届かない声
―鍛冶屋 昼―
僕の頬に振り下ろされた手を、ギリギリで掴んだ。
「ちょっと殴らせなよ! 腹立つ!」
「嫌ですよ!」
この国の女性は、とりあえずムカついたら殴るというのが当たり前なのだろうか。ただ、亜樹さんの力は僕の周囲にいる女性と比べると弱かった。しかし、それは睦月や美月が強過ぎただけなのかもしれない。
「デリカシーってもんがあるでしょ!?」
「でりかしぃ? なんのお菓子ですか?」
短い単語だったので聞き取れた。だが、意味が分からなかった。お菓子っぽい名前だったが、急にお菓子を出すものだろうか。
「はぁ!? そんなことも知らないの? 今や結構常識だよ!? 亜樹みたいな学校とか行ってもない奴でも知ってるんだよ?」
「学校……」
「そ! 貴方みたいな人が絶対行ってると思ったのに」
学校、それは僕にとって行くことが許されない場所だった。城の外に出ることも出来なかった当時の僕には小さな憧れの場所でもあった。
しかし、僕らも学ばないという訳にもいかないので城に学者達を招いて、僕らは勉強をする。
(国民皆が学校に通うわけではないのか……?)
「僕は……」
「雰囲気はあるけど、亜樹達と同じなの?」
「同じ?」
「おうよ~、亜樹は学校に行くお金もなかったから仕方なく働いてるけど、貴方もそうなのかねっとね」
僕は亜樹さんの手を離す。
「まぁ……それはまぁ……」
「そっかぁ~残念。じゃあ、これ読めないかぁ」
「ん?」
彼女は残念そうに雑誌を取り出した。その雑誌は若者向けの物だった。城で、貴族の娘達が楽しそうに読んでいた記憶がある。
「ちょっと前に亜樹の旅館に泊まってた人がくれたのだよ~。でも、亜樹も勿論この村の人読める人なんていなくって。他の宿泊客の人も皆読めないってさ。で、そんな所に血塗れの身分高そうな人がって! でも学校行ってないんじゃね~」
(月刊風月……三月号、結構前のだ。見出しには、吉原先取り髪型特集……なるほど)
「月刊風月の三月号ですよ。吉原で流行っている髪形の特集をしているみたいです。今は変わってるかもしれないですけどね」
僕がそう言うと、彼女は目を見開いた。
「えぇぇえええ!? 読めるんかい!」
「読めますよ。学校は行ってなかったですけど読めます」
「えぇぇえええ!? 凄い!」
「でも、商売とかやってたら文字って必要にならないんですか?」
ちょっとした疑問だった。商売に言葉は必要不可欠だし、何らかの取引で文字を使うことはありそうだ。なのに文字を知らないとなると、一体どうしているのだろうか。
「ん~あんまりそんなのは気にしたことなかったかなぁ。だって村の人も皆文字知らないし、来る人も文字知らない人がほとんどだから、会話だけでどうにかなってるんだ。でも、文字知ってたらもっと色んなことが出来るんだろうなって思う」
(国民全員が学校に行ってないっていうのと文字を知らないってのは結構大きな問題だよね……いつか国に大きな打撃を与える。化け物調査の方とか公務とかでそこにまで手が回らなかった……やっぱり帰った方がいいかもなぁ)
「僕でよければ教えますよ。助けて頂いた恩がありますから」
「え! 本当?」
彼女は前のめりになって、嬉しそうに目を輝かせる。
「うん、書く物ないかな?」
「使わないのに書く物なんてないけど、書くことは出来るぞ~!」
「え?」
自信満々に彼女は扉を開けた。外が見える。
「地面に書いて教えてよ!」
「地面に書くんですか!?」
「そう言ったじゃない。ちょっと待ってね、いい感じの木の棒探してくるからさ」
そう言うと、彼女は裸足のまま外へと飛び出した。
「ちょ……ま!」
この声は、勿論彼女には届かなかった。
(待ってよ……体を……)
恐る恐る体を動かすと、やはり激しい痛みが僕を襲った。
「う゛っ……」
(一体どんくらいの怪我なんだ?)
僕は服を捲ってお腹を確認してみた。すると、刃物で切られたような傷がいくつもあった。それぞれ全てが化膿しているだけでなく、大騒ぎするほどではないがまだ若干血が出ていた。
(嘘……だろ!?)
気分が悪くなり、僕は慌てて服を戻した。これで確実になった。
僕が化け物の姿になっていること、そして恐らく武者達によって攻撃されていることも。分かりきっていたことだけれども、改めてよりいっそう僕に恐怖を与えた。
死にたい、死にたくない。帰りたい、帰りたくないという矛盾の気持ちが大きくなって、怖い、苦しい、悲しい、寂しい、辛い、あらゆる感情が混ざり合う。
「助けてよ……」
誰にも届かない、誰にも聞こえない、誰も理解しない声が漏れた。




