Act1:わたしに、戦いかた教えてくださいっ
だいたいぜんぶ近未来の謎技術のせい
あくといち。
「では兄さま。お先に失礼いたしますね」
そう告げると[さや]は小さく笑んで、少女らしい所作で手を振りながら踵を返した。
「ああ。おやすみ」
俺がそう言葉を返すのと同時に、[さや]の足元から白い光のリングが立ち昇る。幾何学的な文様を組み合わせた光の円環は、[さや]の藤色の着物の裾を緩やかに躍らせながら、足元から頭頂部までを一巡する。その光の中に溶けるように[さや]のアバターが光の粒子となって解け、頭頂部で折り返した円環がもう一度地面に降りる頃には、少女の姿は俺の視界から完全に消えていた。
ログアウトした妹を見送った俺は、苦笑を禁じ得ない。別に棒立ちでもコマンド一つでログアウトできるのに、わざわざ踵を返しつつ優雅に消えるあたり、相変わらずの凝り性である。きっとこれも[さや]に言わせれば大事なロールプレイの一環なのだろう。
「さて……」
独り言ちつつ、俺は無造作に右手を翳す。動作に応じて虚空に展開した半透明のウィンドウを適当にタップしつつ、暫し考える。時刻はまもなく22時になる。中学生の[さや]はそろそろ就寝すると言って落ちたわけだが、俺のほうは今暫く夜更かしをする余裕がある。明日の講義スケジュールを反芻し、フレンドリストに目を通す。見たところ、暇なフレンドが数人ログインしているようだが……。
「この時間から誘うのも迷惑か」
少なくとも、俺なら勘弁してくれと思うことだろう。
となると、ソロでもできる素材収集にでも精を出すのが妥当なところか。
現在地である『始まりの街』はこのゲームを開始したプレイヤーが一番最初に訪れる、所謂チュートリアル的な立ち位置の場所だ。当然、周辺に出現するエネミーのレベルも相応でしかない。最近はレベルの低い[さや]に付き合ってこの街を活動拠点にしているが、俺のレベルからすればここいらのエネミーをどれだけ倒しても、それで得られる経験値は文字通り微々たるものだ。[さや]のレベルもそれなりに上がってきたし、そろそろ上のレベル帯に拠点を移すのも良さそうだ。
ついでに次の狩場でも少し見繕っておくか、と歩を進めかけたその時だった。
「あのっ!」
背後から呼び止められ、機を逃す。
女性らしい、高く澄んだ声音だ。
振り向いた俺の視界に映ったのは、小柄で華奢な少女のアバターだった。見るからに初期装備といった風体で、夕焼けのような赤毛と長くとがった両耳が特徴的だ。後腰の双剣から初期近接クラスの『ストライカー』であることが分かる。耳がとがっているのはアバターの種族を『ハイエルフ』にしたからなのだろうが、魔法に秀でたハイエルフでストライカーとは、なかなか玄人好みの組み合わせだ。
「俺ですか?」
確認の問いかけに、少女は元気に「はいっ!」と頷いた。
このゲームではアバターを操作するインターフェースを思考制御によるダイレクトリンクに一本化している。
アバターの操作は文字通りの『思うが儘』ということだ。
ゆえにリアルと同じ感覚で喋った言葉がそのままログになるし、少女の緊張した面持ちは演技でなければ正直な感情の発露だ。このインターフェースは仮想現実に圧倒的な現実感と没入感をもたらすが、いくつかの弊害も抱えている。
そのうちの一つとして、このゲームのアバターは体型をクリエイトすることができない。スキャニングされたリアルの体型がそのままアバターに反映されるのだ。リーチやウェイトが極端に変わると、リアルと感覚の齟齬が発生し、アバターをうまく操作できなくなるためらしい。言うまでもなく、性別を偽ることもできない。
なにが言いたいかというと、現役中学生の[さや]のアバターはリアル相応に華奢だし、その[さや]と同じくらいに小柄で華奢な目の前の少女の中の人は、おそらく[さや]と同年代くらいの少女だろうと言うことだ。
