心に入り込む歌
―廊下 夜―
(急がなければ……僕はっ!)
人目を気にしながら、人混みを駆け抜ける。
(こんな時に限って! 誰も気付かないでくれ、誰も僕を見ないでくれ)
でも、その願いは当然叶わない。いとも簡単に打ち砕かれる。
「あら、巽様! 御機嫌よう」
「こんばんは、王様!」
「こんばんは、先ほどの騒動は一体何事であったのでしょう?」
老若男女問わず、僕を見て挨拶をする。それは礼儀だから当然だ。
だが、今の僕にそれに返しているほどの余裕はない。口を動かしても言葉を上手く紡げないからだ。それに、今の僕の口の中の歯は、獣の鋭い牙になってしまっている。感じる、見なくても分かる。
この牙を見せれば、それこそ異物でも見るような目を向けられるに違いない。それなら、まだどうにか言い訳が利く方をした方がいいに決まってる。評価なんて簡単に変わってしまうものだ。今下がっても、また上げてやる。
僕は自身の手を見た。爪はすっかり鋭く伸びて、今度は大量の毛が生えようとしていた。
でも大丈夫だ。この先は人通りは少ないし、僕の行こうとしている場所は滅多に人など来ない。周囲が、少しざわついているのを感じれた。ヒソヒソと何かを話している。
(うるさいうるさいうるさいうるさい!)
僕は固く目を瞑り、駆ける速度を上げた。
(嗚呼……なんて速く走れるんだろう、まるで風になった気分だ)
周囲にはもう人の姿は見当たらない。駆け抜けるのも、楽になった。なんとか足だけを使って走ることが出来ていた。
もし、ここで手を地に置いてしまったら僕の終わりだ。でも、本能的には地に手を置けないことへの苛立ちを感じている。理性だけが僕を保っている。
(あと少しだ。あと少しで、あの人に会える)
目的の部屋まで、あと少しと迫った所だ。
「――ら~そこ~♪」
突如、不思議な言葉で歌う子供の声が聞こえて思わず立ち止まってしまった。
その声が、数多くあるうちの部屋のどこから聞こえているのかは分からないが、その歌は僕にとって苦痛だった。
「えしる~♪」
「はぁ……ぐうっ!」
声にならない声が出る。その声は、獣のうめき声と何ら変わりなかった。
(息が苦しい。まるで心の奥底にまで入り込んでくるような……誰がこんな歌を? 何故ここに子供が? 使用人か? この周辺の部屋は誰も使っていないはずなのに……)
「うぐうっ!」
胸を押さえてもどうにもならず、耳を押さえてもその歌声は僕の中に侵入して来た。そんな僕の苦しみなど露知らず、歌は響き続ける。
「ん~ん~つ~♪」
(痛い。どうしてこんなよく分からない歌に苦しまないといけないんだ!)
歌を聞くだけで、こんなに苦しんだことはない。
(もう終わりだ……)
絶望を受け入れる覚悟で、自身の手を見る。何ということか、毛は生えてはいたが短いままだった。
(ただの歌ではない……というのか?)
「ほ~さほ~♪」
それを最後に歌は止まった。
(終わったのか? また後で原因は突き止めよう。こんな所でとまっている場合ではない。この姿を早く治して貰わなければ)
この歌の間に、何故かこの現象の進行は緩やかになっていたが、歌が終わると今までの何倍もの速さで身体が変化していることに気付いた。大量の毛が物凄い勢いで伸びている。
「う、がうっ」
自分の発している声が、まるで自分でないようなそんな感覚。
(早く助けてくれ……)
再び前傾姿勢になりながらも必死に駆けた。徐々に目的の部屋が近付いてくる。僕は救いを求めて、駆ける速度は自然と上がった。そして、その部屋の前まで辿り着いた瞬間、僕は我にもなく殴り飛ばすように扉を開けた。