後悔と苦しみの時間
―自室 朝―
「嗚呼、楽しみだよ」
彼女の喜ぶ顔を見ると、安心と同時に何か複雑な感情が沸き上がった。恐らく、それは嘘をついてしまったことへの申し訳なさだろう。
でも、風邪のせいで味がしなかったとか言ったら、彼女の時間を無駄にさせたことになるし、傷付けてしまうのではないかと思った。結局、これもまた僕には苦しい選択だった。しかし、嘘をつくという選択をしてしまった以上、もうそれを突き通すしかない。
僕は苦々しい気持ちで、お粥の入っていたお椀とスプーンを彼女に渡した。
「ベットはこのままでいいよ、この本を読みたいから」
僕は、枕元の机に置いていた本を手に取った。普段、寝る前に読もうと思って結局読めていないものだ。
「分かりました! では、またお昼に来ますね!」
頬を真っ赤に染めて、幸せそうに笑うその姿は可愛らしくもあり美しくもあった。まるで天使だ。そして、彼女は足早に扉の前へと向かう。
(きっと、僕が嘘をついてるだなんて思いもしてないし、疑うこともしてないんだろうな。純粋に信じてくれてる。ずっと彼女には、このままでいて欲しいな……心の美しさをそのまま、なんて無理か)
「失礼しました!」
「有難う」
僕は、彼女に口角を上げて微笑んだ。
そして、彼女は深くお辞儀をした後、扉を開けて部屋から出て行った。徐々に扉が閉まって姿が見えなくなる時、彼女の鼻歌が少し聞こえた。
「ん~んん~♪」
「えっ!?」
しかし、聞こえたのはその部分だけだった。足音と共に、鼻歌は遠くなっていった。
(あの旋律……間違いない。あの独特な旋律と歌詞は、今でも鮮明に覚えてる。あの子供の歌声は彼女だったのか? 今思えば、声色も似ているような気もする。もしそうだったとしたら、彼女は使われていない部屋にいたということになる。それに、あの言語は我々が普段使うものではない。あの人が僕に何かをする時と似たような言語だ。二人は何か関係があるのか? それとも偶然か?)
考えれば考えるほど、疑問は沸き上がる。
(何一つ僕の疑問は解決していない。僕のこともあの人のことも、あいつのことも。あの歌声も、全て)
僕は真実が知りたい、ただそれだけなのに。真実が知れると思った矢先に、信じていた一人に裏切られ、真実を知ることは自分にとって簡単ではないと思い知らされた。
不安、後悔、憎悪、絶望、苛立ち、悲しみ、自分がそれらを抑えきれなくなると同時に、自分が自分でなくなってしまっているような恐怖。それによって、自身の中にいる何かが出たがっているような感覚。
自分が自分でなくなる。それが確実にゆっくりと迫っていることに、昔から目を背けて来た。
しかし、もう背けるのは限界なのかもしれない、僕の前、いや目の前にいる。すぐそこまでもう来ている。もう駄目なのかもしれない。限界が来ている。耐えられない。
(僕に早く誰かに言う勇気があれば、誰かに伝えることが出来たら、独りでこんなに……こんなことには……)
僕は弱い。その弱さを誰にも見せたくない、だから強がった。その強がりが、この結果をもたらした。過去の自分の選択が今の自分を苦しめている。
(全てにおいて、僕の責任だ。僕の……)
何もない時間、気付けば僕は僕を責め立てていた。あと今日を入れて二日。こんな時間が続くのだ。
「巽? 大丈夫?」
扉の向こうから声がした。母上の声だ。
僕は零れ落ちそうになった何かを必死に堪えて、そして出来る限り明るく返事をした。
「大丈夫です。母上」