始まりは夏の日
【前奏】
「サラシナ君、わたし決めた」
目の前には艶やかな黒髪ストレートの少女が猫の目のようにきらきらした好奇心あふれる眼差しで俺を見つめている。白い夏服セーラーが少し眩しく感じた俺は、目を細めながら訊ねた。
「ナツメさん、なにを決めたんだよ」
彼女は一歩前に出て俺の眼を下から覗き込むようにして微笑んだ。
ああ、そうだった。
ナツメさんって、こんな感じに近い距離で話してくるのだが、その度に俺は胸の鼓動が早くなってしまって困った記憶があった。
「切り札、今使おうと思うの」
「き、切り札ってもしかして」
その瞬間、俺は後ろから何者かに襟首をつかまれて引っ張られた。
「ちょっと、なにやってるのよ」
「はい?」
振り返るとそこには、ナツメさんよりも背の低い少女が俺を睨んでいた。
くせのある肩くらいまであるブラウンの髪、西洋人形のような白い肌とガラス玉のような瞳。彼女はアサツミヒジリ。ナツメさんと同じく、俺が高校の時同級だった子だ。
「ヒ、ヒジリ。おまえはなんでここに?」
「なんでって、変なこと言うのね。急がないと間に合わないよ?」
俺は周囲を見まわした。
いつの間にかナツメさんはいないし、俺と茶髪少女ヒジリは、古めかしい駅のホームに立っていた。
「この電車乗らないと行けないじゃない」
「どこ、いくんだっけ?」
先程までの不機嫌な表情から一転してヒジリは俺に微笑みかけてきた。
「あの世」
「あのよ? それって、もしかして死後の世界の?」
「迎えに来たよ」
彼女の手が俺の手をぎゅっと握りしめた。
「ねえ!」
私の目の前には毎日見慣れた少女の顔があった。
「はがき、来てたよ」
見慣れた少女は中学になったばかりの長女だった。
「旅行の準備できたの? それとソファーでうたた寝、体に悪いよ」
そう言ってわたしに一通の手紙を渡すと足早に部屋を出ていった。
どうやらお出かけの準備が忙しいようで、なんともそっけない態度だった。
「夢か。はぁ……」
なんか妙にリアルな感覚の夢だったせいか、頭の半分はまだ夢の世界に嵌っているような気分だった。
気を取り直してソファに腰かけなおし、私は手渡されたモノトーンのはがきを眺めた。
そしてそこに懐かしい人物の名前が記されていることに気がついた。
「アサツミヒジリ」
先ほど夢の中に現れて私をあの世に誘おうとしていた少女。その名前を何年かぶりに口にした時、私の頭の中はあの夏の日に飛んでいた。
それはもう何年も前のこと。
そう、今日と同じ暑い夏の日だった。
私は炎天下に、田舎の一本道に立っていた。いや、立たされていた。
遠く陽炎が立つその道の先から車がやってこないか見ていたのだ。
そう。あの日は暑かった……。
「ねえ、まだ?」
後ろから声をかけられて、俺は我に返った。
「あ、いや、ぜんぜんだ。なにも見えないよ」
暑い日差しの中、真っ直ぐに伸びる緩やかな田舎道。そこに俺は立っていた。
俺の後ろではトタンと木でできた小さなバス停があり、その中で彼女は座って待っていた。
俺は外で車が来ないか見張らされているというのに……。
周囲は細い緑の葉が眩しく輝く田んぼが広がるだけの、何もない場所だった。
それでも、しばらくすると焼けるアスファルトの向こうから一台の車が見えてきた。
「ヒジリ、来たよ」
俺がそう言うと古ぼけた屋根つきのバス停の中で涼んでいた少女がゆっくりと立ち上がった。
肩くらいまであるくせのあるブラウンの髪、肩を露にした白いコットンのワンピースの裾を揺らしながら聖と呼ばれた少女は道の真ん中に出てきて、近づいてくる車を睨んだ。
ヒジリは車を止めようと道の真ん中で手を挙げて大きく左右に振った。
当然先ほどまでの厳しい表情ではなく、にこやかに社交的に、そして少し困ったような表情で手を振っていた。
哀れで儚げな少女に救いの手を差しのべてください、といったような。
実際哀れで儚げなのは俺のほうなのだ。
なぜなら、このヒジリという少女にこんな所まで連れてこられたのだから。
車は大きめなピックアップトラックだった。
大きな音で音楽が車内から聞こえており、先ほどまで飽き飽きするほど聞いた虫の声や草の揺らぐ音を問答無用に掻き消してくれていた。
車が止まったのを確認すると少女は窓の開いた運転席のほうへ走った。
「すみません、途中まででいいので乗せてもらえませんか?」
中から顔を出した色黒の青年は、ヒジリの体をなめるように見つめた。
「お嬢ちゃん、高校生かい?」
「はい」
「後ろの兄ちゃんもかい?」
「はい。一緒にお願いします」
「カレシ?」
ヒジリは大きく顔を左右に振って即座に否定した。
「ちがいます」
「いいよ。その代わり、条件がある」
「条件……なんですか?」
運転席から男が降りてきた。
そして助手席に座っていた左肩から腕にかけてタトゥを入れた長身の男も降りてきて、二人はヒジリを挟むように前と後ろに立った。
「俺たちを気持ちよくしてくれたら、乗せてもいいぜ」
ヒジリは困った表情で男を見ながら半歩後ろに下がったところ、後ろに立っていたタトゥを入れた男にぶつかった。
「おっと、どこいくの?」
ヒジリは後ろから手首を握られ、押さえつけられる形になった。
「あ、あの……」
俺が口を開いた途端、即座に二人の男が俺を睨みつけてきた。
「おめえはそこで見物してろよ」
男のこの一言で、俺は言葉に詰まってしまった。
これがヒジリでなければ当然身を挺してでも止めに入っただろう。
いや。
後で思えば止めに入ればよかったのだが……。
運転席にいた男は、手首を掴まれて動けないヒジリの体に手を伸ばした。
そして震えた様な眼差しで男を見ていたヒジリの腰を両手で掴み、撫で始めた。
「おとなしく言うこと聞けば、痛い目に合わせないからさ」
「ほんとう……ですか?」
ヒジリのか細い声にサディスティックな感情を刺激された男は、腰を触っていた手を下げて、白く滑るような太ももをなで上げながら、ワンピースの裾を捲り上げた。
かわいらしい下着と予想以上に艶やかで滑らかな脚が見えた時だった。
男は激しい衝撃とともに後方に吹き飛んだ。
ヒジリの膝が激しくめり込んだ顎はゆがみ、折れた前歯を宙に飛ばしながら男は後頭部をしたたかにアスファルトに打ち付けていた。
傍らで、予想通りの展開を目の当たりにした俺の哀れみの視線は、路上に倒れていた男から、すでにヒジリの後ろにいるタトゥ男に向けられていた。
なにが起こったのか理解できなかったタトゥ男も、ヒジリの手首を握っていたはずの自分の腕に激痛が走って我に返ったが、時にすでに遅しだ。
手首を大きくヒジリに捻られ、その痛みを回避しようと本能的に動かした方向に大きく体は飛び、宙を半回転して肩口から路上に叩きつけられた。
「ぐぁ!」
激しい痛みが走って、声を上げたタトゥ男の視界にはヒジリの靴が見えた。
その靴は、急速に接近してきて男の視界が闇に包まれた瞬間、
タトゥ男は顔面に蹴りを入れられて路上に果てた。
俺は思った。
やっぱり止めておけばよかったと。