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黒猫と画家

作者: エバンス

黒猫と画家


 雪が降り積り、汚れた町を更に汚く見せていた。レンガで造られた小さな家が並んだだけの小さな町だ。港町であり、ここに住む人達は取れた魚を売ることで生活していた。近くの森で採取できる珍しい果物や、木の実は市場に並ぶ事もあったが、主に貿易用だった。

 日が暮れ、市場の人々は店じまいを始めていた。俺はその間を縫う様にして歩いた。ふと、何となく、空を見上げてみた。今夜の月はいつもより、無愛想だったが、中々、悪くなかった。少なくとも、俺はこっちの方が好きだった。

 夜になると、急に冷えてきた。降り積った雪が生き生きとしているように見えた。その身を震わし、空気中に冷気を放っているのだ。俺は家までの道のりを急いだ。俺の家は町から外れた所にあった。

 俺が歩いていると、数人の子供が近づいてきた。俺は舌打ちをした。俺は子供は嫌いだし、子供も俺を嫌いだ。まあ、俺は基本的に人間は嫌いだが。

 「あれ、あそこにいるの黒猫じゃね。」

 「うん、そうだよ、そう。」

 「石、ぶつけてやろうぜ。」

 「ほらよ。」

 何個かの石が降ってきて、俺の体に当たった。たいして痛くは無いが、腹は立つ。黒猫だからといってむやみに攻撃するのは辞めて欲しい。まあ、仲良くされるよりは、よっぽどましだが。

 俺の家は、今はもう使われていない漁港だ。魚の匂いが染み付いており、落ち着く。その分、腹も減るんだが。今日は港に落ちていた小魚しか食べていない。飼い猫とは違い、野良猫は自分で餌を見つけるしかない。その中でも黒猫は忌み嫌われているので、普通、人からは餌をもらえない。俺はグー、グー、鳴る腹を肉球で押さえながら、眠った。網に絡まると、中々暖かい。その夜は色取り取りの魚とダンスする夢を見た。

 翌朝、船のエンジン音で目が覚めた。俺は寝起きが悪い。しばらくの間、毛繕いをして、頭が芯から目覚めるのを待った。俺は急いで港まで走り抜けた。港は魚でいっぱいだった。アジ、サンマ、マグロ、タイ、色々な魚がいた。俺はよだれが零れ落ちそうになるのを、防ぎながら、魚をかっさらうチャンスを待っていた。

 「あ、あれ、黒猫でねーか。また、来やがったな。」なじみのあるガラガラ大声。俺はゆっくりと振り向いた。そこには全身毛むくじゃらの大男が立っていた。この男はこの港の漁労長であり、荒くれ者の漁師を腕一本でまとめあげている。そして、俺の天敵。

 「ほら、出て行きやがれ。」漁労長が黒猫にバケツ一杯の水をぶっかけた。

 「勘弁してくれよ、親父。」と俺は鳴いて見せたが、分かるはずが無い。

 「俺は昔、ネコに噛まれてから、ネコは大きれえなんだ。」と親父は叫んだ。

 「もう、何回も聞いたよ。」と俺は言った。人間には分からないと知りつつ、つい言ってしまう。

 「おら、皆、黒猫がいるだ。来てくれえ。」親父が情けない声を出す。

 「またか、ほんと、おやっさんはネコ嫌いだな。」

 「そうそう、毎朝これだ。」

 またか、という風な顔をして漁師たちが集まってきた。やばいな、と俺は思った。これだけ周りに人がいれば、魚を奪うなんて無理だ。俺は、魚の匂いに後ろ髪を引かれながら、漁師の足元を抜けて行った。

 腹が限界に近づきつつあった。足が雪に取られ、歩きづらかった。市場からは良い匂いがした。町の人々が市場にある食堂で朝食を取っているのだ。

 この町で一番小さな、でも新鮮な魚を食わせてくれる大衆食堂の前に人だかりだ出来ていた。その人だかりの中心から、空に向かって真っ直ぐ煙が伸びていた。まるで、俺の体みたいに真っ黒な煙が。

 俺は野次馬根性を丸出しにして、その人だかりに近づいて行った。いや、野次猫根性と言った方が良いのだろうか。いや、人間に対しても使えるのだから、猫にも適用できるだろう。

