理由
―廊下 朝―
「先生、大丈夫でしょうか……」
困り顔で口角を下げ、大事そうに絵を抱き締めている智さんは、母親の帰りを待つ子供みたいだった。基本的に彼らはずっと一緒にいるし、離れて行動しているのはほとんど見たことがない。
いつもシャーロットさんは若干それを面倒臭そうに、そしてどこが楽しそうに接していた。
「大丈夫ですよ」
一切根拠のないことだが、彼を少しでも安心させてあげたいと思った。
「はい……」
が、あまり効果はなかったようだ。しばらく声が聞こえた方に向かって歩いていると、突然智さんは立ち止まった。
「どうしましたか?」
「……ない」
智さんは、ぼそりと言った。
「え?」
「行きたくない……」
(なんで?)
僕は智さんの様子を確認する。彼は震えていた。鼻を塞いで、目は先を見て怯えている。
「嫌な臭いがするんです……私はこの臭いを知っています。私が全てを奪われた時の臭いと一緒です。見たくありません、行きたくありません」
ついに彼は、その場に座り込んで動かなくなってしまった。
(参ったな……臭い? 臭うか?)
僕は、鼻を先へと向けて必死に嗅いでみる。すると、微かではあるが独特な香りを感じた。でもそれで、どうして彼がそこまで嫌がるのか分からなかった。
(この匂い……どこかで……)
僕は、この匂いに覚えがあった。琉歌に、目を瞑って何かを食べさせて貰った時と同じ匂いだった。
「ちょっと待ってて下さい。僕が見てきます」
「お願いします……すみません」
彼の顔は真っ青で、今にも死んでしまいそうなほどだ。彼のことが気にはなったが、行かないことには始まらないので、ゆっくりと一歩ずつ匂いと声のした方向へと向かって行く。
(そういえば……ここの廊下は人が少ないのはいつものことだけど……今日はやけに少ないな。あんな不気味な声がしたのだから誰かが来てそうなものだけど)
次第に、匂いがどんどん強くなっていく。それは空腹の僕にとって実に食欲をそそるような匂い、でも一体何故それがここから匂っているのか不思議にも思った。
さらに進んで行くと、徐々に真っ赤な廊下が見えてきた。
(あれ? 向こうの廊下のある場所って資料室のある所じゃないか……おかしいな、あんなに真っ赤だったか?)
記憶を辿るが、廊下に赤い絨毯がそこだけ敷いてあった記憶はないし、壁も赤で塗装させていた記憶はない。それに、あんなに床に物体を落としているはずはない。
すぐに、それが異様な光景であることは理解出来た。心臓の音が大きくなっていく。
(まさか……これは……)
その真っ赤な場所の目の前に来た時、全てを悟った。これは――――血だ。そして、周囲に転がる物体は何人かの首だった。苦しそうな表情を浮かべることもなく、安らかに眠るかのよう。だが、この状況は安らかではない。
そして、その首の付近には恐らく人だったものの何かが散らばっている。首があったから、ならここにあるのは人の物だろうという理論だ。
周囲には首すらも残らなかった者達の眼球や歯も見えた。一体ここで何があったのか、何が起こったのか、この酷く陰惨な場所から僕は何を考えればいいのだろう。
異常な場所で惨たらしいものを見せつけられている。そして、それによって、何故だか食欲が沸き上がってくる。
惨たらしい、そう感じると同時に、美味しそう、とも僕は感じていた。
(おかしい……こんなのおかしい。違う、こんなの違う……)
ずっと水しか飲んでいない生活をしていたせいもあってか、目の前がご馳走にまで見えてくる。やがて立ち続けているのが限界になって、四つん這いになり、思わず血塗れた床に手を着いた。
ビシャッ、と生温かい感覚。さっきまでこの血は誰かの体の中で循環していたはずだ。
そして、目線の先には血の絡み合う肉の塊があった。
(駄目だ……駄目だ、食べてしまっては駄目だ)
分かっていても、我慢しなくてはいけないと思っていても、自分の本能のままに伸びる手をとめることは出来なかった。
(同じ味だ。ハハハ……あの時君がくれたのは、僕が美味しいと感じたのは……)
あの時、琉歌が言いたがらなかった理由、琉歌が焦っていた理由、琉歌が化け物だと周囲の者達に言われている理由、僕には分かってしまった。