ちなみに、アバターの顔も基本的にはスキャニングされた自分の顔になるのだが、ゲームキャラ風のデフォルメが自動的に掛けられるので、リアルそのままの顔面にはどうやってもならない。よく、3Dのアニメキャラクターなんかを『イラスト』と『実写』の中間という意味で『2.5次元』などと表現するが、それに倣えばこのゲームのアバターはさしずめ『2.7次元』くらいか。
それから、変更が効かないのはあくまでも体型――つまりは輪郭なので、外見年齢などはある程度調整できるし、見せかけだけの筋肉を盛ったりもできる。リアルデブが細マッチョにはなれないが、太マッチョにはなれる。リアル年増が若者の振りはできるが、発言はタイピングではないので演技力がないとすぐにボロが出る。
身もふたもないが、要約するとそういうことだ。
それはともかく、少女を映した視界に自動的に表示される情報を読み取る。
彼女のプレイヤーネームは[アリア]。知らない名前だ。
「実はわたし、初心者で!」
[アリア]はびしっと元気よく挙手しながら言う。勢い余ったのか、挙手と同時にぴょんこと僅かに飛び上がり、セミロングの頭髪がふわりと揺れた。
[さや]程ではないが、この少女も相当にちっこい。俺の背がうすらデカすぎるだけかもしれないが。
なんとなく、妹の友人を相手にしているような微笑ましい気分になりつつ、とりあえず相槌を打っておく。
「ええ。そのようで」
初心者なのは、失礼ながら見ればわかる。
フレンド登録していないプレイヤーのレベルやステータスは相手から開示されるか、あるいはパーティを組むなどしなければ見られないので、俺は[アリア]の見た目の装備から類推するしかない。
[アリア]が身に纏っているのはパーカーっぽい半袖のコートとショートパンツ、革製のガントレットとショートブーツといった装備で、女性アバターに用意されているいくつかの初期装備の組み合わせだった。
腰の双剣も一番弱い初期装備のそれだ。これでもし武器だけ強力なやつだった場合は、アバターの見た目にこだわっていない攻略ガチ勢の可能性もあるわけだが。
衣服はステータスに関係しない上にわりと高価なので、見た目を気にしなければ初期装備でも基本的には問題ないのだ。まったく逆のパターンで、[さや]のようにアバターの見た目に死ぬほどこだわり抜くプレイヤーももちろん居る。
ちなみに俺は衣服も武器もそれなりにはこだわる。一応、キャラクリガチ勢の[さや]のお眼鏡にかなう程度には見た目も気にするが、武器はその時々に都合のいいヤツを使うだけで、[さや]のように武器のデザインも含めたトータルコーディネートまでする熱意は無い。
「それでですね。今日始めたばっかりなんで、右も左もわかんないですよっ!」
「そんな元気に言われても……」
「それだけは自信がありますのでっ!!」
こてこての初心者らしい[アリア]は、右も左もわからないのだが、元気だけは有り余っているらしい。
彼女は胸の前で両手の人差し指をちょんちょんと突き合わせつつ、微かに上体を揺らし、小首を傾げて上目遣いに俺の表情を窺ってくる。死ぬほどあざとい仕草だが、もしかして素でやっているのだろうか。
だが生憎と、そんなものは[さや]で見慣れているので俺の心は微塵も動揺しない。無論、だからと言って妹相手と同じように小突くわけにもいかない。
俺がリアクションを取りかねていると、何を思ったのか[アリア]はびしっと謎の敬礼を決めた。
「というわけで、わたしはこの有り余る元気の使い道を探してますっ!です!」
「つまり?」
「わたしに、戦いかた教えてくださいっ!!」
◇◇◇
例えば、仲良し四人組が居るとする。