 そんなくだらない事を考えながら、歩いていると、人だかりに着いた。俺は人々の足元をくぐり抜けて円の中心に出た。

 そこでは一人の男が七輪でサンマを焼いていた。いつもなら、サンマの焼ける匂いに骨抜きにされてしまう俺だが、今回は違った。俺の目についたのはサンマを焼いている男の姿だった。

 ぼうぼうに伸ばしたくしゃくしゃの髪。昔は白衣だっただろう服は今はもう汚れてしまっていて、何衣か分からなくなってしまっていた。全体的に痩せていて、何だか大男二人に雑巾みたいに絞られて後のような男だった。

 男の顔は今まで見かけた事は無かった。この町の人々は、いや、この町全体は新参者を嫌う。だから、こうやって遠巻きに観察しているのだろう。この男はこの町にとって必要な人物なのかどうかを。

 「なんだい、あの男は。」

 「さあ、見た事無いな。」

 「なんか、汚らしい格好しとるね。」

 「ホームレスって奴ちゃうか。」

 「いや、でも、飯食っとるがな。」

 「そりゃそうやけど。」

 そんな会話が人々の間でなされていた。要するにこの男が何者なのかは、誰も分かっていないのだ。

 「おう、そこの黒猫。」

 女のような甘ったるく、優しい声。振り向くと白衣の男が、俺に向かって手を伸ばしていた。

 「うわっ。」俺は驚いて男の指に噛み付いてしまった。

 「悪いな、でもいきなり手を出すお前も悪いぞ。」という思いを込めて、男を睨み飛ばしたのだが、男は何を勘違いしたのか

 「何や、そんなおびえる必要ないやろ。一緒に飯食おう、って思っただけやのに。どうや、サンマ好きやろ。」と言い、サンマを一尾、俺にくれた。

 いつもの俺なら、人間にもらった魚なんて、後ろ足で蹴飛ばしてやるところだが、今の俺はそうするには、いささか弱りきっていた。で、どうしたかと言うと。必死にサンマにかぶりついていた。

 そんな俺を見て、男は嬉しそうに目を細めた。そうすると、細い男の目が更に細くなってしまい、面白かった。

 「そうか、お前を腹減ってたんやな。俺もや。今朝、初めて絵が売れてな。それでやっとサンマが二尾買えたんや。」と男は俺に話しかけた。男は人間の言葉が猫に通じると分かっているのだろうか。まるで人間相手に話しかけるように、喋りかけてくれた。

 男の正体が画家と分かったからだろうか、それとも、男と猫が一緒に食事しているという状況に呆れたのか、人だかりは散っていった。

 俺はサンマを食べ尽くしてしまった。顔の油まで、舐めきってしまった。俺は感謝の気持ちを伝えるために

 「ありがとよ。」と言った。男の耳にはみゃあ、としか聞こえなかったはずだが。

 「礼なんかいらねえよ。」と男は言った。

 久しぶりに会った良い人間だな。でも、もう二度と会う事はないだろう。

 俺は自分の家に引き返そうとしたが、いきなり、むんず、と体を掴まれた。驚いて、後ろを向くと男が満面の笑みで俺を抱き締めていた。

 「よし、お前、俺の家に来い。今日からお前は俺の家族だ。」男は自分勝手な発言をしたかと思うと、俺の家とは逆方向に歩き出した。

 俺はこれ以上にないぐらい、暴れたが、所詮猫だ。人間の力には適わない。俺はいずれ、力を使い果たし、ぐったりとしてしまった。俺としたことが、何てざまだ。男はそんな俺の様子を見ると、俺をゆっくりと撫でてくれた。

 初めての感触だった。始めは気持ち悪かったが、だんだんと慣れてきた。中々気持ち良いじゃないか。人間も捨てたもんじゃないな。

 俺はおそらく、生まれて初めて、人間の暖かさというものに触れていた。


 「オッケー、そのまま、動かないでくれよ。『聖なる夜』ちゃん。」画家はいつもの甘ったるい声で言った。

 俺は何だか、その声にむずがゆくなって、木箱の上から飛び降りた。

 「何やってんだよ。「聖なる夜」ちゃん。」

 『聖なる夜』とは俺の名前らしい。猫の名前っぽくないが、タマとかよりはマシだ。英語にすると『ホーリーナイト』。中々かっこいいじゃないか。

 俺は画家の膝に飛び乗り、今まで画家が書いていた絵を眺めた。油絵と言う奴だろうか、きつい匂いが俺の鼻をつん、とくすぐる。魚の匂いほどではないが、俺は中々気に入っている。

