ないわけで、会長がそういう編集をしたであろうことは想像に難くないが、色々な意味で閲覧するのに勇気が要りそうな気がする。
「というか、昨日の今日なのにもうそんなに再生されてんのか?」
「お兄ちゃんはもう少し、『Zillion Ray'N』のコミュニティを確認する癖をつけたほうが良いと思う」
要は攻略Wikiを始めとしたネット上の掲示板とかSNSとかファンサイトのことだが。
『六道窮鬼』のレイド配信がそもそも絶対数が少ないこともあって、たまたま最初に見た人が『こんなん上がってまっせ』と交流サイトに話題を持ち込んで、あとは人伝に広がってあっという間に拡散したようだ。
案外、その最初の一人の正体は会長とか佐々木とか白河先輩あたりのサクラかもしれないが。
余談だが、偉そうに言っている明佳自身も、普段は交流サイトのごく一部であるファッション談義のコーナーしか確認していないことなど、この兄にはお見通しである。
「まあ、宣伝効果はバッチリだな」
「お兄ちゃん、身バレとか全然気にしないもんね」
そこはそれ、大学の同好会の名を冠したチャンネルで動画を上げている以上、気にしてもしかたのないところである。
別にプライベートを公開しているわけでもなし、大学生であることがバレたところで困ることなど特にない。
無論、ほんの些細な事柄でもリアルの事情を晒したくないという人種が存在することも理解はしている。
そんなことを話しながら歩くこと暫し、明佳の友達との待ち合わせ場所である交差点に辿り着く。
ちょうど時間はぴったりくらいだったが、明佳の友達二人は既にその場で待って居た。
「おはよう!葉月ちゃん。美幌ちゃん!」
お互いの姿を認めた途端、明佳が声を上げて駆け寄っていく。
彼女たちは明佳が中学に入ってからできた友人で、去年から引き続いて三人同じクラスらしい。
若干癖っ毛なショートヘアーに勝気な釣り目の女の子が立浪葉月ちゃん。
大男である俺を相手にしても物怖じしない元気な子で、明佳ほどではないがどちらかというと小柄な感じだ。
それから、緩く内向きに巻いたボブヘアーの女の子が音更美幌ちゃん。
カチューシャがトレードマークのお嬢様然とした子で、スッと背筋の通った姿勢の良い立ち姿にいつも感心させられる。
「おはよ、さや」
「おはよう。明佳ちゃん」
こうして俺と明佳が一緒に登校するようになったのは、明佳がウチに入り浸るようになってからなのでわりと最近のことなのだが、それでも週一でこうやって顔を合わせる機会があれば、明佳の友達の少女たちともすっかり顔見知りだ。
ちなみに、明佳が実家からでなく俺の家から登校するようになって、それに応じて三人の待ち合わせ場所も変更された経緯があるらしい。
駆け寄った明佳の後を追ってゆったりと近付いた俺に、彼女たちは実に礼儀正しく挨拶をくれた。
「彼方さんも、おはようございますっ」
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
我ながら、もう少し愛想良くできないのかと思わなくもないが、俺のような武骨者がにこやかに挨拶したところで、それはそれで不気味なだけだろう。
とりあえず、明佳が友達と合流したのを見届けたことだし、俺は早々に踵を返すことにする。
「じゃあ俺は行くから、三人とも気を付けて登校するんだぞ」
過保護な俺のセリフに明佳と葉月ちゃんは元気よく「はーいっ」と返事をし、美幌ちゃんは落ち着いた様子で「はい」と応えてくれた。
……うん。とりあえず美幌ちゃんが居れば安心だろう。
両親が亡くなってから長いこと明佳の親代わりを自負してきたので、思わずこういうセリフが口をついて出てしまう。
きっと、そう遠くないうちに明佳にも思春期とか反抗期がやってきて、俺をウザがるようになるだろうから、まあ今のうちだと思って存分に心配させてもらおうというのが俺の所感であったりする。
◇◇◇
兄と別れ、学校へと向かう道すがら、最初の話題は大抵会ったばかりの兄のことになる。
「あーいいなぁ彼方さん!あたしもあんなお兄さん欲しかったなぁ」
本当に羨ましそうな声を上げたのは葉月ちゃんだ。
