誰かに頼って、それでも生きる
―五十嵐邸 朝―
僕でも思わず息を吞んでしまうような立派な建物が、彼の住む所であった。
吉原にあった光儀楼を、さらに大きく、より装飾を加えて美しくしたような邸宅。僕の通された部屋からは、鯉の泳ぐ立派な池を望むことが出来た。
「やっぱりこういう感じはいいな……落ち着く」
幼い頃はこれが当たり前であったのに、海外の文化と融合していくのは一瞬だった。横文字が多く入ってくる中、僕はあまりそれを使いこなせずにいる。このままではいけないことは重々承知しているのだが、元々あったものでどうにかなるのなら、それでいいとさえ思っている。甘えだろうか。
「や~お待たせ。王様、いや巽君」
襖を開けて、小吉さんが部屋に入って来た。扇子で扇ぎながら、彼はのんびりと座布団へと座った。
「立派ですね。驚きました」
「お城暮らしの君が言うの? まぁ、確かにそれは思うね。数えきれないほどの女性の人生の上に、ここは立ってるんだろう」
「五十嵐家の主な仕事って……」
それから先を言うことが出来なかった。大きな岩にせき止められて、言葉が流れてこなかったのだ。
知らない所で、昔のようなことをまだ続けていたのだ。それに気付けなかった管理体制の甘さを突き付けられているような気分だった。
「そうだねぇ。表向きは吉原の管理だけ。建物の修繕とか着物の購入とか行事ごとの企画とかね? だけどさぁ……それだけじゃ、やっていけなかったみたいだね。五十嵐家は。昔から続いていた女性達の誘拐や人身売買……禁止されたけど、一度吸った蜜はそう簡単には忘れられない。結果、今の今まで続いてる。流石、忘八だよね。上がそうなら下もそうなるさ。さっきの男を見たでしょ? 遊女を商品としか見てない。使えなくなったら、それはただのゴミってね」
そう語る小吉さんの表情は、様々な感情を混じり合わせたかのようだった。笑っているようにも見えるし、悲しんでいるようにも見える。怒っているようにも見えるし、蔑んでいるようにも見えた。
「どうしてそれを僕に言うんですか?」
「君ならどうにかしてくれるんじゃないかって……言われたからかな」
小吉さんの頬を涙が伝った。
「薫……死んだんだ。あの炎でね。情けない話だ。管理者であり、縄張りにしている場所を荒らされてしまうなんてさ。君を連れて行った後、戻ったら既に火の海だった。店の中で閉じ込められた遊女が叫んでいた。まさに地獄絵図……特に酷かったのが光儀楼だった。それを見た瞬間だったかな、気がついたら飛び込んでいた。体が動いたんだ。我の意思はそこになかった。我としては遊女達を助ける道理など何一つない……不思議な話だろう? 悪の根源が……ねぇ? まぁ、いいや。飛び込んだら一階で薫が倒れててね。辛うじて息はあったよ。でも、隣にいた小春は死んでいた」
言葉だけでも十分に伝わってくる。小吉さんが見た、絶望の中の地獄を。
(薫太夫が死んだ? 守れなかった。また約束を……何もしてあげられなかった)
「か細い声で薫は、君にこの吉原を変えてと伝えて欲しいと言ったよ。それと……これは放火だともね。犯人は男だ。君は想像出来るかい? 犯人が。わざわざあの混乱の最中に、それに見立てて火を放ったんだ。こうなることを知っていた人物なんじゃないのかい? 吉原が邪魔で仕方がなかった……特にその稼ぎ頭がね。全焼が目的だったんだろうね、我の縄張りでそこまで勝手にさせる訳はないが……」
(男……知っていた人物? 国の主な財源が吉原であることを知っている……それがなくなれば、国はゆっくりと崩壊していくかもしれない)
「まぁ、どっちにしても吉原はしばらくは運営出来ない。完全に元通りにしようと思えば数十年は必要だと言われたよ。思惑にはまるのか……抗うのか。見ものだね」
小吉さんは、張り詰めていた空気を振り払うかのように笑みを浮かべた。しかし、その目からは涙がまだ伝っている。本人は気付いていないのかもしれない。
「何と申せばいいのか……本当に……」
零れ落ちそうな涙を堪えるために、僕は必死で膝の上で手を握った。
「我はしばらく出かけるよ。腕のいい職人でも探すために。さっきのあれは、本当にただの脅しだから。別に本気じゃないよ」
そう言いながら、フラフラと小吉さんは立ち上がる。
「無理してるんじゃないですか?」
彼も彼なりに相当負担がかかっているのだろう。恐らく、龍時代には経験したことがない感情を多く味わっているはずだ。
しかし、そんな僕の言葉に彼が返答することはなかった。襖の前で一瞬立ち止まり、後目でこちらを見ながら独り言のように呟いた。
「我は天性の遊び人であり裏切り者さ……あぁ、我もこの体の本来の持ち主のような語呂のいい通り名を考えたかったよ。まるで素質がない。我に出来るのは、一度でも酒を飲んだことのある者の記憶や行動をいいようにするだけ……誰かにすがるしか、我も生きて行けぬのさ」
小吉さんは襖を開いて、重い錘をつけられたかの如く、のっそりと部屋を後にした。