 俺は人間の描く絵というのを、それほど見た事は無いが。それでも画家の絵が特殊だという事は分かる。真っ白な生地に真っ黒な俺が描かれている。でも、全体がぼんやりとしていて、俺の輪郭はほとんど見えない。ただ、真っ白な生地に黒い墨を垂れ流しただけのようにも見える。これが「アート」というものなのだろうか。俺には人間の考える事は分からない。

 俺は画家の肩に上り、家の中から外を眺めた。町を覆い尽くすように降った雪は、嘘みたいにその姿を消し、代わりに春の日差しの力を借り、色々な花や草が顔をのぞかしていた。俺は春というものが好きではない。町全体が明るくなったような気がして、俺の黒色の毛が目立つからだ。それも悪い意味で。

 画家の住んでいる家はぼろぼろだった。今はまだ良いが、俺を連れてきた頃、つまり三ヵ月ほど前は地獄だった。二人で抱き合うようにして眠ったものだ。画家は俺を毛布代わりに連れてきたんじゃないかと思うほどだった。その時に気付いたのだが、人間というものは網より暖かい。

 「さあ、昼飯でも買いに行くか。」と画家は言った。画家の家には冷蔵庫と言うものが無い。だから食料を保存できない。だから毎回買いにいかなければならない。だから俺は毎回、散歩に行ける。

 市場は春である事もあり、新鮮な魚以外にも、この地域特有の野菜や木の実なども並んでいた。俺は魚にしか興味はないが、画家は違うらしい。店のおばさんを捕まえて、あれこれと質問している。そんなに他の地方から来た者にとっては珍しいんだろうか。

 中々どうして、画家は意外に愛想が良い。自らを芸術家と言い威張る事も無いし、喋りにくい事も無い。初めは警戒していた街の人々も画家に触れる度に心を許していった。

 今も画家はおばさんに向かって何か交渉をしている。

 「ねえ、お姉さん、似顔絵を書くからさ。この果物安くてしてくんない?」

 「まあ、お姉さんだなんて、参っちゃうわ。じゃあ、美人に頼むよ。」

 「じゃあ、そのままで充分やな。」

 「また上手い事言って。」おばさんの方は満更でもない感じだ。

 画家は鉛筆を取り出し、メモ帳のようなものに描き始めた。画家がたまに、人に売る為に書く人物画や風景画は驚くほど上手い。

 「まるで写真のようだべ。」と生まれて初めて似顔絵を書いてもらった、漁労長も興奮していた。

 なのに、俺を描いた絵はへんてこだ。抽象画というやつなのだろうか。画家のやつに聞いても、(耳元でにゃあ、と鳴くだけだが)

 「これで良いんやって。」としか言わない。

 俺は釈然としない思いを抱えながら、帰路につく画家に着いて行った。

 画家は家に着くと、俺に魚を投げて寄越した。市場で一番安いサンマだ。俺はそれをジャンプして前足でキャッチした。

 「よお、相棒、それは俺が買ったやつやからな。大事に食えよ。」と画家は言った。

 俺はサンマを頭からかぶり付きながら、ふと疑問に思った。自分の飯は交渉してもらってるくせに、俺の飯はちゃんと買ってくれるのか。それっておかしくないか。

 画家は先ほど買った果物をじっと見つめていた。リンゴとメロンが合わさったような味で、深い紫色をしている。光沢のある表面に映る画家の顔はどこか寂しそうだった。画家はがぶっと音を立てて果物を食べた。

 「うん、美味いな、これ。色見た時はげえって思ったけどな。」

 ならなんでそれを買ったのだ、と突っ込みたかったが、俺はその理由を知っていた。その果物が一番安いからだ。

 「さあて、続き行こうぜ、相棒。」画家は言ったが、すぐに咳き込んでしまった。

 いつもなら、画家の高さに合わせてある木箱に飛び乗るところだが、今はしなかった。

 「今日はもう、休んだ方が良い。」と伝えたかった。

 「もう、俺を描くのはやめて、普通の絵を描いてくれよ。」とも。

 俺は、自分が人間の言葉を使えない事を今ほど悔しく思ったことはなかった。魚を盗んだという濡れ衣を被せられた時も、意味無く石を投げつけられた時もだ。俺がお前の相棒ならそれぐらい分かってくれよ、なあ。