この子はうちの兄に会うたびに同じことを言っている。
私としても自慢の兄が褒められるのは悪い気はしないのだけど……
「葉月ちゃんのお兄さんだって、良いお兄さんだと思うけど」
葉月ちゃんには高校生のお兄さんが居て、私や美幌ちゃんも彼女の家に遊びに行った際に会ったことがある。
いかにもスポーツマン、といった雰囲気のさわやかなイケメンだったと記憶しているのだが。
「うちのお兄なんて外面がいいだけよ!頭ン中はエロいことしか考えてないんだから!」
「ええー。そうは見えなかったけどなぁ」
「甘いわよさや!男なんて一皮むけば皆サルなんだからね!」
その理論で行くとウチの兄も例にもれず中身はお猿さんになってしまうのだが。
美幌ちゃんはニコニコと笑っているだけで、礼儀正しくノーコメントということらしい。
「そういえば……」
ふと思い出すのは少し前に[クロエ]と交わした会話である。
彼女曰く『ぶっちゃけ[エッジ]さんだって普通に見てくるよ』
何の話かと言うと、それはもうおっぱいの話である。
流石の兄も[クロエ]の圧倒的凶器には勝てないらしい。
私の前ではまったくそういう面を見せない兄なので、[クロエ]に明かされたあの事実はそれなりに衝撃だったのだけど、冷静になって考えてみれば、あれだけ戦闘力(意味深)の高い女性が居てまったく興味を示さないというのは、そのほうが問題な気がする。
と、そのようなことを私が言うと、葉月ちゃんは呆れ顔になり、美幌ちゃんは困ったように笑った。
ちなみに二人とも私の縁で[クロエ]とはリアルで会ったことがある。
「いや、流石にあれは例外でしょ」
「あの人を基準に『女性』を語られちゃうと、私たちなんて案山子かなにかになっちゃうよ?」
いやいや、それなりに早熟な美幌ちゃんで案山子扱いだったら、私や葉月ちゃんはもう路傍の木石かなにかである。
などと、葉月ちゃんに知られれば『いっしょにすんな!』と怒られそうなことを考える。
実際、[クロエ]とかいうバケモノと比較すれば、私たちの戦闘力はその程度なのかもしれないが。
「みほはどうなのよ?彼方さんみたいなお兄さん欲しくない?」
これ以上[クロエ]について考えても虚しくなるだけなので、若干強引に葉月ちゃんが話を振る。
「うーん。私は男の子の兄弟って居ないからなぁ。そもそも『お兄さん』が居る状況が想像できないかも」
美幌ちゃんには高校生のお姉さんが一人居て、例によって私と葉月ちゃんとも面識がある。
美幌ちゃんのお姉さんは実年齢よりも若く見られがちな容姿をしていて、逆に大人びた感のある美幌ちゃんと並ぶと双子の姉妹か、もしかすると姉妹が逆転して見えることすらある。
美幌ちゃん以上におっとりぽやぽやした雰囲気の人で、家事が趣味と言うなんとも家庭的なお姉さんだ。
「だから私はむしろ、遥佳さんみたいなお姉さんに憧れちゃうかなぁ」
「うええ~。あんな完ぺき超人のお姉が居たら、それと比較されたら生きてけないってば!」
「ねえ葉月ちゃん。それ遠回しに私が生きてるだけで恥晒しって言ってる?」
「そうは言わないけど、さやの神経図太いなぁとは思ってる」
葉月ちゃんの感想も良くわかる話ではある。
私だって、常に姉と同じような成績を求められたら、生きていけないとは言わないまでも、今よりずっと生き辛くはあっただろうなと思うから。
そうなっていないのは、単純に私自身を含めて誰もそれを求めなかったからだ。
というか、私が通っている中学には過去に姉も在籍していたわけで、当然当時の彼女を知る教員も多く残っている。
その彼らから『あの旭遥佳の妹なんだから』と私が過度の期待を寄せられているかと言うと、実は全然そんなことはない。
むしろ、私がわりと普通で安堵されている気配すらある。
姉があまりにも普通じゃない中学生だったせいで、妹まで同じようなイロモノだったらどうしようかと思われていたらしい。
私が思うに、姉はあらゆる意味で優秀だが、その代償として『人間味』が決定的に欠けている。
簡単に言えば、もの凄く付き合い辛いのだ。
