【CONTINUE】 わずかな進展
今朝の出来事を回想していたマコト。もしかして、オレ…。
思い出した。
あの衝撃は……事故?
目を見開いたまま硬直していたマコトの顔から、みるみる血の気が失せていく。
「…どうしよう。…俺、…マジ、死んでる…のかも」
電話越し、呆然と吐き出されたマコトの台詞にマサミが慌てる。
『異世界じゃなかったのかよ!』
「だって俺、…確実に、撥ねられてるし」
冷たい汗が背筋を伝う。
記憶を反芻して、からからに渇いたのどにむりやり唾液を流し込む。あの黒い塊は乗用車かトラックか、いずれにしてもあの時身体に受けた衝撃は、撥ねられたからに違いない。
『撥ねられた?』
「そうだよ! ここは異世界じゃなくてあの世だったんだ!」
だから、あんな変な生き物やファイアーと叫んだだけで手から炎が出たんだ、第一ミツシは別の世界とはいったが異世界だとは言ってなかった気がする。あうあうと頭を抱え込んだマコトを絶望的な考えが暗い谷底へと突き落とす。
支離滅裂な考えに陥っていることはいうまでもないが、本人真剣である分性質が悪い。
勝手に話をすすめるな、とマサミがマコトに待ったをかける。
『落ち着けって。そこに人がいんだろ? ここは天国ですかって聞いてみろよ』
「ソースル」
蒼白な顔、感情のこもらない声で答えて、見守っていた二人の方へとぎこちなく首を回した。
―――嗚呼、こいつらって、実は天使?
二人の頭上に、光り輝く輪ッかまで見えてきた(錯覚です)。
「ココハ、天国デスカ?」
訊かれた二人は、一人で話していたかと思えば次には倒れそうなほど青くなったマコトが、紙に書かれた文字を読むかの如く、棒読みに喋るのに、
「違う!」
「違うよ〜」
揃って否定の声を上げる。真っ青だったマコトの顔に、一瞬にして血の気が戻った。
「違うってさ」
暗い谷底が何のその、ケロリと復活した兄の現金さにマサミが勘弁しろよと額を押さえた。
『……思い出したこと、全部話せよ』
『――わかった。俺は、兄貴を撥ねたかもしれない車と、石坂のおばさんに小枝ちゃんの様子を詳しく聞いてみるよ。明日、夜の八時に連絡入れるから、それまで電源切っとけよ』
釘をさすのも忘れない。兄に似ず、ホントしっかりした弟だ。
「頼んだぞ〜」
見えもしないのに、指でつまんだハンカチを振っているマコトに、マサミが心配そうに訊ねる。
『とりあえず、兄貴はこれからどうする?』
「俺か? 俺は、異世界を堪能することにする!!」
能天気なマコトの言葉にぷちっとマサミの忍耐が音を立てて切れた。
数分前のあの落ち込みようは一体なんだったんだと罵倒の限りを尽くしたいところだが、充電の残量を考慮して現在の心境を一言に集約した。
『いっぺん、死んどけ!!』
吐き捨てるように言って、二度目の通話は終了した。
携帯が切れる直前にガッという音が聞こえたのにマコトが首をかしげる。
あっちの世界では「心配して損したっ!」とマサミが携帯を床に叩きつけていた。
鼻息も荒く怒り覚めやらぬマサミの耳に、扉をノックする音と耳になじんだ女性の声が心配そうに問いかけてくる。
「マサミ? 開けるわよ」
「どうぞ」
入室を促し、呼吸を整えながら床に叩きつけた携帯を拾い上げると、ベッドへと腰掛けた。
顔を出したのは叔母の琴音だった。
マサミ達の母親が経営する会社で事務員として働いている彼女は、二人の母親と十以上も年の離れた姉妹だ。姉よりも年が近い甥っ子たちを、弟のように可愛がっている。
姉の帰りがいつも遅いことを知っている彼女は、こうして時々ふらりとやってきては二人の面倒をみていた。
「ご飯食べた?」
マコトとの通話で疲れきっていたマサミは力なく首を振る。
