奇跡を笑いましょう
―琉歌の部屋の前 夕刻―
琉歌の部屋であるはずの場所は、人の気配を感じさせない。気のせいだと思って、恐る恐る扉を開くと現実は僕に残酷に降りかかった。
机も椅子もベットも電気も本もない。少し前まで、琉歌がいたという形跡すらない。窓から差し込む微かな夕日の光だけが、虚しくそこにある。
(何も残らないのか)
僕を助けて、琉歌は消えた。自身が消滅すると分かって、救いの道がないことも分かって僕を助けた。消える恐怖を分かっていて、僕なんかを助けてくれた。
琉歌が消えてしまった時、僕は命というものを完全に理解した。絶望が僕を支配した。涙も溢れた。しかし、それは化け物の声がしてから一瞬で枯れ果てた。
命は脆い、そして儚い。思い出も記憶も、死んでしまえばそこで終わり。そんなものの為に僕らは生きている。死に怯えている。
(佐藤さんも忘れているのなら、他の人も皆忘れているのだろうか。だとしたら、どうして僕だけが? 上野国はどうなっている? 利害の一致とか言っていたが……)
僕が部屋で佇んでいると、気配を感じた。全てなくなってしまったと思っていたこの部屋に誰がいるのか、とその気配の方を向いた。すると、そこには――。
「小鳥……」
木箱を持って、大人の小鳥が佇んでいた。体のあちこちを負傷しているようで、服も所々黒ずんでいたり破れていたりしている。小鳥は木箱を見つめながら言った。
「私はまた、何も出来ませんでした。このままでは……一族として、使命を持つ者としても……私に本当に資格があるのでしょうか。私が、もっとお力になれていれば……」
小鳥は全てを悟っているようだった。木箱からはミシミシという音が聞こえてくる。悔しさが滲み出ている、無力な自分を責めている。
「フフッ」
「巽様?」
思わず笑ってしまった僕を不思議に思ったようで、小鳥は顔を上げた。僕は、小鳥に歩み寄りながら言った。
「君が今更自分を責めたって……琉歌は帰って来ないんだよ」
「っ……」
小鳥は唇を噛み締めた。
「琉歌も馬鹿だよ、どうせ僕は死なないのに。無駄な行為だ。まぁ、琉歌のお陰で記憶は全部取り戻せた訳だけど……」
あの時、一瞬でも泣いてしまった理由が分からない。やる必要のないことをやって、勝手に死んでしまったのだから。全ての痕跡がなくなったことには多少驚いたが、悲しむほどではない。
そして、また木箱からミシッと音が聞こえた。しかし、その音より自身の食に飢えた腹の虫の音の方が気になった。
(お腹が空いたなぁ。そうだ、部屋にある肉でもいいけど、どうせなら新鮮な肉を食べたい)
「そんなことよりお腹が空いたんだけど……正直、色々限界でね。このままだと……この城の誰かを食べてしまうかもしれない、無意識に。ねぇ、そうさせたくないんだったら……新鮮な肉を取って来てよ。御霊村、そこの獣肉が美味しくてさ」
僕は小鳥の頬に触れた。小鳥の頬が強張るのを感じた。
「巽様……」
(そんな目で僕を見るのか、君は僕の専属の使用人じゃないか。王である僕を、そんな怯えた目で……)
「いいよね? だって君は何も出来なかったんだから……ねぇ」
僕の手に小鳥の涙が落ちてきた。
「いいよね?」
小鳥は何も言わず俯いた。
「いい子だって、信じてるからね。頼んだよ……」
僕は小鳥の頭を撫でた後、自室へと戻る為、小鳥に背を向けた。その時だ。
「巽様!」
「何だい?」
小鳥が叫んだ。僕は、首だけ小鳥の方へと向ける。
「この木箱は、琉歌様の想いが起こした奇跡です。この部屋に唯一残った物……これだけは受け取って頂けませんか」
小鳥は、持っていた木箱を差し出した。
「奇跡? 馬鹿馬鹿しいな……」
面倒だったが、僕は仕方なくそれを受け取った。それは奇跡によって残った物とは言い難いほどお粗末な木箱。こんな物が、どうして琉歌の部屋に残っていたのだろうか。
「失礼致します」
小鳥は、空気に溶けるように消えた。
(信じてるよ、小鳥)
滑稽で、それが楽しくて僕は独り。何もない部屋で笑った。