傷付けた心
―自室 夕刻―
カラスの声が聞こえる。その声は段々と遠くなっていく。呑気なものだ。鳥には、今陸で何が起こっているかなど分からないだろう。毎日、自由に高い所で飛んでいるだけなのだから。
(いいなぁ、鳥って)
そんなことを考えながら、手に持っていた琉歌の遺品を机に投げ捨てた。
「……あったあった」
そして、人目につかぬ場所に隠していた肉の入った箱を物陰から取り出した。はやる気持ちを抑えながら、僕はその箱の蓋を開けた。その瞬間、顔や手が凍りついてしまいそうなほどの冷気が襲った。
「冷たっ」
この箱には越後でしか取れない氷を使って、冷蔵庫代わりにしている。あんな大きな機械を、僕の部屋に置いておく訳にもいかない。この氷を使えば、これくらいの小さな場所をあっという間に冷やすことが出来る。移動しながら何かを冷やすのには軽く簡単な為、日常的にこの氷は使用されている。永遠に溶けないと名高いが、実際そうなのかは疑問だ。
「温めたいけど……もう我慢出来ないや」
ここに来るまでの道のりで、人とすれ違わなかったのは幸いと言える。僕は、霜のついた肉を手に取った。美味しそうな匂いが、手が一瞬で冷えていくのさえも忘れさせる。僕は肉にかぶりついた。
「あぁ……」
シャリシャリとした氷の感触とその下で眠っていた肉の食感、肉はカチカチだったが骨に比べればなんてことない。求めていた美味しさ。今まで体に不足していた物が徐々に取り戻されていく感覚。
(でも、まだ足りない……もっと新鮮な肉を……)
まだ小鳥が来る気配はない。もう、保管していた肉は食べ切ってしまった。それなのに、食欲は倍増していく。
(もっと食べたい、もっと欲しい)
本能が肉を強く求めている。でも、肉はない。ここに肉はない。もうない。
(我慢なんて出来ない……)
少しでも飢えを凌ごうと、手に残った微かな血液を舐める。しかし、それで飢えが凌げたのは一瞬だけ。舐め終われば、またすぐに飢えが僕を襲った。舐める前より、食欲が大きくなっているのは明らかだった。
「お腹が空いた……あぁ、そうだ」
(この城は肉の宝庫じゃないか……食べ放題じゃないか)
朦朧とする意識の中、僕は扉に向かって歩みを進める。しかし、僕が取っ手を掴む前に扉は開かれた。電気の光に照らされ、扉の向こうに立っていたのは子供の小鳥だった。
「こ、とり……」
そう認識するのがやっとだった。
「あ、あ……あの、お味噌汁を……作ったんですけど……お部屋にいらしたんですね。あの、その……その目と口はどう……あ、ごめんなさい。と、とにかくこのお味噌汁飲んで頂きたくて……巽様の為に作ったんです。きっと、お怪我も早く治ると思うので」
小鳥はお椀を持って、ゆっくりと僕に近付いて来る。湯気と共に吐き気を誘う独特な臭いが鼻につく。お陰で食欲は少し収まった。小鳥は怯えた様子で、僕に味噌汁を差し出した。
「……ふざけるな」
「え?」
「そんな物、食べられる訳がないだろ」
「巽様……?」
小鳥は僕の言葉がよほど応えたのか、その目からは涙が零れ落ちた。その悲しそうな表情が僕に喜悦を与えてくれた。人の涙が、これほどまでに楽しいものだとは思いもしなかった。
「身のほどを考えなよ」
僕は小鳥の持っていたお椀をはたき落とした。いとも簡単に落ちたお椀が味噌汁をまき散らす。そして、絨毯に染み込んでいく。
「ううっ……どうして……」
「子供は厄介だな……まぁいいか。ちゃんと掃除しておいてね、異臭が部屋に染み込むのは勘弁だから」
僕は小鳥を横目に廊下へと向かった。この部屋にいたままでは気分が悪くなる。折角だから、美月と閏の様子でも見てみようと思い、そのまま部屋を後にした。