それでなくても電話がつながらないと心配し、連絡がくるのをやきもきして待っていたこともあり精神的な疲れは胃を重くする。
マコトの部屋のほうへとチラリと視線をむけて琴音が首を傾げた。
「マコトはまだ帰ってないの? ノックしたけど返事がなかったよ」
「ああ、今日は友達のところに泊まるって」
まだ言えない。
若いこともあって親族の中では一番柔軟な物の考え方をするであろう琴音だが、まさか兄貴はいま異世界を彷徨ってるらしい、なんて、とてもじゃないが口にはできない。
いつか話すことになるかもしれないけど、それがいまでないことだけはハッキリしている。
帰ってくる方法が見つかるまでは黙っていたほうがいい。
そう判断して、マサミは琴音に嘘をついた。
「平次くん家?」
「部活の友達だって言ってた」
考えもせずさらりと出てくる言葉に琴音は何の疑問も抱いてはいないようだった。
「そっか。何か軽く作ろうか? それとも食べに出る?」
琴音の言葉をどこか上の空で聞きつつ立ち上がり、マコトの部屋とマサミの部屋を遮る壁に置かれた水槽の棚へと足を向けた。
熱帯魚が群れて泳いでいる。はじめはつがいの二匹しかいなかったというのに、管理がいいせいか繁殖を繰り返し、いまではペットショップに出荷できそうなくらいに増えている。
餌の蓋をひねり開封するとさらさらと水槽に落とし込んだ。
先を争うように餌に群がる熱帯魚を見つめながらマサミの頭はフル回転していた。
考えないといけないことがいっぱいある。
マコトを撥ねたらしい車のこと。
マコトが撥ねられたとき一緒にいた小枝のこと、意識が戻らないのも気になる。
母親には早いうちに事情を説明しておかないといけないだろう。学校の事だってあるし、捜索願なんて厄介なものを出される前には話しておく必要があるだろう。父親にも――父親は、まあ置いといて。
それに、いまのところは携帯で連絡をとることができているが、いつ通じなくなるとも限らない。充電切れ以外の不安要素がないとは言い切れないだろう。
水槽を前に悶々と悩んでいるマサミの横に、いつのまにか立っていた琴音が水槽の横に置かれたコップを興味深そうに覗き込んでいる。
「この子は一緒に入れてあげないの」
鮮やかなコバルトブルーのヒレをひらめかせる一匹の魚が目にとまったようだ。
「そいつはいいんだ。闘魚だから」
「とうぎょ?」
耳慣れない単語に琴音が聞き返す。
「そう、闘う魚って書いて『闘魚』。ベタって種類だよ」
「綺麗。…でも、なんだか寂しい魚ね」
狭いコップの中、他種と混ざることなく隔離された一匹をみつめ、琴音がポツリと呟いた。
会話が途切れ、部屋には水槽のポンプの音だけが静かにコポコポと広がる。
二人の瞳はコバルトブルーの魚を映すが共に別のことへと意識は向いていた。
マサミはこれから自分がしないといけないことを順にまとめ、琴音は――。
「夕飯食べにいこうか」
静けさを振り払うように琴音が笑ってマサミを促す。
急な話題転換に、再び沈思しかけていたマサミの思考が外へ向かって動き出す。
することも考えないといけないことも多いが今はまず出来ることから始めよう。
壁にかかった時計を見れば七時半になっていた。
思わず眉間に皺が寄る。
帰宅したのが四時。マコトと電話していた時間を多めに差し引いてもおよそ三時間は待たされた計算になる。
時間を意識した途端、若い胃袋は急に元気を取り戻した。
「…腹減った」
ぼそりとマサミが言うのに琴音がクスリと笑う。
「行こ」
腕を引かれ部屋を出た。
明かりを落とした部屋の壁際で、ライトアップされた水槽だけが浮かび上がっていた。
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