5(加速)
ガツンと頭をやられた気分だった。
川崎にとって最後のお願いは、本当に最後のお願いになるのかもしれないのだ。
それを誰よりも身近に感じているのだ。
「川崎」呼びかけるときゅっと重ねた手を握ってきた。「本当に大丈夫なんだな?」
「最後だから」
「あんたケータイ持ってる? いざって時の連絡先とか万が一の場合は?」
「それをクリアしたらあきらくん、お願いきいてくれる?」
自分で退路を断ってしまったことを知った。
わたしごときが誰かの最後のお願いなど背負えるわけがない。「……ひとついい?」
「うん」
「なんでわた──ぼくなんだ?」
すると川崎はとても不思議そうな顔をした。
「毎日お見舞いに来てくれてる人にお願いするって変?」
その言葉に、わたしの意識は体操着にジャージを羽織ったあの朝に戻った。
担任がフルネームで出欠をとり、最後に彼女の名を呼んだあの日、あの朝。
全ての、始まり。
重ねた手からゆるゆると視線を上げる。
ぶかぶかなパジャマの所為で川崎はとても小さく見えた。
この子はわたしを買いかぶりすぎている。
しかし、なんとかしてやりたいとも思った。
「待ってるから」
真っ直ぐな眼差しに堪えきれず、私は顔を背けて部屋を後にした。
じっくり考える程に残された時間は充分でない。
帰りのバスの中、窓越しに夕暮れの街並みをぼんやり流し見た。
どうしてわたしだったんだろう。
小さく折り畳んだ紙切れを開いてみる勇気を持ち合わせていなかった。
翌日をわたしは空の席の隣でどうにも陰鬱な気分で過ごした。
どうすべきか決めあぐねていた。
放課後、廊下でジャージ姿の顧問とすれ違った。
右手の包帯は既に解かれ、痛みもない。小さく頭を下げたけれども気付かれなかった。
顧問の背中を見送り、帰宅部に混じって校門を出た。
学校を囲うフェンスに沿って歩いていると、活動を始めた運動部の掛け声が聞えた。
校庭は幾つもの部活が混じり合って、遠目には何の競技か分からなかった。
もう自分はあの中にいないのだと思った。
わたしはバスに乗って病院へ向かっていた。
「部活、いいの?」川崎の視線が右手に向けられた。「直ったんでしょ?」
わたしは首を振った。「辞めた」
「どうして?」
「向いてないから」
そう、と川崎は云った。表情から感情が見えなかった。
わたしは川崎の手を取ると、五角形に折られた紙を昨日のまま返した。「先生に頼んだがいいよ」
「そう」
川崎の顔を見ていられなくて、わたしは背を向け、鞄の肩ひもを直す振りをした。
さようならとも、またねとも、口に出来なかった。
「あきらくんはもう走らないの?」
「うん」答えながら、もう二度とここへ来れないと思った。
「なら、身体、頂戴?」
不意の言葉に振り返ったその瞬間、ひゅっと何かが風を切って眼前に迫り、避けるより早くボリッと太い音を身体で聞いた。
カッと顔が燃え上がった。
口の中で小さな欠片が舞い散り、咽喉に引っかかった。
崩れるように膝を突き、ゲェと嘔吐くと、折れた歯が床に落ちた。
甘ったるい血のにおいと、逆流した胃液が口いっぱいに広がった。
ゴツと横顔を張られた。
頬骨がめり込み、首が折れ曲がるのを感じた。
身体を支えられなくなった。
「大切にするから、ね?」
川崎の声は水の中で訊くようにはっきりしなかった。
濃縮された空気がわたしを押しつぶした。
咽喉からひうひうと喘息みたいな音が漏れた。
わたしは血溜まりの中に沈んで行った。
……──暗い。意識の大半がでっぷりとした泥に浸かったようだった。
変な夢を見たと思った。
なにか物凄い音がして、倒れ、何も見えなくなって──。
「やぁ」
声が振ってきた。
半分だけの狭い視界の片隅に白衣が見えた。「ちょっと行き違いがあったようだけど、まぁしょうがないかな」
薄暗い中でそれは青味がかって見えた。
それを白衣と呼んでいいのだろうか。
彼女は続けた。「キツイお仕置きはしておいたけれども、君もまた随分と酷いねぇ」
この人はいったい何を云っているのだろう。
頭がひどく重たい。考えるのが億劫だ。
「喧嘩両成敗じゃないけど、半々ってところで了解してくれる?」赤いメガネをかけたその人は、ニコニコと無邪気な笑顔を近づけた。「うん、ごめんね。君に意見は求めていない」
※
夜。先生と一緒に病院を出て、学校に忍び込んだ。
先生は乗ってきた車から降りずに、外で待っていてくれる。
ひとりで校庭を歩きながら夜空を見た。
新月。星が綺麗だった。走りたくてうずうずした。
ジャンプして屈伸。腕を廻してストレッチ。
身体には縦に横にと白い線が数えきれないほどたくさんある。
フゥと息を吐く。
よし。
校庭を見渡し──バン!
手足を大きく振り上げる。
ぐんぐんぐんぐん加速する。
風のように駆け抜ける。
新しい身体って最高。
─了─
パペット・ランナーズ
作成日2013/07/07 22:19:48