その中の一人はVR(仮想現実)タイプのとあるオンラインゲームが大好きなんだけど、他の三人はそういうゲームをやったことがなかったり、あんまり興味がなかったりする。その子は、趣味のゲームの話をしたくて仕方がないんだけど、興味のない話をしても他の三人を困らせるだけだし、知識量が違うから対等な会話にはならないし、だからその話はするべきじゃないって、ずっと我慢してる。
でもやっぱり、大好きなことの話ができないのはすごいストレスで、それ以上にとても寂しそうなのだ。
つまるところ、仲良しの友達のそんな顔を見たくなくて、わたしはその、とあるオンラインゲームを始めてみようと思ったわけだ。
とは言っても、こういうのって人によって合う合わないが厳然としてあると思うから、わたしもすぐ辞めちゃう可能性もあるわけで。そうなるときっと、あの子をもっとがっかりさせるだけの結果になっちゃうから。だから、最初はこっそりと。もし続けられそうになかったらそのままこっそり辞めても良いように。友達の誰にも告げずにわたし一人だけでやってみようと思うのだ。
「――はまる人が居るのもわかるなぁ、これは」
そんなこんなで、『始まりの街』と呼ばれるマップの一角にわたしの姿があった。
わたしが何気なく空に手を翳そうとすると、いささかのラグもなくアバターがそのように動作する。わたしの視界に映るのは作り物とは到底思えない仮想現実の青空だ。視界の隅に揺れる自分の前髪は赤みがかった橙色の色彩を帯びている。今のわたしはどこにでもいる平凡な女子高生の千瞳真理亜ではなく、どこにでもいる平凡なハイエルフの[アリア]なのだ。
『始まりの街』は海辺の街なので、港が見える遊歩道をてくてくと歩く。今どきのCGは実写とまったく区別がつかないクオリティに至っているけど、その中に自分が入り込めるとなると、また感動もひとしおだろう。まさに異世界、別世界、非日常だ。
ほんとは、とりあえずアバターを作ってゲームを開始してみて、雰囲気だけ感じたら今日のところは切り上げようと考えていたのだけど、思ったよりもずっとこの世界がワクワクするものだから、もっと遊んでみたい気分になってきたのだ。
「でもなぁ……」
剣と魔法と機械のファンタジー風異世界であるこのゲームの醍醐味といえば、なんと言っても仮想の世界そのものを現実さながらに味わうことだ。現実には決して存在しない魔法も幻想も風景も、すべてを現実としか思えないほどの臨場感で味わえる。そのためのダイレクトリンクだ――――というのが公式サイトの謳い文句である。
ただ、この世界を歩くにはそれなりの『力』が必要だ。
街から一歩外に出ればそこはエネミーと呼ばれる敵性存在が闊歩する領域であり、このゲームでは何をするにしてもエネミーの存在が付いて回る。プレイヤーはこのエネミーを討伐して素材や経験値を得ていくので、まずはエネミーと戦えるだけの力がなければ何も始まらないのだ。
というわけで、わたしも折角だからエネミーとの戦闘を経験してみたいわけなのだけれど、その最初の一歩とでも言うべき段階ですでに躓いているのが現状だった。
「初心者さんですよね? もしよければ、色々教えますよ?」
歩くわたしとすれ違いざまにそう声をかけてきたのは、大剣を背負った男性のアバターだった。彼の隣にはもう一人男性が居て、表示されているアイコンから彼ら二人がパーティを組んでいるのがわかる。その辺の基礎知識は、ちゃんとプレイを始める前にネットで予習してきているのだ。
彼らの言葉はわたしにとっては渡りに船の提案だけど……。
「ごめんなさい! 友達と一緒にやる約束をしているので」
咄嗟に口をついて出た嘘に、彼らは苦笑気味に「そうですか。了解です」と言うと、また連れ立って歩いて行った。その後ろ姿をなんとはなしに見送って、わたしは小さくため息をついた。
