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3(ランナーズ・ハイ)

 翌日、わたしは母に体調不良の連絡をして貰い、総体の応援にも、学校にも行かなかった。

 なんだか色々かったるくて、サボる腹積もりだった。

 捻った手首に痛みはなかった。

 けれども母に病院代を貰ってしまったので渋々保険証を持ってバスに乗り、わざわざ大学病院に行った。

 平日の午前は大混雑だった。うろうろするゾンビみたいな入院の患者さんを眺めながら呼ばれるのを待った。


 整形外科の先生は、わたしの手首を触ってくいくい動かし、どうしてこうなったかを訊き出し、「若いし大事にはならないだろう」とカルテに手首の絵を描いて、横に絶食中の蛇のような文字を書き添えた。

「一週間は様子見で、運動は避けること。痛みが続くならまた来るように」

 看護師さんに処置室で手首にテーピングされかけたが、アトピーで肌が弱いことを告げると、代わりにがっちり包帯で固定され、レクチャーを受けて放免、お会計に廻された。


 全部終わって時計を見たら正午少し前だった。

 記憶を頼りに面倒な道順で階段を昇って四階、川崎の部屋を訪ねてみた。

 ちょうどお昼だった。

 川崎は昨日と同じ丸イスにわたしを座らせると、「ごめんね」と、ベッドテーブルに置かれたトレーに乗った給食みたいな食事に箸をつけた。


 病院食はおいしくないとは良く聞くが。

 ぐぅとお腹が鳴って笑われた。


「半分こ」川崎はお茶碗からお箸でご飯をつまみ上げ、「ほらほら」

 立場的に逆だろうにと思いながらも、あーんと口を開けていた。

「お邪魔かなー」

 ばっちり赤メガネの絵理子先生に見られた。「病人からご飯をタカるとはすごいねぇ」

 恥ずかしかった。

「あきらくんも病人だよ」と川崎はお箸をわたしの包帯手首に向けた。

「どうしたの」と絵理子先生。

「練習中、転びまして」

 わたしの言葉に、「抜けてるでしょ」

 川崎が笑った。絵理子先生も笑った。

 苦笑する以外に何ができたろう。

 絵理子先生は昨日と同じく「ごゆっくり」と言葉を残して出て行った。

 もくもく食事をしながら、ふと川崎が云った。「いつもは一緒に食べるんだ」

「ふうん」

 ちょっと普通の医者と患者の関係とは違うんだと思った。「友達いないのかな」

 わたしの言葉に川崎は噴き出し、むせた。

 ゲホゲホ震える背中をさすってやると、温かくて、なんだかちょっぴりびっくりした。


 落ち着くと川崎は「もうっ」へなちょこパンチを繰り出した。

 もちろんかすりもしなかった。

 長居してもアレだし食事の邪魔をしてもナンだし、わたしは暇乞いをして部屋を出た。

「またね」川崎は手を振った。わたしも手を振り返した。


 廊下に出て、壁に貼られた矢印でエレベーターがあるのを知った。

 てくてく人気のない廊下を歩いていると、すいと白衣の赤メガネが横に並び、にこっと微笑みかけてきた。「ご飯、食べちゃった?」

 わたしは首を振った。「まだかかるかなと思って」

「そう。陸上部だって? 種目は?」

「八〇〇です」あぶれて勝手にエントリーされたことは話すこともあるまい。

 絵理子先生はへぇ、と、「君、早いの?」

 肩をすくめた。「ドベです」

「そうなの」くすっと絵理子先生は笑った。「周回遅れを利用して抜き去るヤツをけっ飛ばして棄権にするってのはアリ?」

「一発退場です」追放かもしれない。「棄権させるほどの危険行為なんて」医者としてどうなんだ。

「そのダジャレはイマイチだわね」

「そんなつもりじゃないです」変な人だと思ったけれども、なんだか憎めなかった。「先生ってあまりお医者さんっぽくないですね」

「なにそれ」ぷ、と絵理子先生は笑った。「わたしのことなんだと思ってたの?」

「違うんですか?」

「さぁ」他人事のように「どうかなぁ」チン、とベルが鳴ってエレベーターが到着した。「ねぇ。今度、君が走っているときに何を考えているのか訊かせてくれない?」

「はい?」

「ただの好奇心よ」

 扉が開く。「先生、」わたしはひとり空っぽの箱に入り、扉を手で押えながら訊ねた。「川崎はいつ退院できるんですか」

「いつでも。望めば今日にでも」


 逆にいつまでも入院していることだと思った。


 わたしは頭を下げて、一階のボタンを押した。

 絵理子先生は「またね」と白衣のポケットの中で手を振った。

 チンとベルが鳴って扉がすうと閉まった。

 わたしだけを乗せた箱は、少し揺れながら降下した。


 ランナーズ・ハイと云う言葉がある。

 走っているときのわたしの手足は目的に向かうのでなく、惰性で動いている。

 手と足がタイミングとバランスでペースに乗る。

 だから一度それが崩されると、わたしの手足はただひたすらに酷い有様にしかならない。


「きちんとペースを立て直せ」怒られたことがある。

 云われて出来るなら困ることなんてない。

 考えすぎと云われるし、よく考えろとも云われる。

 わたしはその日その日で手足のしたいようにただ走ることにした。

 それはまるで競技の操り人形。無心でいれば、いつかゴールに辿り着く。

 順位は問題じゃない。

 辿り着けばそこで終わりなのだ。

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