 俺の思いが伝わったのか、画家は俺の鼻先に触れながら

 「大丈夫さ、相棒。今日は調子が良いんだ。」と言った。そんな風に言われたなら、俺は逆らえない。しぶしぶ木箱に上がってしまった。

 春の夜は冷たい。昼間の暖かい光が昼の顔だとすれば、夜の顔は確実に、ボロ小屋に住む病気がちの男の体力を奪っていく。それにつれて男の咳の回数も増え、激しくなってきた。

 俺は画家の足元に寄り、体を摺り寄せた。前にこうやったら、咳が収まった事がある。俺は受けた恩は忘れないタイプの猫なのだ。出来る事はやってやりたい。

 「ありがとな。」画家がいつものように、目を細めて言った。そして俺の首の下ををごろごろと撫でながら画家は続けた。

 「俺はお前と一緒なんだ。」と画家は言った。

 「どういう事だ?」という風に俺は首を傾げて見せた。

 「町中の『忌み嫌われもの』って言ったらお前は怒るかな。」

 「いや、怒らないよ、その通りだからな。」

 「俺は昔、この町に来る前だな、もっと大きい町に住んでたんだ。全体的に白が基調の町でさ、城みたいな建物が一杯あったな。」

 俺の目には城の最上階に優雅に座り、王女の人物画を描く画家の姿が浮かんだ。でも、そのイメージはぴったりなくせに、どこか滑稽だった。

 「芸術家を気取って威張ってた。大した絵も書けないくせにさ、人物画とか風景画なんて『アート』じゃない、なんて言ってさ。全然書かなかった。で、嫌われました。」画家は自分をあざけ笑うように言った。画家がそんな風に笑うなんてとても珍しかった。

 俺は黙って画家の話を聞いていた。まあ、喋ろうと思っても喋れないが。

 「で、逃げてきた。この町に。嫌われるのが嫌だったんだ。」画家はそう言ってから、ふうっと勢い良く息を吐いて

 「俺の過去話は終了。まあ、猫に言ってもわかんないか。」と言った。でも俺はその言葉が嘘だという事が分かった。画家は俺に伝えたかったんだ、俺の相棒として。そして俺も聞き遂げた、画家の相棒として。

 「さあて、もういっちょ行くか。」画家が叫ぶようにして言った。

 「やめろよ、相棒。」と俺は言った。俺の言葉は確かに画家に届いたはずだった。その証拠に画家は無理やり俺を掴んで、木箱の上に置いた。

 「お前を描いてるとな、昔の俺を見つめている気になれるんだ。あの頃の俺の馬鹿さ加減が分かるんだよ。」画家は俺の目を見つめながら言った。そして

 「ごめんな、ありがとう。」と言った。

 もし、俺に涙を流す器官があるとすれば、間違い無く大粒の涙をぼろぼろとこぼしていただろう。画家は、この男は、この人間は俺を対等な存在として扱ってくれてるんだ。

 相棒、違うよ。謝るのも礼を言うのも、俺のほうだ。

 「ごめんな、ありがとよ。」


 俺は画家と二度目の冬を越そうとしていた。でも画家の病状は、太陽が沈み月の光が地表を照らすかのように、だんだんと悪くなっていった。時には筆さえ握れない日もあ

った。でも画家は俺を描きつづけた。自分と向き合いつづけたんだ。

 ある冬の日。まるで何かを慰めるような優しい雪が降っていた。でも、その雪は降り積ると、優しい表情を裏返し、厳しい冷気を放っていた。まるで魂の抜けたような気のない風が吹いていた。いつもは元気な町の人も家に閉じこもりがちだった。