多少の予習をしたときに知ったのだけど、このゲームはどうやら戦闘の難度が結構高めらしい。というのも、これまでこの系統のゲームではアバターの操作方法はコントローラーやキーボードを使ったコマンドドライブ方式一択か、あるいは思考制御のダイレクトリンクとコマンドドライブの並列方式が一般的だったらしい。しかもその場合はコマンドドライブが主で、ダイレクトリンクはあくまでサブ的な立ち位置だ。
対して、このゲームはダイレクトリンク一択である。
コマンドドライブが主だったこれまでのゲームでは、極論、強敵と戦うのに必要な素養は手先の器用さと反射神経、あとは動体視力くらいのものだった。いかに視界がVRでも、アバターを操作するのはあくまでもコントローラーだったから。
ところがこのゲームでは、リアルと同じ感覚でアバターを動かすことができる。というかそう動かすことしかできないわけで、要はリアルでエネミーと戦えるくらいに身体を動かし慣れていないと立ち回れない。
もちろん、このアバターはリアルの肉体とは比較にならないほど俊敏で頑強だし、慣性や物理法則もスキル次第でいくらでも捻じ曲げられるゲームならではの救済点もあるのだけれど、基本的にダイレクトリンクでモノを言うのはハードウェアではなくソフトウェア。リアルの経験によって脳内に培われた動作モデルに他ならないので、普段まったく運動をしない引きこもりゲーマーにはちょっと厳しい世界だ。
「なんて、ぜんぶネットの受け売りですけどねー……」
ちなみに、わたしの運動神経は可もなく不可もなく。
普段の運動と言えばテニスくらいだ。
ネットで見つけた初心者用のページに共通して綴られていたのは、とにかく初心者がソロで戦闘を行うのは無謀すぎるので、まずは経験者とパーティを組んだほうが良いという助言だった。リアルの感覚とアバターがダイレクトにリンクしているというのは、この仮想現実を圧倒的なリアリティで感受できるということだ。それは他のゲームにはない、このゲームの魅力なわけだけど、同時に敷居を高くする要因でもある。
だって、エネミーに襲われれば、その恐怖も圧倒的リアリティを伴ってやってくるのだ。
流石に痛覚までは再現されておらず、攻撃を受けた部位には強い痺れ等が発生するだけらしいけど、それでも等身大のアバターでエネミーとかいう化け物とリアルな戦闘を強いられるのは、もしかしなくてもかなりの度胸が必要なのだろう。
「ねえ君、もしかして初心者?――――」
声を掛けてきた男性アバターを、わたしは先ほどとまったく同じ文言であしらう。
もう一つ、ダイレクトリンクを採用した弊害として、このゲームのアバターにはリアルの体型と性別が問答無用で適用される。このゲームにネカマは存在しない(オカマは存在する)。つまり先ほどから声を掛けてきていた男性アバターの中の人は体格から見て間違いなく成人かそれに近い男性なわけで、逆に彼らから見れば私は若い(というか幼い)女性であるということがバレバレなわけだ。
だから声を掛けてきたのかと思ってしまうと、ついつい身構えてしまう。
「だいたいですね、自分から『手伝ってあげましょうか~?』なんて言ってくる輩に下心がないはずがないんですっ」
だって向こうからしたら、見ず知らずの初心者を手伝ったところでなんの得にもならないし。
きっと彼らの申し出に乗ったが最後、手取り足取り無駄にスキンシップ多めで粘着質にコーチしてくれた上に、もっと色々教えてあげるよとか言ってリアルの連絡先を無理やり聞き出された挙句、オフ会という名の不純異性交遊に発展するに決まっているのだ。そうに違いない。
ネットの初心者向けページに「そういう輩も居るから注意!」って書いてあったもん!