文句なしの美人には違いないので男性受けは良いのかもしれないが、色恋を抜きにして単純に親しくなろうと試みた際に、あれほど話題に困る女子も居まいと私は思う。そんな姉に志弦さんという親友が居ることは、冗談抜きで奇跡のような幸運なのではなかろうか。
無論、聡明な姉はそんなことは自覚していて、だからこそ自分と同じであることを妹の私に求めたりはしない。
本音を言うならば、むしろ『絶対に私のようにはなるな』と思っていることだろう。
そして、そんな姉に憧れているという美幌ちゃんは、かなりの剛の者に違いない。
「うちのお姉ちゃんが悪いとは言わないけど、ほら、少なくとも頼りがいは全然ないから……」
美幌ちゃんの気まずそうな言葉に、私たちは思わず「ああ……」と声を漏らす。
深い納得である。
美幌ちゃんのお姉さんは有り体に言って子供っぽい人で、妹である美幌ちゃんが頼りにする相手と言うよりは、むしろお姉さんのほうが泣きついてくるほうが多いくらいらしい。
きっと、そんな事情もあって今の美幌ちゃんのやけに落ち着いて大人びた人格が形成されたんだろうな。
「確かに、頼りがいって意味なら遥佳さんは天元突破してそうね」
「ね。どんな相談しても即答で答えが返ってきそうだもん」
だいたいあってる。
ただし、下手な相談をすると解答とセットで怒涛のお小言までついてくる諸刃の剣でもある。
◇◇◇
レポート用の参考文献を探しに大学の付属図書館を訪れた僕は、珍しい姿を認めて足を止めた。
自習スペースのボックスタイプのデスクに向かって、自前のPCを眺めている小柄なシルエットは、もしかして我らが同好会の会長こと日向神乙華先輩ではなかろうか。
たまたま横を通りがかった僕からは、頬杖を付いてしかめっ面の横顔が見える。
ライトブラウンに染めたミディアムヘアーに、大粒の瞳が特徴的な童顔気味の小顔。満面の笑みなど浮かべたらさぞや可愛らしいだろうに、生憎と無表情か仏頂面をしていることのほうが圧倒的に多い人だ。
「…………(ちら)」
なんだか熱心にPCのディスプレイを見ているらしい会長は、どうやら真横で立ち止まった僕に気付いていないようだ。
少し悪いと思いながらも好奇心に負けて、なにをそんなに熱心に、と彼女の頭越しにこっそり覗き見てみる。
「おや」
見えたのは僕にも覚えのあるページだ。
というか、昨夜見た。
会長たちが撮影してきた『同好会PR動画(兼活動報告)』である『六道窮鬼』のレイド動画をアップロードした配信サイトのページだ。
昨夜、同好会のグループラインに動画アップの報告があったので、僕も昨夜のうちに視聴した。
「一晩で随分伸びましたね」
僕がそう言うと、会長はようやくこちらの存在に気付いた様子で、びくりと肩を揺らして振り向いた。
「ん? ああ、白河くんか……」
「どうも」
「のぞき見とは感心しないな」
驚かされたのが悔しいのか、それとも恥ずかしかったのか、ますますしかめっ面になってしまった。
本当にもったいない。
「いやあ声かけましたよ? 熱中してて聞こえてなかったみたいですが」
嘘である。
会長が画面に集中してたのは事実かもしれないが、声など掛けていないし、この静かな図書館内で自分の名前を呼ばれれば、いかに集中していても普通は気付く。
「どうやったら、そんなに流暢に嘘をつけるようになるのかね?」
「意識したことはないですね」
「遺伝子レベルで詐欺師なんだな」
「ひどいな」
会長はしばし僕をジト目で睨んでいたが、ややあって嘆息する。
自慢ではないが僕は女性とのにらめっこで負けたことが人生で一度もないのだ。
この場合の勝敗は『呆れたほうが負け』であるが。
「動画のコメント見てたんですか?」
「ああ」
言って、会長は僕にも見える様に身体を避けて、PCの表示をスクロールして見せる。
「動画が注目を集めるのはよろしいことだ。だが、コメントの質がね……」
僕が昨夜見たときとは比べ物にならないくらい多数のコメントが寄せられているようだ。
うちの同好会の動画がこんなに伸びたのは初の快挙だろう。
このチャンネルはとある理由でもともとそれなりにコンスタントに視聴者が居るのだが、それを抜きにしても今回の伸びはちょっと異常だ。
ともあれ、会長のしかめっ面の理由は動画に付いたコメントの質の悪さらしいが……?
