番外編 燃えゆく吉原で
―小吉 吉原 一日前―
「はぁ……はぁ……っ」
必死に走っていた。走ることによって起こる振動に、巽君との戦いで負った傷が痛む。それでも我慢して走っているのは縄張りが荒らされている、そんな予感を感じた為だ。
そして、不幸なことにその予感は的中していた。炎が美しく作られた木造建築物を飲み込んでいく。
「助けて!」
「主様!」
悲痛な遊女達の叫び。助けてやろうにも、この体では飛んで火にいる夏の虫だ。
(あ~あ、こんな時だけ思うよ。龍の体だったら皆を助けてあげられるのに)
今の我は無力そのもの。これが人間だ。我が何とか龍の時に所持していた能力は使うことは出来るものの、この状況では何一つ意味を成さない。女性達にそれを使った所で何になるだろうか。しかも、ここは子供も多い。酒を飲んでいない、つまり効かない。
(無力だなぁ……龍の中で一番)
雨のように降り注ぐ火の粉を避けながら、真っ赤で大きな炎に包まれた光儀楼へと向かう。一番の火種を消さなくては、きっといつまで経ってもこの火事は終わらないだろう。
「熱いよ!」
「助けておくれ!」
ガタガタと格子を揺らす音、悲鳴、鳴き声、叫び声。やがてその音が消えてなくなる。
(なんでだろうね? 彼女達は僕にとってただの餌なのに……どうして心が痛む?)
光儀楼に近づくにつれ、体が焼けるほど熱く思えてくる。バチバチと火が勢い良く燃えている音、木が使われているため余計に燃えてしまうのだ。
「君だったらどうするのかな? あえて遊び人として、自身の権力を好き勝手に振りかざす屑のフリをして生きていた君なら……皆を助けられた? なんてね」
自分自身に問いかけるなど滑稽な話だ。勿論、返事などない。
「君には見えてるんじゃないの? 我の中で生きてるんでしょ、たまには……助けてくれてもいいんだよ」
黒煙が周囲を覆い、真っ赤な炎が遊郭を包む。やっと、光儀楼まで辿り着いた。しかし、驚いたことに玄関は開けっ放しだった。炎の向こうに、倒れている人影が見る。
(まだ……!)
だが――束の間の安心を嘲笑うかの如く、正面玄関には火だるまになった木材が落ちてきた。
「あ~あ……」
それは、正面玄関を完全に塞いだ。魔力や体力の消費も激しい。この木材さえ飛び越えることが出来ない。裏を覗き込んでみたが、火の海だ。もう侵入経路はどこにもない。壁全体を炎が覆い隠している。来るのが遅すぎたようだ。
「最弱……その通りだよ」
過去、兄弟達から言われたことを思い出した。蔑み、嘲笑ったあの顔は忘れたくとも忘れられない。
無力さを実感して、改めて理解出来る。その言葉がどれだけ正しかったか。だからこそ、種族の違う人間達を弄んだのだ。弱者は弱者しか虐めぬ。
「餌。餌でしかない……どうでもいい……違う……違う! 守りたいものは一緒でしょ!」
無力さに打ちひしがれていた時、体と口が勝手に動いた。まるで、遠くからこの景色を見ているような感覚に陥った。そして、無謀にも体はその燃え盛る木材に向かっていく。我に体の支配権はなかった。
(無謀だ……こんなの)
火に飲み込まれていくのが脳裏をよぎった。しかし――奇跡は起きた。
「うぅ!」
火事場の馬鹿力とでも言うべきなのだろうか。魔法を使った訳でもないのに、高らかに跳び上がった体は簡単に木材を飛び越えた。
(あれ? もう動かせる)
「ゴホッゴホッ……酷いな……」
傷に痛みが染みる。視界が煙であまり見えない。
「貴方……小吉……」
弱々しい声が下から聞こえた。
「薫!?」
黒く焦げた袖の端が、薫の体験した恐怖を物語っている。我は薫を抱き起こし、煙を吸わないように自身の着物の袖で薫の口を覆い隠した。
「小春……は」
「小春?」
(あの小さい子か)
いつも弱々しく震えていた小春。陸奥の方より連れて来られたまだ五歳の子供。彼女は薫の真後ろにいた。しかし、一切動かない。喉も手も足も動いていない。
「大丈夫だよ……嗚呼、大丈夫」
「貴方なら来てくれる……って信じてた。でも、ちょっと遅かったね。男が火をつけた……一瞬だった。ここまで来たけど……駄目だった」
薫は安心したのか、我を見て優しく微笑みながらそう言った。そして、眠たそうに瞼を何度か下に動かす。
「外は……どうなってるんだろう……どうしてここは、こんなに静かだったの……」
「薫?」
我は知っている。人がゆっくりと死ぬ時を。
「熱いね……貴方は逃げて、小春と一緒に。貴方に会えて……良かった。遊び過ぎは駄目だよ……そんなことするくらいなら……吉原を変えて」
彼女の口がとまった。目が閉じた。呼吸が弱くなっていく。拍動が小さくなっていく。
「我に遊ぶなって? 無理だよ。無理なんだ……」
そうやってもう一人の自分像を作り上げ、本来の自分を隠す。精神的にとても楽だった。体のやっていたことの意味を、とても理解出来た。不安定で記憶が混ざった我ら本来の人格を隠すのに最適だった。
「おかしいな……餌であるはずなのに。食べれば回復するはずなのに……空腹なのに……ちっとも美味しそうに思えない」
動かなくなった薫を強く抱き締めた。死ぬならここでもいいと思った。
「吉原を変える? 我に何が出来るって言うんだい? 我はただ――」
その時であった。我に叱責するかのように、近くで稲妻が落ちた。その衝撃で建物が揺れた。炎の中からでもはっきりと理解出来るくらいであった。
「怒ってるのかい? 相変わらず君は短気だね……分かった。やるさ。やれば満足してくれるんだろう? あ~あ、忙しくなっちゃうな」
冗談っぽく笑ってみた。勿論、この笑顔を見て文句を言う人間はもういない。