まあ。十中八九そんなのはわたしの自意識過剰な被害妄想で、彼らは下心が多少あったとしても大抵は善意で手助けをしてくれようとしているだけなのだろうとはわかっているけれども。
わたし以外の女性プレイヤーも当然周囲には居るのだけど、大抵は既にパーティを組んでいたり、どこか目的地に向かって足早に移動していたり、そもそも中身が居なくて『離席中』のアイコンが表示されていたりして、なかなか声を掛けられる相手が見つからないのだ。
「やっぱり出直して、素直にカナに手伝ってもらおうかな?」
このゲームをすぐにやめちゃうかも――とかいう心配は正直すでにどっかに吹っ飛んでしまっているので、ここは素直に友達にゲームを始めたことを打ち明けて色々教えてもらうべきな気がしてきた。
時刻はもうすぐ22時を回るところだ。明日も学校だし、そろそろ寝る準備をしようかなと立ち止まる。
景色を見ながら歩いているうちに、どうやら『始まりの街』の通用門広場まで来ていたみたいだ。平日のこの時間だというのに、広場はフィールドから帰ってきたプレイヤー、今からエネミーの討伐に出かけるらしいプレイヤー、フレンド同士で集まって雑談に興じるプレイヤー等でごった返していた。そのすみっこに立ったわたしは、ログアウトのためにウィンドウを開こうとして、何気なく視線を向けた先に、あるものを見つけた。
「……女の子だ!」
ごった返すプレイヤーたちの雑踏の中に、向き合って会話する男女のアバターの姿があった。わたしが思わず呟いたのは、その二人のうちの女性のほうのアバターが中学生くらいの女の子に見えたからだ。
話相手の男性のほうがかなり長身なので、相対的に小さく見えるだけかもしれないけど、女の子のほう、もしかするとわたしよりも背が低いのではなかろうか。自慢にはならないけれど、わたしはかなりのチビだ。制服を着ていなければまず高校生とは思われないくらいには背が低い。少なくとも同い年で自分より背が低い女子を見たことがない。
ログアウトしようとしていたことなどさっぱり忘れて、思わずその女の子をじっくり観察してしまう。
女の子の衣装は学校の制服と武芸者風の和服を足して割ったような感じで、一言で表現するなら『和風ファンタジー』といったところだろうか。ほっそりとした華奢な手足を覆う軽装の小具足は和風をSF風にリデザインしたような、いかにもフィクションっぽい意匠。髪色を自由に設定できるがゆえに逆に珍しい濡れ羽色の長髪は、きれいなポニーテールに結い上げられて、艶やかな黒の中に金の簪がひと際輝きを放っていた。藤色の着物に映える淡く黄色い花弁の染め抜きが実に雅で、プリーツスカートの裾から覗く白いふとももが眩しい。
「すごいなぁ。あんな格好もできるんですねー」
ため息交じりに呟き、わたしは自分のアバターを見下ろした。
初期装備として選択した、なんの色気もないコスチューム。ショートパンツの裾からふとももが見えてはいるが、それだけだ。それ以外の『魅せる』パーツが圧倒的に足りていない。初期装備ゆえの無個性で没個性だ。
「そっか。あーゆー楽しみ方もあるんだ」
ここに来るまでにそれなりの数のプレイヤーのアバターを目にしてきたけれど、あの女の子のコーデはその中でも一番完成度が高い。
きっと並々ならぬこだわりがあるのだろう。
彼女は華奢な体躯には反則的なまでに不釣り合いな巨大な太刀を背負っており、そのギャップがまた魅力的だ。驚くべきことに太刀の配色まで藤色メインで、鞘の随所に施された金細工もやはりというか花弁の意匠という凝りようだった。
「折角だし、声かけてみよっと!」
すっかりその女の子が気になってしまい、声を掛けてみようと足を踏み出す。
周囲のプレイヤーの名前は視界に勝手に表示されるのだけど、そのためにはある程度まで距離を近付ける必要がある。プレイヤーネームが見える範囲というのは、イコールで会話が聞こえる距離と言い換えても相違ない。
こういうオンラインゲームの用語についてはまだまだ不勉強なのだけど、このゲームではプレイヤーが喋った事柄は、特に対象を指定をしなければ周囲の全プレイヤーに聞こえる『オープンチャット』になるらしい。もちろん、リアルと同じく声が聞こえる範囲には限りがあって、その指標となるのがプレイヤーネームが表示される範囲、ということだ。
