勢いあまって
―上野城内離れ 昼―
この世界は醜い。甘くて脆い夢が壊れた時、そう幼心に感じた。目の前の琉歌は、そんな醜い世界の中で輝く数少ない花のようだ。
「ねぇ、僕からも聞いていいかい?」
「うん、何?」
琉歌は僕の腕の中で、顔を上げてこちらを見る。
「琉歌は、この世界が美しいと思う?」
「えぇ、とても!」
一切の迷いなく、琉歌はそう答えた。
「それは、どうして?」
「初めて見た、その時から美しいそう感じたからよ」
「初めて見た……」
僕は、琉歌の言ったことに何か違和感を覚えた。初めて見た、まるで、僕らが過去に一度会っていたかのような言い方だ。
しかし、僕がそんな風に感じていることなど、当然気付いてなどいないように琉歌は続ける。
「この世界の一部分しか知らなかった私に、美しいこの世界は沢山教えてくれた。でも、今は……」
琉歌は、僕を抱き締めた。
「また小さな世界に閉じ込められたまま……」
「琉歌は、この建物から出たことがないのか?」
(公の場には出たことがないとは小鳥から聞いたけど、まさかここからも?)
「ない……」
(だから君は、この世界の美しい面しか知らないんだね……)
「でも、周囲には監視もないようだった……僕が言うのもあれだけど、こっそり抜け出して、周囲の散歩ぐらいなら問題ないんじゃないかい?」
「今は駄目なの。それは、絶対に」
「何故だい?」
「約束だから……」
「約束?」
「うん、約束。とっても大事な約束。大人になるまでの……ねぇ、私の誕生日覚えてる?」
(誕生日……覚えてるって聞かれてもな。いつそれが書かれていたかによるよな……六歳以前の記憶はあやふやだ。そもそも手紙の内容なんて、もっと思い出せない)
「いや……ごめん、覚えてない」
「がーん!」
僕を抱き締めていた両手を、自身の頬に持っていってそう叫んだ。まるで、お手本のようだ。
「五歳の時書いた手紙に、書いておいたのに。そっか、だから私の七歳の誕生日の時から何もなかったのかぁ……酷いっ! 私は、いつも祝ってたのに!」
「ごめん、本当にごめん。でも、書いてくれれば良かったのに」
「自分から言うのって、恥ずかしいもん。うぅ……酷過ぎるよ~仮にも婚約者なんだよ~も~! 今度は忘れないでね、七月二十日だよ! その時が来たら、私はやっと……やっと巽さんと……」
「七月二十日……七月二十日……」
僕は脳に刻みつけるように、何度もそう繰り返した。一年にたった一度の行事だ。彼女にとっては、尊い日なのだろう。
「一緒に暮らせる!」
僕が必死に脳に刻みつけていると、琉歌が僕を思いっきり押し倒した。琉歌は押し倒そうとしたつもりはなかったのだろうが、僕がそんなに力を入れていなかったこと、突然だったので対応出来なかったことから、琉歌が僕の上に座っている状況になってしまった。
「いてて……」
「あぁ! ごめんなさい! つい……」
潤んだ瞳に、透き通るような白い肌とそれと対照的な漆黒の髪。
(僕が野蛮で下品な男じゃなくて良かった)
「すぐ、移動す――」
琉歌は動こうとして体勢を崩してしまい、僕の上で倒れ込んだ。
「ううっ……」
ゆっくりと琉歌は顔を上げる。
「だ……大丈夫かい?」
もしかしたら、琉歌はドジなのかもしれない。
「巽さんこそ大丈夫!? 私のせいで怪我なんてしてないよね!?」
「うん、大丈夫」
僕は寝たままの体勢で、琉歌を優しく抱き寄せた。
「わぁっ!?」
また、琉歌は僕の上で寝転がる。これは、僕がそうさせた。
(僕が出来るのはここまで。これ以上は君を汚してしまいそうで……いや、汚してしまうから……)
穢れてしまった僕には、琉歌を抱き寄せることも抱き締めることすらも許されないような気もする。だけど、それに反したい。後でいくらでも、罰を受けるから。今は、この幸せな気持ちに浸らせて欲しい。
(……とっても安心出来る)
「君と一緒に暮らせる日が待ち遠しいよ」
(その日が僕にありますように)
心の中で強く、そう願った。




