4(ニブチン)
翌日、手首は痛くも腫れてもなかったけれども、教えてもらった通りに包帯を巻いて固定した。
昼休み、顧問に病院へ行ったことと、十日くらい様子見るよう云われたと告げた。
「大事にな」顧問は云った。「無理して悪化させたら元も子もない」
右手を庇う生活だけがちょっと不便で面倒だった。
わたしの放課後の予定から部活が消えて、大学病院の川崎を訪ねることになった。
声をかけるのはいつだって川崎の方からだった。
なのに今はわたしが自ら進んで川崎に会いに行く。
いつ、どこで立場の逆転があったのか、そのきっかけが分からない。
ベッドの上の川崎は別にヒマそうでもなく、退屈に苦しんでいるようには見えなかった。
だらだらとなかなか高等遊民めいた風情で、ぶかぶかのピンクのパジャマ姿で絵理子先生と喋ってたり、テレビで映画を見ていたり、病人のくせにストレッチなんかしてたりする。
川崎だけでなく、絵理子先生とも良く遭遇したと思う。
ジュースやお菓子を貰ったりして、とりとめのない話をして、たいていは半時間くらいで病室を後にした。
「部活どうしたの」あんなに熱心だったのに、と晩ご飯の時、母は云った。
熱心だった憶えはないけど、適当でもなかったと思う。
特につまらないってことはなかったけれども、すごく大好きってこともなかった。
「手がこれだから」がっちり巻いた包帯で不器用な箸使い。「クラスの子が入院してて、お見舞いに行ってるんだ」
すると母は、あらまぁ、と口を開け、「あんたもケガ人でしょうに」ご家族も大変ね、毎日、行っているの? ご迷惑になってない?
立て続けに云われて、「大丈夫じゃないかな」一度で答えた。「追い出されるわけじゃないし、先生も一緒にいるし」
「病院はどこだって?」父が訊いた。
「大学」
ほう、と父。「あすこの先生方とは結構懇意なんだ」
知りませんでした。「お父さんの仕事と関係あるの?」
正直、父の仕事はよく分かっていない。
作業着姿で、いつも何かを作っているのは知っているけれども。
「大学の先生ってのは変わった人、多いな」
存じております。「女の先生なんだけれども、なんかお医者さんっぽくない」
「ふうん」父はご飯を頬張って、ふと気が付いたように、「小柄で赤いメガネかけてる?」
「絵理子先生、知ってるの?」
父は苦笑した。「世間は狭いな。一昨年だか持ち込んできた依頼品が面白かった」
「ふうん?」
「樹脂で作れないかって図面をね。NCにそのまま流しても充分なソリッドモデルで驚いたな。だからって一筋縄じゃいかなくて結構難儀した。仕上がりに先生は喜んでたね。とてもセクシーな──」心なしか視線を遠くに投げ、「心臓だって。小さかった。移植用の試作なら、患者は子供だと思う」
心臓。
川崎の胸の白い線を思い出した。
川崎の胸の中に父の手がけたそれが入っているのだろうか。
ふと、川崎が入院している理由の、その滲んだ輪郭を垣間見た気がした。
「印象深い先生だったんだ?」とわたしが問うと、父はその後も色々持って来たからね、と応えた。
「どんなの?」
父は迷ったように片頬を噛んだ。「義肢というか骨格だな。腱とか軟骨も。患者さんが協力してるんだと思う。モデルデータはその人のCTから起こしたものだろう」
「大人?」
「小柄な大人かもしれないし、子供かもしれない」
子供。
骨格。
もやもやとした輪郭が少しずつ形を見せ始める。どうにも胸の奥がざわついた。
「喋りすぎたな」父は情けない息を吐いた。「誰にも云うんじゃないぞ」
「でも絵理子先生と知り合いだよ」
むぅ、と父は唸った。「産業スパイって身近にいるもんだな」
母が笑った。
父は仏頂面になった。
翌日、わたしは川崎に訊ねた。「CTってやったことある?」
「あるよ。全身輪切りにされた」川崎はベッドの上で足をばたつかせた。「裸より恥ずかしかった」
いや、脇腹とかお尻の皮の下となれば確かに恥ずかしいだろうけれども、外から見られるのとどっこいだ。
しかし川崎は「もうお嫁に行けないっ」嘆いた。
「希望を捨てるのはまだ早い」
「あきらくん、貰ってくれる?」
「どうしてわたしが?」
「あのさ、あきらくん」川崎はむすっとした顔をした。「わたしって云うのやめない?」
「は?」
「ぼくとかおれとか」絶対そっちがいいと断言した。
何故にそれをわたしに求める。
「ぼく?」
きゃあっと川崎は上掛けをはね上げ、すっぽりその下に潜り込んだ。「すごくいいっ」
川崎の病巣の所在が分かった。
頭も輪切りにしたろうに、こんな大事を見落としたのなら、絵理子先生大失点、ヤブ子先生に改名だ。「わたし、帰るよ」
がばっと上掛けが跳ね飛び、「違うっ」
「ぼく、帰るよ」
すると川崎は、小鼻を膨らませ、それはそれは満足げな笑みを浮かべた。「最っ高」
わたしは心の中で絵理子先生に謝った。
これは治療不能の域だ。
手遅れである。
立ち上がって通学鞄の肩ひもを斜め掛けにし、位置を直していると、「ん」川崎は握った手を突き出してきた。
受け取ったそれは五角形に折り畳んだ小さな紙だった。
訝しげに顔を向けると、「巡回時間」
「なんの?」
「飽きちゃった」
「だからなにが」
「病院」
「それで?」
もうっ、と川崎は鼻に皺を寄せ、「ニブチン」
知るか。「分かりやすくお願いします」
「今度手術するんだ」
さしものわたしも、その意味するところを理解した。イスに座り直し、そっと訊ねた。「どうしたいの?」
川崎が手招きしたので、ベッドに手を突き、顔を寄せた。川崎は耳に口を近づけ囁いた。「学校に行きたい」
「駄目なの?」小声で返した。
「うん。だから脱走」
わたしは身体を離し、見つめた。「本気?」
川崎はさっきまでとは打って変わって、真剣な面持ちになった。
上掛けに置かれたわたしの手に、自分の手を重ねた。
「あきらくんには迷惑かけないから」
「……すでに迷惑だろ」
「最後だから」