雑踏を縫って少し近付くと、彼らの名前が確認できた。
女の子のほうが[さや]ちゃん。長身の男性のほうは[エッジ]さんというらしい。
近付いたので、自然と彼らの会話が聞こえてくる。
「――――兄さま。本日のさやはいかがでしたか?」
可愛らしく小首を傾げて[さや]ちゃんが問いかける。
兄さま、なんて言葉を使う人を初めて見た。なんか無意味に感動してしまう。彼らは兄妹なのだろうか。それともそういう『設定』で遊んでいるのかもしれない。
[さや]ちゃんの問いかけに、兄さまこと[エッジ]さんが答える。
「そうだな……だいぶサマになってきたと思うぞ」
「まことですかっ!?」
「少なくとも、その背中の太刀が見掛け倒しにならない程度にはな」
位置取りの関係で、わたしからは[エッジ]さんの背中しか見えないが、なにやら親密な雰囲気だ。
「戦闘中にテンパる回数も少なくなってきたことだし」
「ふふん。そうでしょうそうでしょう!」
あ。ドヤ顔かわいい。
「本日の戦闘は、手前味噌ながらかなり上手にできたと――」
「テンパった時の『お兄ちゃぁん』も今日は一回しか聞けなかったしな」
「ふぐっ! ~~っもぉぅ! お兄ちゃんはすぐそういうこと言うっ! いぢわるですっ!!」
ぷっくぅ~、と可愛らしく頬を膨らませて憤慨する[さや]ちゃんの頭をぽんぽんと撫でながら、[エッジ]さんは笑いを含んで「すまんすまん」と謝っている。
あ、ほんとに兄妹なんだ、とその仲睦まじい光景にわたしは独り言ちた。あと[さや]ちゃんの『兄さま』発言はいわゆるロールプレイというやつらしい。というかあの口調の頑張って背伸びしてる感じがすごい可愛いんだけど。
妹居ないけど妹萌えに目覚めそうだ。
あんまり仲睦まじい様子に割って入るのも気が引けるので、わたしは足を止めて彼らの会話が一段落するのを待つことにした。どうやら、お兄さんの[エッジ]さんが妹の[さや]ちゃんに戦闘の手解きをしてあげていたようだ。ということは、見た目の女子力には雲泥の差はあれど、わたしと[さや]ちゃんは少なくとも戦闘に関しては同レベルの立場であると思われる。教えを乞う立場、という意味で。
すわ初心者仲間か!
これはどう考えてもお近づきになりたい!と決意を新たにするわたしをあざ笑うように、
「では兄さま。お先に失礼いたしますね」
会話が一段落したらしい[さや]ちゃんはそう言い残し、可憐に手を振ってあっさりとログアウトしてしまった。
「あ……」
後に残されたのは出遅れた間抜けなわたしである。中途半端に伸ばした腕が虚しい。
俯いて頭を抱えるも後の祭りだった。
けどまあ、幸いプレイヤーネームはしっかり覚えたし、あれだけ特徴的な見た目の女の子なので、もう一度会おうと思えば難しくはない、と思う、たぶん。今日のところは縁がなかったと思って、わたしもおとなしくログアウトするか……とそこで気づく。
これってまさに初心者サイトに書かれていた「やばいやつ(粘着)」の思考回路じゃね?
「いや。女の子同士だからセーフですよね」
気になるあの子とお友達になりたいと思うのは、ピュアな感情のはずだ。危ない危ない、と流れてもいない汗を拭う仕草をして、顔を上げたわたしの視線の先には長身の黒い背中。
言うまでもなく、兄さまこと[エッジ]さんだ。
ログアウトする妹を見送った彼は、しかしまだゲームを続ける様子だった。
「こ、これは……もしかしてチャンスなのでは!」
小声で呟き、逡巡するわたし。
正直、赤の他人でかつ年上っぽい男性という点では[エッジ]さんと、先ほど声を掛けてきた男性プレイヤーたちに何ら違いはない。だけどこの目で見た[さや]ちゃんとの兄妹仲睦まじい様子がわたしの警戒ゲージを大きく下げていた。
結局[さや]ちゃんに話しかけれなかったという一瞬前の苦い経験が、さらにわたしを急き立てた。
そうやって、無い頭で無駄に考えたりするから失敗するんだぞ。と弱気のわたしを叱咤する。
「ええい! 女は度胸!っです!!」
ぱんと自ら頬を張り、わたしは足を踏み出した。
歩き去ろうとする背中を、精いっぱいの勇気で呼び止める。
「――――わたしに、戦いかた教えてくださいっ!!」
あくといち。えんど。
本日の蛇足。
ア「戦いかた教えてくださいっ!!」
エ「よかろう」
ア「即答っ!?」
2020/6/28 自由度を修正