逃げ続けた人生
―宿屋 朝―
「あいつは今……どうしてるんだろう」
ゴンザレスは、少し上を見つめながら儚げにそう言った。それは、純粋な思いだろう。
「気になるのか?」
「そりゃあな。まぁ、ぶっ壊れてたらどんまいだけど。本当、あいつに出会ってとんでもねぇ世界を見たって言うか……父さんの母校に浅はかな考えで留学したのが過ちだったんだろうな。慣れない海外なんて、ほいほい行くもんじゃねぇよ。でさ、俺……そこで心が完全に折れてさ、勝手に学校辞めて帰国したんだ。それでも、父さんは何も言わなかった。辛い留学生活だったよ。俺は、日本の大学に編入した。でも……ちっとも心は晴れなかった。あいつみたいな人間もいなくて、俺だけが注目されてるのに……彼女だって出来たのに。逃げたことが心残りになった。結果、編入した大学にも行く気力がなくなった。それから、引きこもり生活が始まったんだ。行かなくなった、その時も父さんは何も言わなかった。だから、俺は思ったよ。俺はいてもいなくても、一緒なんじゃないかって」
何も言われない、それはもしかしたら逆に苦しいのかもしれない。
僕やゴンザレスは、父上からの評価を求め続けた人間。何も言われないということは、評価をされないということ。興味すら持たれていないのではないか、と思っても仕方がない。
「で……あれが起こったのか?」
僕の頭によぎるのは、あの精神世界で見た血だまりの光景。あれは事件と言うより、事故と言った方が正しいような気もする。
ゴンザレスに明確な殺意があった訳じゃない。ただ、力任せの反抗が引き起こした、あまりにも不遇な事故。
「引きこもり生活を初めて数カ月。やっと父さんが口を出してきた。今までは、母さんだけだったから。母さんはいつも優しかったよ。血なんて繋がっていない俺なんかの為に……下の奴らよりも手をかけさせちまった」
ゴンザレスの目には涙が浮かんでいた。
「母さんだけじゃなくて、家族全体に迷惑をかけてるって分かってた、痛いくらいに。それをドストレートに言われちまったもんだから、なんか腹立ってさ。つい、反抗的な態度を取った。気が付いたら、今まで溜まってたもの全部吐き出してた、感情のままに。結果があれ。俺は恐ろしさで、また逃げた。逃げてばっかり……そんな人生だった」
「ゴンザレス……」
僕も同じだ。逃げ続けてばかりの人生。狂ってしまった歯車。本来なら、僕はこうして座布団の上に座ってなどいなかったはず。いや、そもそも座布団という概念すらも消えてしまっていただろう。
しかし、それをゴンザレスと小鳥が回避した。本来ならば、人が成し得ることではない。その時を知ってしまった者が、その時を変える為、過去も変えることが許される者など、この世界にはきっと誰もいない。
だからこそ、変えたのはこの世界の住人ではない二人。もし、それに代償があるのだとしたら――。
「俺は家から全力で走って逃げた。警察やら病院やらに電話する度胸もなかったんだ。近所のちょっと事故の多い十字路で、俺は身に降りかかる危険も考えずにひたすらに何かから逃げていた。それで……やるべきことをやらず、罪から逃げた罰だろうかな。俺はトラックにはねられそうになる直前に、痛みを知る一秒前に……摩訶不思議なことが起こった」
「摩訶不思議?」
すると、ゴンザレスは一つ間を置いて、再び口を開く。
「トラックの目の前、間違いなく外にいたはずの俺がいつの間にか立っていたのは、俺の部屋だったんだ」