始まりの夏の日
そう、夏休みが始まる直前、俺は一人旅に出る予定を立てていた。
細々とやってきた放課後バイトのお金で。
我が家は母子家庭で余裕はなかった。
余裕がないなら、そのバイト代を家にいれるべきだったかもしれない。
だが、俺は一人旅を選択した。
母さんには許可は得ており、なにも俺を咎めることなく「のんびりしておいで」と言ってくれた。
そんな母は、毎日あくせくと俺のために働いてくれていた。
めったなことじゃ怒らないし、俺も怒られないよう、怒らさないよう、うまくやってきたつもりだった。
程々に勉強もしているし、余計な遊びもしないし、なにかを無理にねだることもなかった。
でもその息苦しさから脱出したかった、という気持ちは正直あった。
そう言った考えは、親不孝であり、身勝手だということはわかっていたが、内に秘められた情動は日増しに膨張している気がしていた。
『自由に過ごしたい』
だから少し罪悪感がありながらも、計画を立てていた。
夏休みを目前に控えたある雨上がりの夕方。
俺はバイト帰りにコンビニに寄って本を読んでいた。。
ちょうど旅行関係の特集を組んでいた雑誌があったので、それを読んでいた時、雑誌のページをめくりながらふと顔を上げると、店の軒先から先ほど降った雨のしずくが日の光に照らされながらポタリと落ちるのが見えた。
そして、その先に見えてしまった。
栗色の少し癖のある肩までの髪を揺らしながら泣いている少女を。
白いセーラーとグレイのプリーツスカート。
それは毎日見慣れたうちの高校の女子の制服姿だった。
そして泣きながら携帯電話で話す少女が顔を挙げた時に、目が合ってしまった。
「ア、アサツミ?」
俺の口からこぼれた彼女の名字。
泣いていたのは、そして泣き顔のまま俺を睨んでいるのはアサツミヒジリ。
わが校で『ナンバーワンかかわりたくない女』と言われているやつだった。
だが、俺とアサツミのファーストコンタクトは、悪くなかったのだ。
あれは入学して間もない時の英語の授業だった。
アサツミに話しかけられたのだ。
正直、入学初日に行われた自己紹介の時から、かわいいと思っていた。
小柄で少し茶髪で色白で、クリっとした眼を持つ彼女は、はっきり言って俺の好みのタイプだった。
「今日はどこからなの? 昨日休んじゃったから」
コロコロっとしたこの声がまた俺の好みだったんだよなぁ。
「ああ、六ページの、このセンテンスから」
「ここか。ありがとう……あの、サラシナ君、だよね?」
「ああ。君、アサツミさんでしょ?」
俺の返しに彼女が目を見開いて反応した。
「わたしの名前……知ってるんだ?」
「最初の自己紹介の時に覚えたよ」
「すごいね、みんなの名前覚えてるの?」
「いや、さすがにみんなは無理だよ」
「わたしのは覚えていてくれたんだ」
「あ、まあな」
実は結構好みのタイプだったから、なんて気障なことは言えなかったが。
「じゃあ、あらためまして、わたしアサツミヒジリ。同じクラス、よろしくね」
「俺はサラシナショウマ。よろしく」
その時、にっこり笑った彼女は最高にかわいかった。
今でもその時の笑顔は忘れられない。
しかし、そんなときめきの時間は短かった。
翌日のことだった。
クラスで皆が一つの話題に関して盛り上がっていた。
それはアサツミのことだった。
昨日、つまり俺があのときめきの笑顔に遭遇した日、その日の午後に彼女は先輩方に呼び出しを喰らって体育館に連れていかれたらしい。
一年生のくせに髪は脱色してるわ、軽くパーマが当たっているわで、生意気だということが理由で。
もっとも、後で伝え聞いた話では、彼女の髪に関しては、色もクセも生まれつきだったらしい。
彼女の他にも呼び出された一年生が二~三人いたのだが、これは一年生に対しての上級生からの『しめし』という恒例行事で、ちょっと生意気そうな一年生は呼び出され、理不尽な理由であろうと先輩方に申し開きをして、とりあえず謝るなりするしかないとのことだった。
でも彼女は頭を下げずに拳を繰り出したらしい。
なんでも、止めに入った複数人の男の先輩までもボコってしまったらしい。
それ以来彼女は学内でも笑うことなぞなくなり、俺に対してもあの時に見せた笑顔が最初で最後だった。
その後は、俺の方からは顔を見れば何となく挨拶をしたり、たまに話しかけてみたりしていたのだが、彼女からまともな返事はない状況だった。
それでも俺の中では、あの日英語の授業の時に見せた笑顔がしっかりと焼付いていた。
だが、今俺を店の外から睨んでいるヒジリは、あの時のような笑顔のかけらはない。
俺はなんで睨まれなきゃいけないのか?
