縄張り
―港町 夜―
「愚かだな……嗚呼、本当に」
ぼんやりとした意識の中、僕はその声を聞いた。
(小吉さん……?)
確か目に激しい痛みと熱さがあった。しかし、今はもうない。その代わりに体が重くだるい。今、僕は何をしているのだろう。
「我の言葉をこんなにも簡単に信じてくれるとは……騙しがいはあるけど、なんだか複雑な気分だよ。だって我の体の一部から生まれた存在なのに……ん? あれ、もう獣っぽい臭い消えてる。今はもう彼か。表だって出てくると力を消耗しちゃうのかな? 所詮は人の手から生まれた存在ってことだね……ま、いいか。どうせ話は聞いてるんだろうし」
僕の視線の先には、小吉さんの顔が見えた。こちらを見ることなくブツブツと言い続けている。下から地面を叩く音がする。僕を抱いたまま歩いているようだ。
「……男をお姫様抱っこする日が来るとは。はぁ~我が君を食べたら何が起こるか分からないしなぁ。残念だけど、今は我慢することにするよ」
「な……んでお姫様抱っこを……」
「え? 話せば長いよ?」
僕に視線を落とす。
「じゃあいいです……」
「そう? 次君が目覚める時には、もう体は楽になってると思うよ。これからの我の為にも、君の力が必要みたいだし」
そう言って、小吉さんは大きな手を僕の目の上にかざした。僕は、真っ黒に染まった世界に再び誘い込まれた。
***
―薫太夫 光儀楼 夜―
あたしは、部屋の窓から景色を眺めていた。普段からこんなことをしている訳ではない。ただ、違和感を感じるのだ。明らかに外の様子がおかしい。
(怖い……何が起こってるの? いつもより道にも人がいないし、向こうの方の空は変に光ったりしてるし、爆発音みたいなのも聞こえるし)
遠くの空が橙色に光った後、そこからは煙のようなものが現れる。その臭いなのかは不明だが、焦げ臭い。普段はやたら賑やかな大通りには客はいない。いるのは吉原に住む者だけだ。
「姐さん」
すっかり外に気を取られていたあたしは、千幸が隣に来ていたことに気付けなかった。
「ん?」
千幸はあたしの着物の袖を掴んで震えている。どうやら千幸にも、この違和感は感じるらしい。
「怖い……怖い……」
あたしは、優しく千幸の頭を撫でた。外の音や光、臭いを感じないように千幸の顔を袖で覆い隠した。
(千幸……大丈夫だよ、あたしがそばにいるし。それに、何かあったらきっと彼が……)
あんなに軽くて最低で嫌な男なのに、何か困ったことが起こると派手な彼のことを考えてしまう。困った時、助けて欲しい時に彼は来てくれる。
こんな時だからこそ、軽く楽しませて欲しい。もうそろそろ来てくれる時間だろう。
(どうしてあんな奴を……いいえ、あんな奴だからこそ?)
そんなことを考えていた時だった。背後に突然人の気配を感じた。
(いつもだったらおばば様が呼ぶのに……たまたまかしら)
しかし、そんな疑問は遠くへ捨てて、ついに来てくれたのだと顔を背後に向ける。しかし、そこにいたのは彼ではなく他の男。見たこともない人、前来た巽とは訳が違う。
あたしは危険を感じて、千幸を後ろへ移動させる。
「噂通り……とっても美しい女性だ。絵に描いたような……いや、あらゆる理想と憧れが具現化したような……こんな所で朽ち果てていくのだと思うと悲しく思うよ」
男は薄ら笑いを浮かべる。
「怖いでありんす……姐さん……」
「そんなに強く睨まないで欲しい……なんて言っても無駄か。仕方あるまい。ここを縄張りにしている化け物がいてね……封印を解いてやったというのに逃げた愚か者だ。人を舐めている奴でね、罰を与える必要があるのだ。悪く思うな……」
男は手をあたし達に見えるように差し出して、指を鳴らした。瞬間、男の姿は消えた。それと同時に辺り一面が火に包まれた。