「もしかして、旭君のプレイングがチート扱いされているのが気に入らないんですか?」
大抵は『チート行為じみた神業』的な意味合いの、畏怖と称賛を籠めたコメントなのだが、時たま本気で憤っている感じの真性っぽいコメントも見受けられる。通報した、なんて書いているヤツもいるくらいだ。
あるいは、違反行為をしていると決めつけてかかるような、ただの誹謗中傷も散見される。
まあ、匿名のコメント欄なんてそんなものだろう。
「何故こういう手合いは、自らの貧困な想像力の埒外の事柄に遭遇すると、すぐに犯罪扱いするんだろうね」
「貧困だからでしょう」
「そもそも『Zillion Ray'N』のようなダイレクトリンクのVRゲームで素人がにわか知識のチートツールを使うことがどれほど危険なことか、ほんの少しも理解していないのだろうな!」
「そういう、使いたいけど使えない層の人たちが、嫉妬まじりで猛烈に叩くんだと思いますよ」
言うまでもないが、プレイヤーの神経系と直結しているフルダイブ型のVRゲームで未認可の外部ツールを使用することは本当に危険なので、ゲームメーカーの使用規約でも、『Zillion Ray'N』の運営ガイドラインでも、もっと言えば国家の法律でも固く禁じられている。
そこまでしても、何故かそういうツールは出回っているし、使用者が後を絶たないのも事実なのだが。
「なんにせよ、動画のコメント欄なんかにいちいち反応しててもしょうがないですよ」
「わかってはいるがね」
「それにたぶん、『EF』が一緒に映ってなかったらもっとボロクソに叩かれてたでしょうしね」
今回、どちらかというと称賛側のコメントが多くを占めているのは、偏に、『EF』という巨大クランの幹部である[焔星]と[ガルム]が参戦しているからだ。
特に、[焔星]は旭君と殆ど同じようなプレイングをしているので、旭君をチート扱いすれば自動的に[焔星]もチートを使っていることになってしまう。四大クランの一角として幾多の実績を持つ『EF』の幹部ともあろうプレイヤーが、まさかチートツールなんて使うはずがないというのは大抵のプレイヤーの共通認識だ。
だって、そんなのがバレたら即BANだし。
逆説的に、チートなんか使わなくても可能なプレイングなんだと[焔星]が証明してくれているわけだ。
もっとも、[焔星]がそれを出来るのは彼女が卓越したプレイヤーだからであり、どこの馬の骨とも知れない無名のプレイヤーが同じことを出来るわけなんてないし、ゆえにチートを使っているに違いないのだという論調も存在するのだが。
ついでに言えば、ゲーム内チートではないだろうが、動画を加工しているのではないかと疑う声もあった。
だがそれも、つい今朝のこと、件の『EF』の公式チャンネルが同じ『六道窮鬼』レイドの動画を公開したので、加工ではないことが証明された。
どうやら[ガルム]とパーティーを組んでいたプレイヤーの一人がカメラドローンを飛ばしていたらしい。
「そこも気に入らんのだ」
「はい?」
「結局、『EF』が出てきたから黙るというのは、巨大クランの後ろ盾がある相手には怖くて噛み付けないから、そうでない相手を叩いて悦に浸っているということだろう」
プリプリと怒る会長を見ると、微笑ましい気分になってくる。
なんというか、本当に純な人だ。
そんな、匿名の皮を被った有象無象のためにわざわざ憤ってやる必要などまったくないのに。
世の中には、叩くために叩く人種だっているし、ただの愉快犯だっている。頭の足りない輩なんて掃いて捨てるほど居るし、無知で無神経な輩はそうであるがゆえに自身がそうであることに気付かない。
そもそも、匿名の向こうに居るのが同じ大人とも限らないわけで、バカなことを言っているのは正しくバカな子供かもしれないのだ。
実害がない限りは、何を言われようがただの文字列として処理すればいいのだ。
そこに、感情を籠めるのは無駄なリソースだ。
とはいえ、そんな会長が嫌いでないから僕はここに居るのだけど。
「ちなみに」
「そもそもだな、厳密に言えば――――ん?」
「うん。厳密に言えば叩かれてるのって会長じゃなくて旭君ですよね?」
ほっとくと勝手にヒートアップしていきそうな会長を遮って、核心を突く。
僕の言葉に、会長はスッと瞳を細めた。
わかっていたことだが、結局はそこが一番この人の機嫌を損ねていたのだろうな。
誹謗中傷の対象が自分自身であれば、この人は鼻で笑って終わりにするだろう。自分ではなく、お気に入りの後輩くんが悪しざまに言われているから、こんなにも気に入らないのだろう。
「こう言ってはなんですけど、きっと旭君は僕以上に、まったくもって、微塵も気にしないと思いますよ」
「表面上はそうかもしれないが、思うところがないわけではないだろう。キミとてそうだろう?」
「まあ、少なくとも、ご飯が少しまずくなるくらいには気にするかもしれませんね」
というか、敢えて言わないが、彼の場合は自身が貶されたことそのものよりも、それを見た周囲の人間が気分を害することこそを厭うだろう。
彼のことを想うのであれば会長の憤りは逆効果で、むしろ批判コメントの内容をニヤニヤしながら論ってやるくらいの気安さのほうが、彼の好むところなのではなかろうか。
少し考えて、スマホを取り出す。
アプリを起動して、同好会のグループラインにコメントを投稿する。
『たまには皆で食事でもいかがですか@本日昼食with会長』っと。
通知が届いて自分のスマホを確認した会長が、怪訝な顔で見てくる。
「いきなり人の名前を使って何を言い出すのかね」
「文字通りですが。たまにはいいでしょう?」
「まあ、構わんが……」
会長がこういう奥ゆかしい人(コミュ障)なので僕たちの同好会にはコミュニケーションが不足しがちだ。ゲーム関連の企画とかならともかく、リアルでの会食とかそういうのは、僕が言わなければ基本的に誰も言い出さないのだ。
後輩諸君は会長に気を遣ってなかなか言い出せないだろうから、一応副会長と言うことになっている僕が率先しなくてはいけない。
むろん、僕自身の趣味であることは言うまでもない。
折角一緒のコミュニティに所属しているのだから、もっと皆でわいわいしたいじゃん?