アサツミヒジリが泣いていたのは俺には関係のないことであり、まして俺が泣かしたわけではないのだ。
泣いているところを目撃してしまったというだけなのだ。
だから、俺は普通にこの場を去っていいはずである。
よし!
俺は自信を持って、堂々と本を買って店から出ていくことにした。
俺はコンビニの出口を出た途端、
アサツミに捕まった……。
「なにこの本」
赤い目をしたアサツミが少し鼻をすすりながら、俺が買った雑誌を無造作に袋から出してペラペラと見始めた。
「あ、いや、一人旅に行こうかと思って」
「は? 一人旅って、なにそれ黄昏てんの? キモくない?」
ほっといてくれ、って言うか、完全にたちの悪いヤンキーに絡まれている状態だった。
「夕日が海に沈む? 嘘でしょ? 山に沈むのが夕日じゃないの?」
「日本海では常識だよ。だってこっちとは反対側だろう?」
「本当? 同じ日本なのに?」
意外にバカなのかと思った。
その時、彼女の目が、あるページでぴたりと止まった。
「なんか、興味あることでも書いてあった?」
というか、そろそろ俺は解放されてもいいんじゃないだろうか?
「面白そうじゃん。行ってみようよ! どうせ、夏休み暇になっちゃったし」
彼女は勢いよく本を閉ざすと俺の顔を見て叫んだ。
「は、行くって、誰がどこに?」
「わたしとあなたが行くのよ」
「な、なにしに?」
「海に陽が沈む瞬間を、この岬に見に行こう! ハイ決まり!」
「い、いや、ちょっと待ってくれないか?」
「あ!」
なにか急に思いついたようにアサツミが高い声をあげた。
「な、なんだよ?」
「学校祭、さぼるでしょ?」
「夏休み前の、学祭のことか?」
うちの学校は学校祭、つまり文化祭が秋でなく夏休み直前にあり、そのまま休みに突入するので、学祭をさぼって夏休みをプチ延長する連中はちょこちょこいたりするのだ。
「準備はするが、あんま行く気はしてなかったんだが、それが?」
「じゃ、学祭の日に出発ね。この本、貸してよ。当日持ってくるから」
「え、いや、そうじゃなくて」
「泊まれるように準備してくるわ。じゃあ、朝一で行く?」
「いや」
「じゃあ、十一時にしよう。待ち合わせは……新宿。あそこならどこへだって行けそうじゃない」
おい!
俺が今言った『いや』は、朝一を拒んだ『いや』、じゃないんだが!
もっと根本的な……。
「あのさ」
俺のことなぞ無視するように彼女はバックから何やら小さな紙を取り出して俺に渡した。
「それわたしの名刺。南口に来たら電話してね」
かわいらしい紙にはアサツミの名前と電話番号、メールアドレスが書いてあった。
アサツミが名刺を持っているのは失礼な話、意外だった。
俺の友人たち(男)で持っているやつはいないが、女子は結構持っているという話は聞いてはいた。
しかし、アサツミはそんなキャラではないのかと思っていたのだが。
などと、名刺を見ながらいろいろ思っていたら、気がつくと自分ペースで話し切ったアサツミは、俺の雑誌を奪ったまま、手を振って歩いていった。
というか、
俺の言葉を挟む余地は全く与えられず、怒涛のように決まってしまった。
確かに早ければ俺も学祭サボって行こうと思ってはいたが、アイツと一緒に旅行とか、考えられない。
いや、もしかして意外に楽しいかもしれんなぁ、いやいや、アイツに限ってそんなわけないだろ。
今の対応を見てもヤバイ。何もかも引っ掻き回されるんじゃないか?
なんとか言ってキャンセルしよう。
俺はスマホをとりだしてアサツミに電話をしようとした。
いや待てよ……。
彼女にNOと言って通用するのだろうか?