 画家は何かを振り絞り様にして、キャンパスに向かっていた。

 「さあ、はじめようか、相棒。」画家の甘ったるい声にかすれた声が混じっていた。俺が定位置に座り、画家が筆を握った時だった。

 ガタという音がして画家が倒れた。描きかけの俺の絵が地面に叩きつけらる。俺は画家の傍によって体をなすりつける。

 「ゴホ、ゲホ。」画家が苦しそうに、体をよじらせる。

 俺の体に生暖かいものがかかる。床に赤い斑点が広がる。

 瞬間、俺の頭が真っ白になる。何故か画家が良く食べていた果物の深い紫色が頭に浮かぶ。

 「すまん、相棒、人を・・・・・・・」と画家が言う。いつもなら「大丈夫、大丈夫。寝てりゃ治る。」と言っていたのに。

 俺は人を呼ぶために家を出る。誰でも良いから、人を連れてこなくては。道の向こうから漁労長が歩いてくる。のん気に鼻歌なんかを歌っている。そんな場合しゃないんだ。

 俺は漁労長の足に噛みついた。

 「いてえ、何するだ、この黒猫。」と言い、俺は蹴飛ばされる。最近大した物を食ってなくて体重が軽いからだろうか、俺の体は面白いように吹っ飛ぶ。

 「そんな場合じゃないんだよ、親父。」俺は泣き叫ぶ。

 「最近おとなしいと思ったら、この野郎が。」漁労長は俺を踏み潰すためだろうか、俺に近づいてきて、足を振り上げる。

 でも、その足が俺に当たる直前で止まる。

 「おめえ、ケガしてんのか?」漁労長の足には血がべったりとついている。

 「違う、俺じゃないんだって。」俺は必死に訴える。声で、身振りで、表情で。俺の全てを使って。

 「相棒がやばいんだ、すぐに来てくれよ。」俺は画家の家まで走る。少し遅れてから、漁労長が追いかけてくる足音がする。俺は後ろを振り返らずに走り抜ける。

 画家は倒れた時と同じ格好で倒れている。ただ違うのが血の量だ。画家は誰かに刺されて倒れてるんじゃないのか、という錯覚に襲われる。それほどの血の量だ。陳腐な表現だが、血の海という言葉が頭をこだまする。

 漁労長が事の大変さに気付いたのか、画家に駆け寄る。床に広がる血を見たのか、漁労長は家を出ようとした。

 「おい、どこ行くんだよ、親父。」俺は漁労長の前に立ちはだかる。勝ち目は無いが、行かせるわけにはいかない。

 「どけ、黒猫、俺は医者を呼びに行くんだ、安心しろ、あいつは助ける。」と漁労長は画家に目を向けながら言う。

 「俺もあいつに絵、描いてもらってんだ。他の奴らもだ。」と漁労長は言うと、町に駆け出す。

 漁労長が行ってしまうと、一気に静寂が訪れた気がした。この家の中には、いつものように俺と画家がいた。俺は画家の方にゆっくりと歩いて行った。そして耳元にゆっうりと囁いた。

 「なあ、相棒。あんたが描いた、似顔絵は無駄なんかじゃ無かったよ。だから死ぬなよ。あんたが死んだら俺はまた一人だ。」


 いつから眠っていたのだろうか、起きるともう夜だった。体をおこすと、蹴られたせいだろうか、体があちこちと痛んだ。

 あれからは大変だった。まず医者が来て画家の体を調べていった。そして第一発見者である漁労長の話を聞いていた。

 「いつから吐血の症状がありましたか?」

 「じゃあ咳の症状は?」

 「ご家族はいないんですか?」

 「患者の住所が分かる方は?」

 「身内の方でも良いんで、いらっしゃらないんですか?」

 医者の質問に満足に答えられる人は、誰一人としていなかった。でも、皆、画家の事を心配していた。その証拠にたくさんの人が見舞いに来てくれ、果物やお菓子を持ってきてくれた。わざわざ俺を見つけて、魚をくれる人もいた。

 俺は自分の事のように嬉しかった。

 「なあ、相棒、あんたはもう忌み嫌われてなんてないよ。」管に巻かれている画家に俺は話しかけた。でもその声はもう画家には届いていないようだった。いつでも、俺の話を聞いてくれていたのに。

 油絵をしていることもあって、画家の顔はいつも汚れていた。まあただ単に顔を洗っていなかったこともあるだろうが。たまに画家が顔を洗う時は、水が苦手な俺も顔を洗ったものだ。何気ない日常を、過去の楽しかった日々として捉えている自分に驚いた。

 俺は画家の体にちょこんと座り、顔を舐めた。別れをいとおしむように。出会った事を感謝するように。過ごした日々を懐かしむように。

 うぅと画家がうめいた。意識が戻ったらしい。俺の姿が目に入ると、いつものように目を細めて笑った。

 「おい、相棒、大丈夫かよ。」と俺は言った。

 「どうしたんだ、相棒、ケガしてんじゃないか。」と画家は言って、優しく体を撫でてくれた。

 「何言ってんだよ、あんたの方が重病じゃないか。」

 画家は少し迷ってから、口を開いた。

 「なあ、相棒。走ってこいつを届けてくれないか。」画家はくしゃくしゃの白衣から、手紙を取り出した。

 「俺はさ、恋人を置いてきたんだ。恋人にも嫌われるのが怖かったんだ。でも、こんなんになっちまって、思い浮かぶのはあいつの顔なんだよ。」画家の目からは涙が流れていた。