「おっ。流石に佐々木ちゃんは反応速いな」
真っ先に反応があったのは一年生の佐々木ちゃんだった。
イベントごとに敏感に反応する流石の嗅覚である。
返事は当然『行くっス!』とのこと。
佐々木ちゃんが来るならば、仲良しの長谷川ちゃんも来るだろう。
と思っていると案の定、佐々木ちゃんのすぐ後に『参加します』と返信があった。
少し間があって二年生の城戸君から『行きます』と返信があり、直後に噂の旭君から『同じく』と。
「良かったですね。会長」
「うむ。……と言えば満足かね?」
「ええ」
あとの二人、一年生の三崎君と、二年生の小鳥遊さんからは不参加の返信があった。
まあ当日にいきなりの誘いなので、都合がつかないのは仕方がないことだ。
むしろ、六人集まっただけでも御の字か。
「場所は『ミライ亭』でいいですかね?」
「まあ、妥当だろう」
大学の構内にあるレストランだ。
構内に出店している食事処はいくつかあるが、そのなかでは中の上くらいのグレードの場所だ。
「キミが甲斐性を見せてくれるなら、外に食べに出てもいいぞ?」
少しは気が紛れたのか、会長がいたずらっぽくニヤリと笑う。
ようやく笑ってくれたのはいいが、そのセリフはいただけない。
そこは会長こそ年長者の懐の深さを見せるところでしょう、と言おうとしてやめる。
そんなことを言えば最後『では会長の私が6割、副会長のキミは4割で許してやろう』とか言うに違いない。しかも自分が大部分払うのだからと『良いお値段』の食事処に突撃するに違いない。
そうなれば経済力的な意味でダメージがデカいのは圧倒的に僕だ。というか僕が一人で死ぬだけだ。
別に会長の生い立ちとかプライベートとかは全然知らないが、少なくとも金銭にまったく困っていないことくらいは普段の支払いを見ていればわかる。
なんと言うか、金銭感覚が普通に『お嬢さん』なのだ。(お嬢さま、ではないところがミソだ)
ゲーオタのくせに、というべきか、あるいはだからこそゲーオタなのかもしれないが。
僕が降参の意味を込めて両手を上げると、会長はニヒルに笑って、手早く荷物をまとめて席を立つ。
「では、講義があるので失礼するよ」
「ええ。では後程」
歩幅が小さいせいか、足早に歩いていく会長の後ろ姿を見送って、僕もその場を立ち去ろうとすると、不意にスマホが振動した。
見れば、先程のグループラインに新たなコメントがついている。
佐々木ちゃんだ。
『白河先輩の奢りってホントっスか!?』
…………。
え。なにこの子エスパー?
深く考えたら負けな気がして、僕はとりあえず『嘘です』と返信しておくことにした。
あくとにじゅういち。えんど。
本日の顛末。
後輩ちゃん「民主主義によって、一つの残酷な真実が明らかになったっス……!」
戦バカ「くっ……まさかそんなことが」
漬物「見よ!このコメント欄の圧倒的多数の意見を――――旭よ、やはりお前は狂っている!!」
戦バカ「ぐあああああ!?」
会長「楽しそうだな、キミたち……」




