幻覚
―庭 朝―
「お待ち下さい、巽様! まだお話は終わっておりませんぞ!」
「僕はちゃんと食べてたよ! 本当なんだって!」
背後から地響きのような音を立てながら、陸奥大臣が追いかけてくる。
「ならば、何故逃げるのです!」
「追いかけてくるからだよ! どうして追いかけてくるの!?」
足が痛い。心臓も掴まれているみたいに痛む。ここで立ち止まったら楽になれる。楽になれるが、陸奥大臣に尋問される。
だが、これ以上逃げたってどうしようもない。疲れていくだけだ。しかし、妙なことにここまで来ると負けたくないという謎の自尊心が芽生えている。
(僕の方が若いのに……)
庭を三周した程度だったのだが、結構体が重い。景色が最初の時と比べると、ゆったり進む。もっと速く走ろうと足を動かそうとしても、体が言うことを聞いてくれない。
しかし、一方の陸奥大臣は距離を詰めてくる。声と足音が確実に僕に近づいて来ている。足の速さは美月の影響もあって自信があったのに、自分より四十近く上の人に追いつかれそうになっているというのは、少し心に来るものがある。
「巽様、流石ですね!」
振り向くと、数歩後ろにまで陸奥大臣は迫って来ていた。疲労の色は一切感じない。むしろ余裕すら感じる。
「こうでもしないと……美月から逃げることは出来なかったから……ね!」
命を懸けて、足の回転速度を上げる。上がっている気がしているだけかもしれないが。
「懐かしいですなぁ! 三才の巽様のお誕生日会で美月様がミミズを料理の中に入れたのですよ。それ以来巽様は美月様から必死に逃げるようになられて……フフ」
陸奥大臣は、まるで懐かしい思い出を語るように言った。しかし、その思い出は僕にはない。いや、あったとして思い出にはならない。悪夢だ。
(本能的に受けつけないのはそういうことか……本当にとんでもないことをしてくれる)
今美月は眠っている。僕のせいで。これもまた、どうしてあんなことをしてしまったのかが分からない。呪術をかけてしまうなんて、本当に最低だ。しかも実の姉に。
呪いを解く方法は、僕が死ぬか、この世界が僕の望む世界になる日が訪れるかどうか。呪いは本人がそこにいる限り解くことは出来ない。どんな偉大な魔法使いでもだ。
「そろそろ流石の巽様でも疲れたのではないですか? 潔く諦めることも時には必要です。さぁ、真実を言って頂きましょう」
「嘘なんてついてないって! 本当に……ハァハァ……」
無駄な自尊心が僕を支配している。逃げれば逃げるほど、怪しまれたり余計なことを考えさせてしまうのは理解している。それなのに、こんな子供みたいなことを――。
「この歌が誰にも届かなくとも、私はこの歌を永久に紡ぎ続ける♪」
「ぁ……」
その透き通った琉歌の歌声を聞いて、僕の中で時がとまった。重かった体が上からスッと糸を引っ張られるように軽くなった。
しかし、体の負担が消えたのはその一瞬だけ。その後には――。
「あ゛……」
頭の中に得体の知れぬ液体を入れられて混ぜられているような、気味の悪い感覚が僕を襲った。耐えきれず、その場に座り込む。もう琉歌の歌は聞こえない。いや、歌ってはいるのかもしれない。それが僕の耳の中に入って来ていないだけで。
視界も湾曲している。その湾曲する視界の中で、一人の少女が現れた。それは幼い頃の美月だった。
「どうして……う゛……」
右手で頭を押さえ、左手を幼い頃の美月に向ける。手を伸ばせば届きそうな位置だったから。しかし、その手が美月を掠めようとした瞬間だった。
『宝物ここに入れとく。あんたのアホ面』
岩の近くの地面を美月が指差した。
「え……」
理解、それをする余裕はないままにその光景は消えた。
「――ま! ―――か?」
陸奥大臣の声が遠くでぼんやり聞こえる。
「美月……」
僕は土を掘り返すため、立ち上がろうとした。しかし、動かない。
「ごめん……ね」
「巽様! 美月様がどうかされたのですか!? なんとか言って下さい!」
陸奥大臣の大きな声が鼓膜を破ってしまいそうだった。お陰で完全に意識が覚醒し、もう奇妙な感覚は消えた。
「え? あぁ……そこにいたんだ。昔の――」
言いかけたがやめた。信じて貰えるようなことではない。幻覚を見ていたのかもしれない。
(どうして、琉歌の歌で?)
「あー巽さんと陸奥さん! どうしたのー?」
声のする方を見上げると、琉歌が手拭いで髪を吹きながら、窓から身を乗り出していた。下から見ていれば分かる。体の半分を外に出している琉歌の状況は非常に危険であることが。
「琉歌!? 危な――」
絵に描いたように琉歌は態勢を崩し、琉歌は甲高い叫び声を上げた。琉歌の体は下に向かって真っ逆さまに向かっていく。
「琉歌様!? ここは私が!」
陸奥大臣が手を伸ばした。すると、琉歌の体は時がとまったように宙に浮いた。