始まりは夏の日その2
「普通に乗せてくれればよかったのよ」
ヒジリはそういいながら後部座席でタオルを握っていた。
そのタオルは助手席に座るタトゥ男の首に巻いてあり、必要な際には、ぐいと引っ張って言うことを聞かせるためのものだった。
早速タオルが引かれて助手席の男が蛙のような声を出した。
「お腹も空いたからお菓子ちょうだい」
タトゥ男が少し咳き込みながら、クラッカーとペットボトルのお茶を差し出してきた。
「お菓子はそれくらいしか。開けてない飲みものはそれだけなんで」
「しょうがないわね。感謝していただきましょ」
そう言ってヒジリはペットボトルのお茶を飲み、クラッカーをつまんだ。
その恩恵は少しだけ俺のほうにも回ってきた。
「どこまで行ったらいいんすか?」
「日本海まで」
「む、無理っすよ。そんなにガソリンもないですし」
「スタンドで入れなさいよ」
「この辺りスタンドないですよ。国道の方へ行けばあるかもしれませんが」
「そう、わかった」
彼女はそう言うと窓から外を眺めながらぼんやりと、そして呟くように言った。
「じゃあ、適当なところまで……」
「適当って、どの辺ですか?」
「わたしがイイ、って言う辺までやって」
「ま、マジ、ですか? ちょっと待てくださいよ」
すかさずタオルが引かれて助手席のタトゥ男が声を上げた。
「わ、わかりました。はい」
車は何もない田舎の一本道をひた走った。
ピックアップトラックが道に停車しており、二人の男が手を振っている。
ヒジリはにこやかに手を振り、俺は彼らに頭を下げたが、すぐに彼女が俺のシャツの襟首を掴んで引っ張った。
足早に駅へと向かう彼女に半ば引きずられる様に、俺は駅の構内へと歩いていった。
「さて、お兄さんたちからもらったお小遣いで電車にも乗れそうだし、とりあえずどこまで切符買えばいいの?」
お小遣いというよりもカツアゲに近かった。
いや、完全なカツアゲだった。
十分ほど前。
「あの、駅、着いたんすけど」
ピックアップトラックを運転していた男がご機嫌を伺うようにヒジリに言った。
ヒジリは窓の外の『塩尻駅』という看板を見ながら、前の席に座っている男たちに右手を差しだした。
「お金なければ電車乗れないでしょ? お小遣いちょうだい。わたしたちお金ないの」
男二人は顔を見合わせながらそれぞれの財布を取り出して中身を見た。
「いくら、あればいいんですか?」
彼女は伸ばした右手を更に前に出した。
「財布、貸して」
「い、いや、勘弁してくださいよ」
彼らの悲痛な叫びを聞いて、彼女はため息をつくと、右手を戻して椅子に深く座りなおした。
「じゃあ、出して」
「へ?」
「車出して。わたしがいいって言うところまで行って」
「す、すみませんでした! こ、これ」
男達は慌てて自分たちの財布を差し出し、彼女は紙幣だけ抜き取ると財布を投げるように男たちに返した。
「ありがとう! この恩は絶対忘れないから」
「あ、いや、すぐ忘れてもらって結構っス……」
俺は男たちの泣きそうな声に心から同情した。
「降りよう」
彼女はそう言って俺をを促しながら車外へと出た。
「ねえ、聞いてるの?」
俺は我に帰った。
切符売り場の上に掲げられた路線図を見ながら、俺は行き先を探した。
「そうだね。ここから下りの列車に乗っていけばいいみたいだな」
一体いくらせしめたのか知らないけど、お金を節約してゆけば目的地まで行けるだろう。
「まずは松本まで出て、そこから大町方向の路線に乗り換えればいいんじゃないかな」
しかし、それではお金は抑えられるが目的地につくまでかなり時間がかかりそうだった。
とりあえず今日は松本で一泊だ。
それに、そこで片付けなきゃいけない案件もあるし……。
そうやって俺が思案している間に彼女の姿が隣から消えていた。
「あ、あれ?」
周囲をキョロキョロと探していると、彼女が勝手に切符を自販機から購入していた。
「とりあえずマツホンってとこまで行けばいいでしょ?」
「だからマツホンじゃなくてマツモトだよ」
「それじゃドラッグストアのチェーン店じゃん。普通はマツホンって読まない?」
いや、マツホンと読むほうが普通じゃねえ。
「ま、とりあえず電車乗ろう! いこいこ!」
彼女に手を引かれて俺はホームへと下りていった。
「静かだね」
「あ、まあ、田舎の駅なんてこんな感じじゃないか?」
「なんか、わたしたちの貸切みたいじゃない?」
駅貸し切りか。
俺たちが最初に乗った、あのごった返す雑踏の新宿駅とは路線がつながっているのにこんなにも差があるとは。
建物に反射する夏の日差し、ホームを流れるさわやかな風。
駅前の車の音に、どこからかセミの鳴き声も交じって耳に入ってきた。
「あ、きたきた!」
ホームから覗き込んでいたヒジリが遠くからやってくる鈍行電車をみつけて叫んだ。
電車に乗ってからは、彼女はしばらく喋らなかった。
鈍行列車は空いており、ボックスのシートに向かい合って座った俺と彼女は窓の外を見ていた。
遠くに山が見える以外には畑や田んぼ、住宅が見える、それはそれは退屈な景色だった。
そんな景色が洋画のスタッフロールのように延々と流れ続けていることに、俺は早々に飽きてしまっていた。
彼女を見ると、どこを見ているのか、ただぼんやりと窓の外に視線を向け、少し開けた窓から流れてくる風に髪を揺らしているだけであった。
「景色、変わらないな」
「変わらないのが、景色なのよ」
「退屈じゃないのか?」
「退屈しないわ」
「なんで?」
「あんたと二人でいるから」
俺の問いかけに、彼女はそれ以上答えなかった。
なんで俺はこの女、アサツミヒジリとこうしてローカル電車に乗っているのか。
その始まりは高校生活二回目の夏休みが始まる直前のことだった。