 俺はその涙を舐めてあげた。画家の涙なんて見たくなかった。

 「任しとけよ、相棒。俺が届けてやるからさ。」俺は画家の手紙を口にくわえた。

 「やってくれるのか。」

 「もちろんじゃないか、俺はあんたの相棒だからな。」

 画家は俺に、恋人の家までの道のりをゆっくりと、詳しく教えてくれた。時々咳き込みながらも、一生懸命に。

 「じゃあ、いってくるよ、相棒。手紙は確かに受け取ったぜ。」俺も画家もこれが最後だという事は分かっていた。でも、そんな素振りは俺も画家も絶対見せたくなかったはずだ。

 画家は俺の耳元に甘ったるい声で言った。それは何かを刷り込むような言い方だった。それは自分自身にも言っているように聞こえた。

 「お前の名前は『聖なる夜、ホーリーナイト』だ。行って来い。」

 俺は後ろを振り返らずに飛び出した。

 一歩踏み出すたびに、体がぎしぎしと痛んだ。でも、俺は速度を緩めなかった。闇にとけ込むように走った。

 「あれ、黒猫じゃねーの。」

 「あー、ホントだ。」

 「なあ、知ってる。黒猫って死に神の使者らしいよ。」

 「使者って何だよ。」

 「死に神に飼われてるって事だろ。」

 「じゃあ、退治しなきゃ。」

 「そうだな、」

 俺は舌打ちをした。俺は子供が嫌いだし、子供は俺が嫌いだ。でも、俺は人間は嫌いではない。

 石がいくつも体に当たった。今の俺を弱らせるにはそれで充分だった。体が自分の思い通りに動かなくなってきた。足からは血が流れていた。足が前に出ない。平衡感覚が保てない。どさっという音が頭の中で響いた。自分が倒れているのだという事に気付くのに数秒かかった。

 なにやってるんだ、俺は。約束したんじゃないのか、相棒と。

 「はは、弱ってる、弱ってる。」

 「死に神の使者、を退治したぞ。」

 何とでも呼ぶが良いさ。俺には消えない名前があるからな。

 俺は力を振り絞り、子供達の足元をすり抜けた。『聖なる夜、ホーリーナイト』。その言葉を思い出すだけで、力が出た

 

 どのくらい走ったのだろうか。もう、夜が明けようとしていた。太陽の光が顔を出し始める。それに従って町が姿を表し始めた。

 城みたいな建物がある、白が基調の町。

 俺は更に速度を速めた。町の少し外れた所にある、屋根がオレンジ色の家。そこの画家の恋人がいる。

 俺の体はもうぼろぼろだった。人間で言うところの満身創痍ってやつだ。

 玄関をがりがりと引っ掻く。手からは血が流れていた。足からも。体は重く、息が出来なかった。

 俺はもう死ぬんだな、と思った。不思議に後悔は無かった。相棒との約束を果たしたという満足感が胸を占めていた。

 玄関が空いて、女性が出てきた。

 真っ黒な髪の毛の女性だった。俺の色と似ているな、死にかけというのに頭に浮かぶのはそんなことだった。

 女性は俺のくわえている手紙に気付き、そっと手紙を取った。

 俺は手紙を見る女性の顔をじっと見ていた。綺麗な人だなと、思った。画家の恋人っていうのが信じられないほどだった。太陽の光が女性の当たり、天使みたいに見えた。忌み嫌われていたって、天使は訪れてくれるんだな。

 「ありがとう、『聖なる夜、ホーリーナイト』。」女性は手紙を読み終えて言った。女性の顔に浮かんでいたのは涙ではなく、笑顔だった。目を細めたその笑顔は、画家によく似ていた。その笑顔を見た瞬間、ふっと体の力が抜けてしまった。


 女性は黒猫の墓を作ってやった。

 Holy night(聖なる夜)に一文字加えてHoly knight(聖なる騎士)に変えて。


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― 新着の感想 ―
[一言] 後半部分に「画家は何かを振り絞り様にして、キャンパスに向かっていた。」という誤字がありました。題名から、バンプオブチキンの「K」の文章化かな、と思いながら読み進めました。「K」そのものだった…
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